第15話
「なっ!? ぐぅっ!!」
ヤスリで丁寧に研いだ爪が首の皮膚に食い込んで来る。
伝わる痛み。
滲み出る血。
異変に気が付いた時にはもう遅く、志保は全力で肉を掻き毟る。
「志保!! 止めろ!!」
爪の隙間に喰い込む自分の肉。
頭の中がパニックになり、どうしたら良いのかがわからない。
それでもユイは身を守る為に両手を突き出す。
密着する志保の体は同じ女とは思えないくらいに強かった。
「結ちゃん……ユイちゃん!! ユイちゃん!!」
(息が出来ない!! 痛てぇし苦しい!! 目が霞んで来た)
細い指が首を締め付ける。
がむしゃらに暴れても、ちぎれるくらい服を引っ張っても志保は動じない。
酸素が体に供給されなくなる。
腕に力が入らない。
掻き毟られた皮膚から流れた血が上着を汚し、火が付いたように熱くなる。
「かぁっ!?……はぁ!!」
『ゲートの鍵を持ったオンナ!! このまま首をへし折ってやる!!』
首の骨がミシミシ悲鳴を上げ、肺から吐き出される息。
消えかける意識の中で聞こえて来たのは志保の声ではなかった。
さらに力を込めて締め上げられる首に悲鳴しか絞り出せない。
「がぁぁっ!!」
『あとどれだけ耐えられる? 一呼吸か、二呼吸か?』
「いいや、ゼロだ」
第三者の声、それは志保の左腕を掴み結の体から強引に引き剥がす。
関節が外れる嫌な音。
上着を引っ掴み軽い彼女の体を通路へ投げ飛ばした。
拘束が解かれた結も床へ倒れこんでしまうが、ようやく出来た呼吸で何とか消えかけた意識を回復させる。
苦しみから開放されるが傷付けられた首の痛みは消えない。
「ゲホゲホッ!! かはっ!?」
「休んでる暇なんてねぇぞ。ほら、立て!!」
力の入らない体を持ち上げられ立ち上がる結。
目線の先に居たのは後ろから付いて来てたタツヤだ。
「お前、居たのか?」
「邪魔が入った。敵の臭いが充満してる。とにかく逃げるぞ」
タツヤに引きずられるようにして通路を進む結だが、周囲の乗客がそれを妨害して来る。
ユラユラ揺れる糸の付いた操り人形。
瞳に生気はなく、本人の意思とは関係なく動かされる道具。
その中には左肘の関節が外れ、歩く度に腕がブラブラ揺れる志保も立ち塞がる。
『絶対に逃さない!! その女さえ殺せば、いくらキサマラだろうともう手も足も出ない!!』
「臭ぇんだよ!! 今すぐ息の根止めてやる!!」
イラつくタツヤはシルバーの鉄柱を掴むと炎を起こし、一瞬で溶解させ切断してしまう。
そのまま鉄柱を床から引き抜き、操られて居る志保に向かって突き進む。
鋭い視線は殺気を帯びており彼女に目掛けて右手を振り上げる。
まだ力の入らない結だが、その光景を見て声を張り上げた。
「ヤメろ!!」
だがタツヤの動きは止まらない。
振られた鉄柱は屋根の鉄板を斬り裂き金切り音を上げて志保に迫るが、寸前の所で宙に止ったままになる。
「ぐっ!? 何だよ、コイツは!!」
『俺の力を見くびるなよ。キサマが上位種だろうとも、擬態した状態で勝てると思うな!!』
鉄柱が手から離され窓ガラスへ突き刺さる。
そして目に見えない鋼の糸がタツヤの体に巻き付き大の字で宙に浮く。
布を引き裂き、柔らかい皮膚も容易く赤い線が浮き上がる。
さらに締め上げられる糸は固い筋を物ともせず骨にまで到達してしまう。
「この程度で俺を止めたつもりかよ!! こんなモン!!」
拘束された状態から逃げ出そうと腕を曲げるが数ミリとて動かない。
腕も、足も、がんじがらめにされてしまいもう抜け出す事は出来なくなった。
『アヒャヒャヒャ!! 処刑執行者が形無しだな』
「舐めてんじゃねぇぞ!! テメェみたいな雑魚なんざ燃やし尽くしてやる!!」
叫ぶタツヤは自分を釣り上げる糸を焼き切ろうと手の平から黒い炎を発生させる。
だが地の底から沸き上がる笑い声はそれを許さない。
『良いのか? 俺は知ってるぞ、お前が擬態に慣れて居ない事を。その炎で俺の糸だけを器用に燃やすなんて事が出来るのか? 自分の体も燃やすぞ!!』
「ムカつくヤロウだ。今すぐその面を踏みつぶしてやりてぇよ」
燃え上がった黒い炎を消したタツヤは歯ぎしりを鳴らしながら、ふらふらと立つ事もままならない志保を睨み付ける。
『くっくっく!! お前の炎は全てを消し去る、自分の体さえもなぁ!! いくら擬態した体の回復力が高くても、今のその体は脆い。そこで大人しく俺に喰われろ!!』
車両が大きく振動し、結は壁にもたれ掛かって持ち堪える。
鉄板が裂ける音が響き天井に大きな穴が開き長くて太い足が飛び出す。
甲殻類の様に固い殻。
鋭利な足先はノコギリの様。
鋭い牙を剥き出しにして天井を喰い破り、魔獣の巨大な顔が姿を現した。
緑色に光る目玉が幾つもギョロギョロ不気味に動きまわり、タツヤを見つけると目前にまで迫る。
「ようやく見つけたぜ。ココロをもてあそぶ蜘蛛」
『キサマを喰い殺して女を殺す。ここの人間共はもう俺の意のままだ!!』
「だったら初めからアイツを操れば良かっただろ?」
『俺は自分で殺さねぇと気持ちが収まらねぇんだ。俺を処刑する筈だったテメェが今は俺の巣に引っ掛かった獲物。頭蓋骨から脳ミソ吹き出しやがれ!!』
操られた乗客達が前からも後ろからも結に狙いを定めて歩いて来る。
中には志保も居り虚ろな目をしたまま手を伸ばす。
「止めるんだ志保!! アタシの声が聞こえないのか!?」
叫んでも結の声は届かない。
以前の魔獣とは違い目の前の相手は何の関係もない生身の人間である。
故に彼女は気力を振り絞り行動に移る事に躊躇した。
だがそうして居る間にも一歩一歩、魔獣に操られた人達が結を囲む。
戦う力もなく、逃げる場所もなく、彼女の体はまた恐怖に震える。
「あぁぁ……」
『もうどうする事も出来ない。テメェらはここで死ぬ!!』
笑う魔獣、結の精神が折れそうになる。
(こっから逃げるには志保を倒すしかない。でもアタシにそんな事出来るかどうかもわからない。それに――)
志保の左腕はタツヤが強引になぎ倒したせいで青黒く腫れて居た。
関節が外れ力なくブラブラ揺れる様に痛々しさを感じずには居られない。
(これ以上関係ないアイツを痛めつけるなんて無理だ!!)
結の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
状況はもう変わらない。
迫り来る人達の足音。
魔獣の不愉快な笑い声。
緊張で高鳴る心臓の音。
「お前、やっぱり馬鹿だ」
『戯言を。ぐふふ、気でも狂ったか?』
「ここに来て少しだけわかった事がある。馬鹿はよく喋る」
次の瞬間に魔獣の緑色の目玉の1つが潰れた。
『グガアアアァァァ!!』
紫色の血が吹き出し、巨大な姿をした蜘蛛が痛みに悶える。
『な、ナニをしたぁ!!』
「テメェのない脳ミソで考えな!!」
『殺す!! 喰い殺す!!』
激昂する魔獣はタツヤに牙を突き立てるが寸前で動きを止めた。
車両に突き刺さって居た足も引き抜き、線路の上へ逃げ出してしまう。
タツヤの体を縛って居た糸が解かれ自由になると同時に、操られていた乗客も開放され意識を失いドミノの様に倒れた。
「戻った!!」
地に足を付けたタツヤは急いで振り返り結の元へと向かう。
意識のなくなった乗客達の中で彼女は志保を抱きかかえて動かないで居た。
「無事だな」
「あぁ……アタシは大丈夫だけど」
志保も目をつむって動かなくなっており、結は優しく抱き締める事しか出来る事がない。
「あの魔獣はどうしたんだ?」
「アイツが来てくれた」
そう言うタツヤの口から見える八重歯はいつの間にか抜けて居た。
///
冷たい夜風が吹く中で彼女は巨大な蜘蛛の魔獣の背中へ乗って居た。
ハイヒールで相手を踏み付け、冷気が漂うレイピアを突き立てる。
「下等種の臭いニオイ」
呟いた一言は闇の中へ消える。
『グギャアアアぁぁぁ!! キャあああァァァ!!』
耳を覆いたく鳴る悲鳴が空気を振動させる。
車両に組み付いて居た魔獣は足を引き抜き、痛みの原因を取り除こうとジャンプした。
巨体が着地する事で地面が大きく揺れるが痛みはまだ消えない。
悶え苦しみ暴れまわる。
線路を断ち切り、砂利をまき散らす。
砂煙を舞い上がらせ耳障りな甲高い悲鳴がいつまでも響く。
跳ね馬よりもさらに激しく暴れる魔獣、遂には体を反転させて痛みの元を断とうとする。
浮き上がった彼女はもうそこには居ない。
『ぐるるルルル!! 何処へ消えた!!』
「キサマ程度に逃げる必要などない」
レイピアを片手に持つ釈は冷徹な目線を向け魔獣と対峙する。
『もう1人の処刑執行者!?』
「下等種と語る舌は持ちません。一瞬で終わらせる」
『お前も見下すつもりか、人間に擬態してる分際で!! 今ならまだ俺でも!!』
咆哮が大地を揺らす。
口から鋼の糸を吐き出し闇に溶け込むスーツに迫る。
引き裂き、貫き、内蔵を引きずり出す。
だが息の根を止めた感触はない。
「所詮はこの程度。死ぬ覚悟は出来たな?」
背中から白い翼がはばたく。
体を貫く糸が弾け飛び、全身が白銀の甲冑が覆う。
歩く度に甲冑が動きカシャカシャ音が聞こえる。
『翼を持つ魔剣士!?』
羽毛が舞い散り、背丈を超える程の大剣を軽々と振り回し肩に担ぐ。
擬態を解いた処刑執行者の姿を目の当たりにし、魔獣は恐怖に打ち震える。
『ひ、ヒィィィ!!』
悲鳴を上げながら線路の上から逃げようとする魔獣。
だが8本ある足が1本、音もなく浮き上がる。
また1本、次は右側の足が地面に落ちた。
音もなく、血の1滴も出ない。
『溶岩にも耐えられる俺の甲羅が!! こんな一瞬で!?』
「これは只の大剣ではない。触れる事で物質の分子結合を解く。お前を殺すには勿体無い剣だ」
魔剣士の攻撃の手が緩む事はない。
翼がはばたく音。
大剣の切っ先が振り下ろされ、今度は左側の足が切断された。
1本、2本、3本。
歩く為の足が根本からなくなり、死にかけの蜘蛛は腹を引きずりながらでも前に進もうとする。
『クソッ!! とにかくまた人間どもの中へ紛れ込んでやる。キズさえ治れば、あんな小娘!!』
「この期に及んでまだ逃げられるとでも?』
『いつまでも強がっていれると思うな!! ここはアニロスとは違う。俺はキサマラから逃げれさえすれば擬態を解ける。お前みたいにこの世界に順応する必要などない。力の制限されたキサマラにむざむざ殺されてたまるか!!』
言うと魔獣の背中の内側から細い針が突き出た。
10本、100本、その数はもう数えきれない。
固い殻を突き破った針は共振し出し、虫が羽を震わせる音が響く。
「今更小細工をした所で」
『生き残れさえすれば、まだコッチに勝機はある』
「無駄な事を」
白銀の甲冑が足を1歩踏み出した時、針が一斉に発射された。
空を裂き、鋭い切っ先が迫る。
だが純白の翼が大きく羽根を広げると魔剣士の全身を包み込んだ。
何千本と飛んで来る針が甲冑に触れる事はなく、動けない状況が何秒も続く。
スコールのように降り注ぐ針を防ぎきった時には目の前から魔獣の姿は消えて居た。
「逃げたか」
翼を折りたたんだ魔剣士は切断されたまま放置された足をおもむろに掴み上げる。
大剣を地面へ突き刺し、何もない空間へ手を伸ばすと空気が歪んだ。
亜空間から刃の付いてない柄を取り出し、切断面へグリグリねじ込む。
紫色の血が溢れ出し柄に飲み込まれる。
///
逃げた魔獣は再び人間に擬態して高層ビルの屋上へ来て居た。
だがその体は回復が追い付いておらず、左腕がなく両足も満足に動かせない。
「ぐぅぅっ!! 逃げ切ったぞ。あとは1日もあれば動けるようにはなる」
肩を大きく上下させながら呼吸し、左腕だけでコンクリートの床を這いずり回る。
「次はこうはならんぞ!! 必ずあの女を仕留めてやる!! かなら――」
体の動きが思い通りにならない。
声すら出せず呼吸すら困難になる。
左腕も動かず完全にうつ伏せで倒れてしまう。
(どうなってる!? まだヤツが近くに居るのか?)
首も動かせず、目だけを左右に何度も動かすがその姿は映らない。
(なら、この息苦しい感覚は何だ!? どうして動けない!!)
状況が理解出来ない。
翼を持つ魔剣士は敵に休む暇など与えはしない。
次には失くなった左腕から血が吹き出した。
(なっ!? なんだぁぁ!!)
血は意思を持ったヘビのように宙に留まり狙いを定める。
(俺の血が勝手に!?)
血の蛇は持ち主である魔獣の体を喰らいに掛かる。
皮膚を突き破り背骨を砕く。
「ぐををぉぉォォォ!!」
最後の力が悲鳴を上げるのに使われる。
血の蛇は布を縫うように肉を上へ下へ進む。
体に風穴が次々に開き、吹き出す血も多くなる。
「ガハァッ!!」
縫い目が足にまで到達した時、蛇は新たに血を取り込みさらに太く大きく成長する。
ヌルリと動き頭を眼前へ向け、もう声も出せなくなった魔獣へ口を開いた。
「あぁ……へぅ――」
バリバリバリバリ、頭蓋骨が粉砕する。
ボリボリボリボリ、引きずり出された脊髄が細かく分断されて行く。
肉も骨も喰い尽くし役目の終えた血の蛇は、自我を失い血の海に変わる。
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