〜リンバイド王国・過去〜喪失の少女1
アマリリスの過去話。1.2と長くなりました。1がおじいさま編。2がヨル編です。
幼い頃は病弱でいつも死の影に怯えていた。街の埃を少し吸っただけで咳がとまらなくなり、少し疲れただけで熱を出す。そんなアマリリスを心配し、母はメイドの手も借りずにつきっきりで看病をしてくれた。父も忙しい仕事の合間に、娘を励ますためにと、お菓子や人形、綺麗な石のアクセサリーなどを買い付けて贈ってくれた。両親の優しさが嬉しくて、でも逆に申し訳なくて。そのため今のアマリリスとは真逆に、幼い少女はわがままひとつ、不満ひとつ言ったことがなかった。
ある日、父は少女の祖父に手紙を送った。内容は娘の病状を事細かに書き記したもので、終わりには『病を治したく、どうか知恵をお貸しください』という一文で締めくくられていた。祖父エイデバルドは知識の宝庫と称される程の博識な男である。そして、亡き妻を心から愛し、妻の生前は彼女の病弱的な体質を治そうと必死に奔走し続けていた。彼ならアマリリスの病を治せるのではと、父は密かに期待したのだ。
投函から三日後、届くだけで二日かかるというのに、ハヤブサを使ってわずか一日で返事がきた。その内容を読んだ父は、何やら娘に日光浴だの薬湯だのを試し、その効果の程が確かに表れると、妻と娘に祖父の屋敷に移り住むように告げた。祖父の屋敷は彼が亡き妻のため自然の中に建てた療養地でもあるからだ。
初めて会った祖父は、黒い影法師のように長く伸びた足、腰を曲げ覗きこむ眉のよった不機嫌そうな顔が特徴的で、幼いアマリリスは初め少し恐ろしかった。
祖父は不器用な人だ。一緒に歩いても子どもの歩幅を知らないのか、大股で早足に歩いては振り返ってその距離差に驚いた顔をする。頭を撫でたり、手を繋ぐこともひどく戸惑った。
ただ、何も食べたくないと熱に弱った声で訴えると、耳がもげたうさぎリンゴを剥いてくれた。そうして、ひどく優しい目で見つめては慣れない手付きで髪を撫でるのだ。それはアマリリスにとって幸福な一時だった。祖父を一番に慕うようになるのに、時間はいらなかった。
祖父と過ごす度、甘えたい様な、かまって欲しくて拗ねる様な思いがアマリリスの胸の内に湧き上がってくる。感情のままに怒り泣き喚いて、自分が我儘になっていくのを止められないのだ。今まで抑えていたものが祖父への執着となって溢れたようだった。
時は経ち、祖父と過ごしてから三年を過ぎた頃。身体はもうすっかり健康になった。そして八歳の誕生日を機に、本邸へと戻るようにアマリリスは父から告げられた。泣いて嫌がる孫娘にエイデバルドは諭して言った。
曰く、『こんな田舎の地ではまともな教育はおこなえん。知の喜びをそなたに教えた我輩の想いに報いてくれようと思う気持ちがあるならば、本邸へと戻り勉学に励め』と。
その言葉を無視することなど、どうしてできようか。アマリリスは離れるかわりに、週に二回は祖父の元へと訪れることを約束した。耳には餞別にとエイデバルドから送られた赤と青のピアスがある。嬉しくて、もらったその足で穴を開けに行った。
それから、さらに時は経ちアマリリスは十一歳となった。貴族の子女が社交界デビューを許される年だ。いつか約束した通りに、エスコート役は祖父が務めることとなった。
忘れられないあのラスト・ダンス。しわとペンダコだらけの手に少女は幼い手を重ね、高まる鼓動と音楽に誘われるまま幾度もステップを踏んだ。体がドレスと共にふわりと舞い、膝を曲げ目線を合わせたあの人が目を細める。
「楽しいか?」
ダンスの途中で余裕のない少女は焦りながらも勢いよく首を縦に振る。そんな少女の姿を見て、「そうか」とだけ返した祖父の表情はいつになく柔らかだ。曲が終わり、今度はゆっくりとしたリズムの曲が奏でられる。多少慣れて体の強張りをほどいた少女は、祖父が何やらぼんやりと天井を見つめていることに気が付いた。視線の先には照明がある。
「リウストーラですか?あのクリスタルガラスの大きな燭台は、確かおじい様が宰相だった頃に取り入れられたのでしょう」
「ああ。久々に見たが豪華なものだな。昔、あんなに蝋燭を使って浪費の極みだと言ったら、妻に笑われた。曰く、蝋燭はひとを幸せにするらしい。一本一本が揺らめきながらも一生懸命に明かりをともし、その下で多くの人が微笑んで、愛しい人の顔をこうして確認できるのだと」
それってロマンチックで最高に幸せなことだと思いませんか。嬉しそうにエイデバルトの頬に手を伸ばし、そう言っていた妻の姿が思い出される。まだ若い開きかけの蕾の時分に彼女を見つけ恋をした。盛大に眉間にシワを寄せた不機嫌男と、春の如き少女然とした娘という何とも不似合いな組み合わせだったが、身分も年の差も吹き飛ばして六年間かけがえのない時を過ごした。
「妻がそう遠くない未来に我輩を残し最期を迎えることは、婚姻の前から知っていた。だが、大きすぎる絶望に我輩はあらがい続け、死の間際でさえ彼女を困らせた。果たして妻は安らかにいけたのか。優しすぎるあの娘の事だ。魂と成り果てても自然へと還らず今も側にいる気がするよ」
目を細めリウストーラを見つめるエイデバルトの姿は、懐かし気でいて、永遠に失った想いの行く末を悼みようでもあって、胸が痛む。
「おじいさま・・・・・・」
幼いアマリリスには分からない、大きすぎる恋と、その苦しみ。
「そんな顔をするな」
顔をゆがめ祖父は苦笑する。そして、手を伸ばし少女の頬にそっと、手を触れた。
「お前がいるから、今は幸せだと思うよ。誰に言われたからでもない、我輩のためにようやく生きられる。灰色の日々は終わりだ。小さなレディ・アマリリスは私の色なのですよ」
声を失う。今きっとひどい顔をしているだろう。こんなの卑怯だ、不意打ちだと、アマリリスは顔を俯かせて思う。
「真っ赤だな」
「お、おじいさまはバカですの!?」
「何がだ」と、可笑しそうに応える祖父。無防備で、屈託の無い笑みは少年のようで、でも紛れもない男の人の顔で、手で。こんな感情は初めてだ。触れた手、見つめる目が落ち着かなくさせる。恥ずかしい。きっと未来恋に落ちるとしたら、こんな顔で笑ってくれる人、今と同じくらいときめかせてくれる人だ。
祖父が胸を手で抑え、一瞬顔を歪ませた。仰ぐように天を見る。
「どうかしましたの?」
「いや、何でも無い」
不満そうな少女の様子を見て、祖父は言葉を続ける。
「そうだな、幸福過ぎて眩暈がしたのかもしれない」
「素直っ!」
「ちゃかすな」
低い声を、呆れた様子で響かせる。ペンダコだらけの長い指がアマリリスの額を打ちはじいた。弱い痛みが広がる。
「よいか。今日くらいは甘い言葉とやらをはいてやる。だから真面目に聞け」
「はっ、え?」
今日の祖父は変だ。
曲が変わり、スローテンポな曲へとうつった。祖父は疲れたのか額に汗を浮かべ、苦しそうに息をしている。
「大丈夫ですか?疲れたのならダンスは中断して休憩を」
「いや、よい。せっかくのお前の社交界デビューだ。最後まで踊り切ろう」
「なら、この曲が終わったら抜けますわ。ご無理はしないでくださいね」
あと数分耐えれば祖父は休める。アマリリスはそう思っていた。
しかし、喘ぐ口、苦悶に歪む顔。いくつもの年を重ねた老体が少女の手を離れ宙を泳ぐ。そしてそれが当然とでも言わんばかりに、重力にそって勢いよく落ちていく。彼は視界の隅に愛しい孫娘の姿を捉えると、衝撃に、きつく瞼をとじた。どん、という鈍い大きな音がして、次いで少女のかん高い叫び声がホール中に響きわたる。
忘れられないあのラスト・ダンス。幸せが絶望に変わった日。世界で一番大好きな祖父エイデバルトが倒れた夜。
少女は後から聞かされた事だが、エイデバルトは少女の父の反対も押し切り、病体を引きずって社交界に参加したのだという。エイデバルトはそれから二晩床にふし、その次の朝永遠に帰らぬ人となった。
ーおじいさま?いやよ、いや。お願いだから置いていかないで!
泣き叫んでも、泣き叫んでも、現実は変わらないのだと思い知る。