その1
みっちゃんみちみちウンコ垂れて♪
紙がないから手で拭いて♪
もったいないから食べちゃった♪
プロローグ
小学生の頃、俺は近所でも評判の悪ガキだった。
例えば、気に入らないヤツを落とし穴にはめたり、毛虫を放り投げて女の子を泣かせたり……。
ただ中学に入って俺は変わった。サッカーと出会ったのだ。
ボールを追いかけているだけでムチャクチャ楽しくて、朝から晩までひたすら走り回っていた。キツイ練習もまったく苦にならなかった。
だから高校生になったら新聞配達のバイトをしようと目論んでいた。どうせ日も昇らない時間からランニングするんだし、一石二鳥だなと。
なのに、今の俺は――
「ふわぁぁぁあっ……」
眼鏡をクイッと押し上げ、溢れる涙を指先で拭う。
時刻は早朝五時半。いつもは生徒でごった返す通学路にも全く人気は無い。
「神様、どうして俺は日も昇らない時間に、クソ眠い目を擦って学校へ向かっているんでしょう……?」
天へ向かって呟くと、涙でしょぼくれた視界の中に、にゅっと太い腕が伸びた。
「それはオレと凡ちゃんが、二年B組の“文化祭委員”だからさ!」
そう言ってガシッと肩を組んで来たのは、もちろん神様ではない。親友のウメこと梅宮である。
通学鞄は丸ごと学校に置いていくという残念なポリシーのウメが、手ぶら状態の両手で俺の無造作ヘアをぐりぐりと撫で回す。
昨夜はウメがうちへ泊まりに来て、夜更けまでギャルゲーをやり込んでしまった。完徹したウメは、中途半端に二時間だけ寝た俺よりよっぽど元気そうだ。
「離せって、暑苦しい」
「つれないなぁ、オレは凡ちゃんのことをこんなに愛してるのに」
つまらんBLジョークをかまし、ハハッと笑い出すウメ。俺は「シャレにならんっつーの」と心の中でぼやいた。
ウメは自他共に認めるイケメン野郎だ。背が高く脚も長く、ロックバンドのボーカルっぽいエキゾチックな雰囲気を持っている。
なのに、高二の秋までカノジョができたことがない。
その理由は、ガチBL……ではない。良く言えば天真爛漫な――いわゆる『空気が読めない』性格のせいだろう。
出会ったばかりの俺に、「平凡な顔してるから『凡ちゃん』な!」とあだ名をつけるくらいだ。入学直後、外見につられて告白してきた子に「うぜぇ」とか「きめぇ」と本音をぶつけまくった結果、女子たちから総スカンを食らった。
そんなウメと対等に付き合えるのは、特別心の広い人間であるこの俺か、もしくは強烈な個性を持つ人物で……。
「ったく、たかが文化祭ごときで早朝ミーティングとか、マジだるいよなぁ。そんなもんは優秀な“葵サマ”に全部任せときゃいいんだよ」
「そうやって委員の仕事を逃げ回ってきたから、葵がブチ切れたんだろ? つーか、昨日ウメを俺ん家に泊めたのだって、本当は葵の指示だし。『ウメを一人にすると絶対ミーティングをすっぽかすから監視しろ』ってお達しがあってね」
「ウゲッ! またでしゃばりやがって、あのデブ女……」
「おいおい、本人の前でそれ言うなよ? 半殺しじゃすまねーぞ?」
葵はウメが言うほど太ってはいない。ぽっちゃりしているところがむしろ可愛らしい、クラスのムードメーカーだ。
ウメと葵は『犬猿の仲』だと思われているけれど、まあ俺は生温かく見守っている。所詮は『ケンカするほど仲がいい』ってヤツだし。
「そもそも文化祭なんて、ミスコンだけ見れりゃ満足だよな。当然本命は生徒会長……でも今年は対抗馬がいるし、楽しみだなぁ」
チラッ。
と、意味ありげに流し目を寄越すウメ。俺はさりげなく視線を逸らした。
去年のミスでもある生徒会長は、どの角度から見てもパーフェクトな美人さんだ。雑誌の読者モデルもやっている、綺麗過ぎて近寄りがたいほどの美少女。
それに比べて“彼女”の方は……。
「なあ、凡ちゃん。やっぱ水瀬さんもミスコン出るのかな」
「さあな。転校してきたばっかだし、性格も大人しそうだし、そういうの苦手なんじゃないのか?」
「まあ凡ちゃんは、出て欲しくないに決まってるよなぁ。これ以上ライバルが増えたら大変だもんなぁ」
うしし、といやらしい含み笑いをするウメ。このネタは地雷だ。こういうときは逃げるが勝ち。
「あ、そーいや俺、買うものあったんだ。コンビニ寄ってくわ」
「じゃあオレは先に行っとく。昨日からウンコ我慢してたのが、そろそろ顔出しそう」
「――バカ、早く行けよ!」
俺が叫ぶと、ウメは高らかに笑い声を上げながら走って行った。
俺の名前は、大木広人――平凡を絵に描いたような人間である。
中学まではサッカー一筋だったはずが、視力が落ちるのと比例してやる気も急降下。高校では帰宅部に所属し、どこにでもいるようなメガネ男子へとジョブチェンジ。
だけど、こんな俺にも「愛してる」と告白してくれる親友がいる。
最近は、転校生の美少女にドキドキしたりもしている。
だからこの人生に不満なんてない。平凡最高!
……と思っていたはずが。
まさか、あんな事件にぶち当たることになろうとは――
1
薄闇に包まれる早朝の学校は、なかなか新鮮な印象だ。
重たいコンビニ袋をぶらさげながら、色づき始めたプラタナスの並木道を通り抜け、校門をくぐる。
グラウンドには人っ子一人おらず、校舎も真っ暗。左端の職員室と、右端の離れにある用務員室にだけ、ぽつんと明かりがついている。
心地良い静寂は、俺が校内に足を踏み入れたところで見事にぶち壊された。
「――だからアンタには任せられないってのよ! このアホウメ!」
「はいはい、分かったよ。ほら、大好きな凡ちゃんが来たぞ?」
まるでリードから解放された子犬のように、葵がすっ飛んで来た。
肩口で切り揃えたボブヘアに、ビー玉みたいに真ん丸い瞳。ちょっと走っただけでパンツが見えそうなスカート丈だし、たすき掛けにしたショルダーバッグの紐が豊かな胸に食い込んでいて、目のやり場に困る。
「大木クン、おはよっ! 本当に大好き、アホウメと違ってね!」
そう叫ぶや、葵は白い頬を餅みたいにぷうっと膨らませた。
どうやらウメがまたデカイ地雷を踏んだらしい。俺がいればこじれる前に止めてやったのに。
「大木クン、ウメのことは放っといて、文化祭はアタシたちで頑張ろうねっ」
「うーん、頑張りたいのはやまやまだが、俺はウメをこの時間に連れてきたことで既に力尽きたぞ?」
「ホント、偉いよ大木クン。さすが影のクラス委員長! 未来の地方公務員!」
「ビミョーな褒め言葉をありがとう」
キャッキャとはしゃぐ葵をあやしつつ、スニーカーを脱いで靴箱前のスノコに乗ったとき。
「――おはよう。葵ちゃん、梅宮君、大木君」
鈴が鳴るようなその声を耳にすると同時、俺は手にした靴と荷物をボトッと落とした。
「あっ、おはようミナ! 先に来てたんだねっ」
嬉しそうに叫んだ葵が、廊下の向こうから歩いてきたロングヘアの女子の元へ飛んで行く。
真新しい制服を身にまとった彼女は、口元を覆ったマスクを外すと、白い歯を見せながら屈託の無い笑顔を向けてきた。
「うん、お母さんが車で送ってくれて……ちょっと早く着き過ぎちゃったから、保健室に寄ってたの」
眩いばかりの笑顔を直視できず、俺はそわそわと視線を彷徨わせた。
ブラウスの胸で揺れる青いリボンや、キュッと引き締まったウエスト、プリーツスカートの下から覗くほっそりとした脚……正直どこを見ても落ちつかない。
彼女の名前は、水瀬千花。
この二学期からうちのクラスに加わった、いわゆる時期外れの転校生だ。噂によると両親が離婚したため、母親の実家があるこの町に移り住んだらしい。
名前の通り、花が咲くように可憐な笑顔と、不意に見せる儚げな表情……。
うちのクラスの男共は、すでに完全にノックアウト。当然『影のクラス委員長』と呼ばれるこの俺も例外ではない。
イチャつく女子二人を尻目に、俺はウメの肩をグイッと引き寄せてナイショ話を開始。
「――おい、なんでここに水瀬さんが居るんだッ?」
「葵と水瀬さんの二人になったんだってよ、うちのクラスの文化祭委員女子。担任が『クラスに早く溶け込めるように』ってご指名で追加オーダーしたらしいぞ」
「……てめー、そのこと知ってたな? ウメが委員なんて引き受けた時点でオカシイと思ったんだ」
「そりゃ、水瀬さんとお近づきになれる大チャンス……ってのは嘘じゃないけどさ。オレはただ、愛する凡ちゃんの甘酸っぱい初恋を近くで見届けたいなーと」
「ちょっ、おま、ヘンなこと言うなって!」
思わず声を荒げたとき、耳をくすぐるようなソプラノの声が届いた。
「噂では聞いてたけど、二人って本当に仲がいいんだね」
いつの間にか、水瀬さんが俺たちの傍にいた。
こくんと小首を傾げるだけで、ふんわりと揺れる長い栗毛。パッチリしたアーモンド形の瞳は、好奇心いっぱいにキラキラと輝いている。小さな唇はリップが塗られていてツヤツヤだ。
ヤバイ、超カワイイ……。
「う、噂ってのは、いったい……」
「まあねー。オレと凡ちゃんは周りが嫉妬するほどの仲ですよ。昨日もお泊りデートだったし。水瀬さん、オレらが寝ないで朝まで何してたか、知りたい?」
挙動不審になる俺とは対照的に、テキトーな軽口をたたき始めるウメ。すかさず葵がカットインする。
「ウメのバカ! ミナは清純なんだから、変なこと教えないで!」
「ふふっ、梅宮君って面白いね」
ポンポンと会話が弾む中、俺は首を縦や横に振ることしかできない。なんせ視界に水瀬さんの姿が入るだけで、心臓がバクバクと爆音を立てるのだ。
あの生徒会長を見てもこんな風にはならないのに、オカシイ。
なにより俺は、水瀬さんのことを良く知らないはずなのに……。
外見だけで『恋』をするなんて、ウメに告白してきた女子たちと同じだ。ウザイとかキモイと思われてもしかたない。
だからこの感情は、きっちり封印せねばならぬ……。
「ま、まあ君たち、落ちつきたまえ。とにかく教室へ向かおうじゃないか」
辛うじて平静を保ちつつ、コンビニ袋とスニーカーを拾う。そのまま靴箱を開けようとして……ちょっと躊躇する。
うちの学校の靴箱には、各自が鍵をかけるシステムだ。上履きを兼ねる体育館シューズの盗難防止のために。
俺の靴箱の取っ手にも、駅前の百円ショップで買った小さな南京錠がぶら下がっている。
片手に重たいコンビニ袋、片手にスニーカー。これじゃ鍵が開けられない。その鍵は、尻ポケットに突っ込んだスマホの先にぶら下がっている。
「なあ、ウメ。俺の靴箱開けてくれよ」
「かしこまりました、ご主人サマ。ではお尻をこちらへ向けてくださいませ」
執事のように気取った口調でお辞儀をしてみせるウメ。
頼まなきゃ良かったと猛烈に後悔するも、後の祭り。葵は「キモい!」と爆笑しているし、水瀬さんもつられて笑っている。
……自虐的なネタであれ、こうして水瀬さんから笑いが取れたことは悪くないのかもしれない。昨日までは単なる一クラスメイトで、名前すら知られていなかったはずだし。
でも彼女はさっき俺の名を呼んでくれたのだ。これは大きな進歩だ。
まあ、ウメの方が俺より全然仲良くなってるけど……。
俺の靴箱へ向かうウメの背中に「とっとと失言して嫌われろー」と邪念を送っていると、葵が俺の手元を指差して。
「それにしても大木クン、どうしたのその荷物。遠足行くみたいよ?」
「ああ、うちの母ちゃんが『葵たちと早朝ミーティング』って言ったら、いつもお世話になってるからって小遣いくれた」
掲げたビニール袋の中には、俺とウメ二人分の朝食と飲み物、さらには葵が好きな惣菜パンやスナック菓子がたっぷり詰まっている。
テンションが急上昇した葵は、人目もはばからず俺の腕にじゃれついてきた。
「いやん、大木ママ大好き! いつでも嫁に行きますって伝えて!」
「バ、バカ……何言ってんだよッ」
誰かれ構わず「好き」だの何だのと思わせぶりな発言をするから、葵は男にモテる。
いつもなら笑ってスルーするところだが、今だけは「空気嫁!」とツッコミたい。水瀬さんが葵の発言の軽さをどこまで理解しているのか……万が一、本気で受け取られたら悲し過ぎる。
俺がさりげなく話題を変えようとしたとき、ウメが先手を取った。
「お、おい、凡ちゃん……」
今まで見たことも無いくらい真剣な顔をしたウメが、渡したスマホで俺の肩をゴツンと叩く。アニメキャラのストラップと南京錠の鍵がぶつかり、ジャラリと音を立てる。
「これ、見てみろよ……」
俺の靴箱へと視線を向たまま、声を震わせるウメ。
さすがにウメの態度が尋常じゃないと気づいたのだろう。二人の女子は顔を見合わせると、俺と一緒にそろりと靴箱を覗き込んだ。
その刹那――俺の目は、信じられない物体を捉えた。
四十センチ四方の靴箱は、上下二段に分かれていて、上の段には体育館シューズが収まっている。
そして空っぽのはずの下の段には、一枚の白い布。
それはどこからどう見ても――パンツだった。
母親が物干しにぶら下げているベージュのアレとは違う、純白レースでリボンのついた可愛らしいデザインの……。
その眩しい純白の上に、ころりと転がっている、細長く黒い塊。
「パンツと……ウンコ……?」
一度目をつむり、もう一度確認する。何度見てもパンツとウンコだ。
呆然とする俺の脇で、ウメがブハッと吹いた。
「ギャハハッ! 凡ちゃんの靴箱に、パンツとウンコ!」
「え、なんで……コレが、こんなとこに……? アハハッ!」
遠慮の欠片も無く大爆笑するウメにつられて、葵までもが吹いた。水瀬さんはありえない光景にショックを受けたのか、無表情で立ちつくしている。
俺はとりあえず、しゃがみこんで笑い転げるウメを蹴飛ばした。
「ウメ! てめー、今自分でコレ入れたんだろっ! ふざけんな!」
元サッカー少年である俺の渾身の蹴りも、ウメには一ポイントのダメージも与えられない。スノコの上に尻もちをついてヒーヒー言いながら、ウメは答える。
「オレじゃねぇって! オレが手ぶらなの、お前も見てただろーが!」
「ざけんな! お前以外に誰がこんなくだらねぇ悪戯をッ」
床に落ちたコンビニ袋から二リットルのお茶を取り出し、ソイツでウメの頭を殴ろうとしたとき。
「――ゴラッ! お前ら、何を騒いでる!」
「やべっ……」
スノコの上に転がっていたウメが、シャキンと音を立てるくらい一瞬で立ち上がり、直立不動の姿勢を取った。
やってきたのは無駄に暑苦しい体育教師、新堂だ。あだ名はゴリゴ31。
命名はウメだが、今やそう呼ばない生徒はいないほど定着している。
三十路のゴリゴが未だに独身なのは、濃過ぎる顔立ちのせいだけではないだろう。そろそろ夏服の季節も終わりだというのに、ゴリゴはランニングに短パン姿で校内を闊歩している。
そして、見た目だけじゃなく性格はもっと暑苦しい。
隙あらば生徒たちの会話に混ざろうとし、ささいな問題を大げさに悩んだり、時には頭ごなしに怒鳴りつけるのだ。
決して悪い先生ではないのだが……こんなときに会いたくないランキング、ナンバーワンの人物であることは間違いない。
「どうした。何かあったのか?」
ノッシノッシと近づいてくるゴリゴから目を逸らし、俺とウメはアイコンタクト。
『逃げるか?』
『いや、もう無理だ』
と、視線だけで会話を交わす。
今靴箱を閉じるとかなり怪しい。「何でもありません」としらばっくれたところで、ここを覗きこまれたらすぐバレる。
「またお前か、梅宮。今度は何をやらかしたんだ?」
「いや、あのぅ……」
「なんだ、はっきり言いなさい」
教師にはからっきし弱いウメが一歩引いたため、代わりに俺が口を開いた。
「えっと、俺の靴箱に、ちょっとした悪戯がされてまして」
「何だとっ? 見せてみろ!」
熱血教師として、見過ごせないと思ったのか。もしくは頻発する盗難事件が頭をかすめたのか。
しごく真面目な顔で俺の靴箱を覗き込んだゴリゴは……三秒後、真っ赤な顔をして吹き出した。
「おっ、お前ら、なんてくだらない悪戯をっ……ウハハッ!」
「ゴ……新堂先生、ヒドイっす! 笑うなんて……ぷはっ!」
せっかく止まっていたウメの笑いのツボが、ゴリゴの野太い笑い声によって再び押された。俺の背後でビクついていた女子二人も、怒られるという緊張感から解放されたのかクスクスと笑い出す。
「全く高校生にもなって、しょうがないヤツらだ。これは俺が処分しておいてやるから、お前らは教室に行け」
「はぁーい」
優等生の葵が素直な返事をすると、仁王立ちしたゴリゴはうんうんと頷いた。
「そうだ、一応これは悪質な悪戯ってことで、担任に報告しておくからな。職員会議でもしっかり取り上げるぞ。いいな? 二年B組大木広人」
緩みかけた空気が、ピリッと引き締まった。四人全員が「メンドクサイことになった」という顔をする。
というか、一番メンドウなのは俺だ。
ゴリゴは入学当時から、俺に対して「サッカー部へ入れ」としつこかった。きっぱり断ったのだが、きっとこの件を通じてまた勧誘を始めるに違いない。
「でも先生、別に俺は気にしてないんで、そこまでしなくても……」
「この下着は盗難品の可能性がある。もちろん大木が犯人だと言っているわけじゃないが、一応調査は必要だろう。それにコレは、大木に対する“いじめ”の可能性もあるんだぞ?」
――いじめ!
そうか、俺はいじめられっ子だったのか……って、そんなわけねーし!
影のクラス委員長として慕われてるし!
たまに雑用押しつけられたりするけど、全然パシリとかじゃないし!
「先生、あまり大事にするのはいかがなものかと……」
「よしよし。とりあえず後で話はゆっくり聞いてやるからな? とにかく教室に入っとけ。委員会の仕事もあるんだろう?」
ゴリゴのごつい手が、俺の頭をわしわしと撫でる。撫でるというか、俺の脳みそをぐらんぐらんと揺さぶる感じで。
目をつけていた生徒のピンチを救ったことで、気分を良くしたのだろう。「さて、軍手とビニール袋はどこにあったかなー」と鼻歌混じりに呟きながら、ゴリゴは職員室へと去って行った。
静寂を取り戻した生徒玄関にて、俺はウメを本気で睨みつける。
「おい、なんだよこの展開。マジでお前が犯人じゃないのか?」
「オレじゃねえって。さすがにこの流れは想定外。っていうか、お前――」
そこで、ブハッとウメが吹き出した。
「いじめられっこだったのかよっ! ウンコ菌! しかもパンツ泥棒!」
「てめぇッ!」
赤いカーペットの上を逃げて行くウメが、「ウンコバリヤー」という遠吠えをたなびかせ、整然と立ち並ぶ靴箱の影に消える。
がっくりと肩を落としつつ振り返ると、そこには当然二人の女子が。
葵の方はまだ面白がっているけれど、水瀬さんは……さすがにドン引き状態だ。
「……えっと、私は用務員室行って、保健室の鍵返してくるね。二人は先に教室行ってて」
水瀬さんがスカートのポケットをまさぐり、思い出したようにマスクを装着した。葵がその傍らにぴったりと寄り添う。
「ゴメンね、ミナ。体調悪いのに立ち話しちゃって。ちょっと顔色悪いみたい。一緒に付いてこうか?」
「ううん、大丈夫、気にしないで」
「そっか。それじゃアタシ、そこのおトイレ寄ってから教室行くわ。さっきウメとバッタリ会って入りそびれちゃったし」
「じゃあ教室でね。大木君も」
二人は手を振り、別々の方向へ。すぐに靴箱に隠れて見えなくなった。
一人残された俺は、うなだれながらとぼとぼと歩き出した。手にしたコンビニ袋がやたら重たく感じる。
「どーしてこーなった……」
水瀬さんと仲良くなれる絶好のチャンス到来、のはずだった。
なのに俺は『パンツ&ウンコ男』として、彼女の記憶に鮮烈な印象を与えてしまった……。
「まあ起こってしまったことはしかたない。第一印象が最悪なら、あとは上がっていくだけだしなっ!」
自分を鼓舞しつつ歩いていると、足の裏がひやりと冷たさを訴えた。
カーペット敷きの床が終わり、階段部分に差しかかったのだ。そこで初めて己が靴下のままだということに気付いた。
パンツとウンコにすっかり気を取られて、上履きに履き替えるのを忘れてしまった。
慌てて駆け戻り、半開きのまま放置された靴箱を覗いたとき、俺は不思議な光景を目にした。
「えッ……アレが、無い?」
散々笑いの種になった二つの異物――パンツとウンコが、跡形も無く消えていた。