~幻精国~蒼き精霊の目覚め
幻精国の夜は明るい。空は青みを残しぼんやりと光っている。夜明けにも似たその光景は見る者を不思議の感にうたせる。
足元の白くなめらかな砂や、森に響く鳥の鳴き声、鼻にとどく水のにおいは五感すべてを冴えわたらせると同時に、時や空間といった概念をひどく頼りないものにする。さながら夢のようだ。
そんな中を一人の銀の髪の娘が歩いていた。黒いエプロンドレスを身に纏い、手には何か白い布を持って、迷うことなく目的地へとむかっている。
素足がもう何度も砂を蹴った頃、ようやく森をぬけた。そこに広がっていたのは湖だった。金色に光る満月が水鏡の如く映りこみ、湖の中央に鎮座している。
ふと、水月が揺れる。中央から波紋が広がる。そして、大きな音をたてて水面から影が浮かび上がった。はじける泡沫のなか、月に照らされ白い裸身がうつしだされる。腕からのびる青く透明な長きひれと、全身から生えた青銀の鱗。尖った耳に、首にはりついた紺色の短い髪。まるで半魚人のような容姿だった。だが、正しくは違う。その人は……。
「イエ=エネ様、ですね?」
やわらかな声が泉に響いた。発したのは銀の髪の娘だった。姿勢をのばし、声と同じくやわらかな微笑みをうかべている。
「……何者だ?」
深い青の瞳がいぶかしげにゆれる。
「わたくし精霊女王様の使いとして参りました。妖精のジルと申します。」
娘はそう言い、腰を深くおり礼の姿勢をとる。美しい所作だ、と泉の人物は思った。
「女王の……。そうか」
納得したのであろう、ジルの方へと近づき、泉から上がる。水が滴り落ちるとともに体から鱗やひれが消えさっていく。そして、その代わりに大きな金色の羽が背にあらわれた。
「きれい……」
意匠をほどこされた、うすくやわらかな織物のようなそれに、ジルは思わずそうもらした。
なにより気がすごい。ジルにも羽はあるがもっと小さく、気も弱い。
そもそも、気とは自然物から得られる特別な力のことである。そしてそれは妖精を精霊に変える力がある。肉体を有し、自然物から生まれた妖精は長き時をかけその身に気をため、自然と一体の存在である精霊へと生まれ変わるのだ。そして、ここにいるイエ=エネこそ精霊、それも高位の存在である。
「すばらしい羽ですね。さすがはイエ=エネ様。わたくし、このような羽は初めて目にしました」
瞳を輝かせるジルに、わずかにだがイエ=エネは笑みをこぼした。恐ろしいほど造形の整った美しい娘だが、案外愛らしい少女なのかもしれない、と。
「わたしの羽など女王の羽と比べたら粗末なものだ」
「女王様の、ですか」
「ああ、見たことないか?女王の羽は美しく清らかで、まるですべての聖なるものと慈愛がそこにこめられているような……。とにかくあれほど素晴らしい羽根はこの世に女王のそれ、ただひとつだろう」
「まあ、すてきですね」
イエ=エネの言葉に、まだ見ぬ女王の美しき羽を思い浮かべ、ジルはほう、と感嘆の息をついた。
「夜露殿、名付きのそなただ。いずれ見られるであろうよ」
その言葉にジルは恥かしげに頷く。名とは妖精、精霊にとって魂と体を縛り付けるためのひもであり、女王から与えられるそれは役目と親愛の証。そのため特別な名誉であるからだ。
イエ=エネは出した羽を確かめるように何度か動かした。羽を動かす久しぶりの感触が心地よい。このまま夜空を飛びたい誘惑にかられながらもあきらめ潔くしまった。
「イエ=エネ様どうぞこれをお羽織くださいませ」
ジルはそう言って手にしていた白い布―長襦袢をイエ=エネにかけた。
「すまない」
襟をただし、腹元のひもを結う。濡れた体の水滴はたちまち布へと吸われたが、少し厚い生地のためすけることはなかった。
「わたしは今の感覚が分からなくてな。ジル殿、いつまでも裸のままというのは無礼だったか?」
「いえ、何も身にまとわない妖精やほかの幻精族は少なくありません。何よりあなた様は今お目覚めになられたのですから。大丈夫ですよ」
安心させるようににっこりと微笑む。
「今回は精霊女王様より、あなた様が以前は服をお召しになっていたと聞きましたので、勝手ながらご用意させていただきました。城に帰れば他にもありますから」
「そうか、ありがたい」
二人は城へ向かうため森へと進んだ。
「それにしてもここもずいぶんと変わったものだな」
足元の白き砂をすくい上げるとつぶやいた。
「この砂、日の気がする。それにこの匂い、もとは草や花か」
イエ=エネの言うとおり、森に不釣り合いなこの砂は全て草花の変化したものだった。昼間は美しく咲き誇るが、月の光を浴びるとたちまち石化し砕け散るのだ。
「日の光を浴びれば元の姿を取り戻すのですよ。朝、花畑に集まる妖精達はにぎやかで、私初めて見たときは心底感激しました」
そう言って、ジルはそれはそれは嬉しそうに、花のほころぶような無邪気な愛らしい笑みを浮かべた。
彼女は夜に属する妖精であまり昼間の様子を見たことがない。そんな彼女にとってその光景は特別なのだろう。
「美しい、世界を創り上げたのだな」
彼女のそんな様子を見つめながらぼんやりとつぶやいた。
白き砂を握りしめ、蒼き精霊はかの人を想う。
「女王よ……今度こそ、力となろうぞ」