召喚
彼は寝台から飛び起き、廃墟から逃げるように出て行こうとした。だがそこでハウネルに出くわしてしまった。
「あら、もう行っちゃうの? まだ手の甲の目が――」
「わたしはこの手と生きていきます。だから大丈夫です。テトゥアによろしく言っておいてください。お世話になりました」
エシオンの声には焦りがあった。彼は踵を返し、廃墟から出て行った。彼にどうしようという展望はなかった。彼はただ、テトゥアから逃れる口実として出て行ったのは分かっていた。一緒にいれば間違いが起こる。彼はそれを予感していた。同時に彼は孤独感に打ちのめされていた。自分を受け容れてくれようとしたテトゥアを拒絶したわたしに、もう人を信じることは出来ないだろう。
もし魔界でエヴィレイの契約に乗らず、そのまま魔王に吸収されたら、こんな気持ちになることはなかったかもしれない。生きること、復讐だけを目的に生命界に生き延びたわたしは、残り少ない〈生〉を、孤独のまま終えることになるのだろうか? わたしにそれを受け容れられるだろうか?
日が傾き、影が東に引き伸ばされた。森は早くも暗闇に包まれ、視界が悪くなっていった。
エシオンは金属音に気がついた。ガシャ、ガシャ、ガシャ……規則正しい金属のこすれる音は、聞き覚えのあるものだった。これは鎧のこすれる音だ。軍隊が近づいているのか?
「隠れよう」
エシオンは茂みに入り、ようすを見ることにした。すぐに軍隊はやってきた。暗闇に紛れる黒い鎧、二頭の竜が交じり合った紅い旗……サウハード帝国の兵隊だ。乱れぬ行進を続けながら、サウハード帝国軍は闇夜に姿を消した。
「まずい……」
〝どうした?〟
「胸騒ぎがする。あいつは、わたしが去った町を狙っているんじゃないかと思う」
〝根拠はあるのか?〟
「……わたしがあの町からここまで、別の町の姿はなかった。こんな森の奥に他の町はないはずだ。だが、何のために?」
〝町にいる魔力で歪んだ者を捕虜として魔術戦争の材料にでも使うのだろう〟
エシオンは昼から進んだ道を駆け続けた。あの男に追いつかなければならない。
彼は灯りを見つけた。おかしい。まだ町の灯りが見える距離にいないはずなのに。エシオンは自分の頭の中に浮かんでいる可能性を否定しようとした。それは幻想でも、悪夢でもないことは、近づいたとき理解せざるをえなかった。
町は火に包まれていた。再び立ち上がろうとしていた町は炎によって絡み取られ、黒い灰と化していた。
サウハード帝国の兵士たちは町民を引きずり出し、鎖で繋いだ。捕虜にするつもりだ。
「何のためにこの町を襲った?」
兵士がヴァレンに向き直った。
「なぜこの町をだって? そりゃあ、こいつらは略奪者だからさ。帝国内で盗みを働いた。だから盗んだ分働いてもらおうとしただけのこと」
エシオンはその言葉に頭を打たれたような衝撃を受けた。盗みは彼らの生きる手段だったというのか? だとしたら、あの戦場で武器を盗んでいたあの男も? エシオンは右手の平を見た。震える手は、自然と紅い目に向けられた。
〝この者たちを救いたいか?〟
魔王の問いに、悩んでいる自分が情けなく思われた。盗みは、彼らの町を生まれ変わらせるためだったのだ。
「ああ」
〝人数も多い。魔力を多く精製する必要がある。そなたの体の一部は人間とは違うものになってもいいか?〟
「いい」
右手が勝手に顔の右半分を押さえ、手の甲の赤い目を介して魔界が視えた。赤黒い空に浮かぶのは、蛙のようなずんぐりした体にコウモリの羽根が生えている魔物の群れだった。
〝あれにしよう〟
右手に喰われているような痛みが走り、思わず手を離すと、彼の右手は金色の鱗に覆われた魔王のものと変わっていた。空から金切り声が響き、エシオンは空を仰いだ。そこには魔界で視た空飛ぶ魔物の群れが渦巻いていた。
「あれは魔物ではないか? 魔界で視た」
〝奴らは空鬼。まあ、思考力をほとんど持たぬハゲワシといったところか。血の匂いに引きつけられる……〟
エヴィレイが話している間にも空鬼はサウハード帝国の血塗れた武器に向かって降り立った。彼らは魔力を得ようと必死だった。その巨大な口を開き、兵士たちを飲み込んでいった。
「すごい……これが魔王の魔力だというのか? 軍隊すら無力だ! 〈魔術王〉を滅ぼすのも夢では――」
エシオンはそこで、魔物たちが町民をも飲み込みだしたのを見た。空鬼は無差別に獲物を飲み込んでいった。
「やめろ!」
エシオンの声は空しく町を包む炎の音と空鬼の笑い声にかき消された。空鬼の饗宴は燃える町を背景に、エシオンの目に焼き付いた。魔物たちの姿は一人、また一人と消えていった。この世界に存在する魔力を失った者たちは魔界へと帰らざるをえなかった。エシオンは早くいなくなるのをただ祈ることしか出来なかった。
キニシャックはこうして滅びた。彼は燃える町で後悔と罪悪の叫びを上げた。




