三宅香帆と私のしているゲームの違い
一つ前に書いた記事「三宅香帆の配布する「文学サプリ」は必要ない」が『バズった』らしい。反響があった。
バズった感想を言うと、「三宅香帆にストレス感じている人は案外多いのかな」という事と「小林秀雄って本当に読まれていないんだな」という事だ。
それと、私の文章を前回の記事ではじめて読んだ人がいるかもしれない。これについて簡単に説明しておきたい。
私の想像でしかないが「こいつ、無名のどこの馬の骨ともわからん奴の癖に、(あの)三宅香帆さんに向かって偉そうな! けしからん!」と思った人もいるかもしれない。
私は三宅香帆という人は嫌いではないし、職場にいたら普通に談笑しているかもしれないと思う。まあ、向こうが拒否する可能性が高いだろうが。
私自身は三宅香帆に個人的恨みを持っているわけでもないし、普段から偉そうにしているわけでもない。ただ、私はこの領域、つまり私が文章を書く領域というのは、「文学」という歴史的に成立したものを舞台にしている。少なくともそう考えている。
なので、例えば、私の三宅香帆批判に反応して「ヤマダヒフミが小林秀雄をどう理解しようがそんなのは個人の勝手」といったような事を書いていた人がいたが、これは間違っている。
何故間違っているかと言うと、小林秀雄のような既に古典として成立している文学者をどう解釈し、どう理解するかというその事自体が、私という一個人が、既に成立している「文学(日本近代文学)」という領域に入っていく事を意味するからだ。
私は小林秀雄に対して真剣に向き合う事によって既に出来上がっている「文学」という領域に入っていくし、私自身もその領域内の存在になる。
これは私が無名か有名かは関係がない。私は過去の文学を理解し、解釈し、批判し、肯定する中で、文学という領域の内部に入り、自分もその一部になっていく。
これは「文学」というゲームなのだ。そして「文学」というゲームの一部に小林秀雄のような重要な存在は含まれている。私は小林秀雄を読み、評価し、また私自身がレスポンスとしての表現をする事によってそのゲームの一員になっていく。
「文学」にはそれ固有のルールがある。しかしルールを破るのも間違いではない。ただ、その領域に入ってすらいない人間が勘違いして、文学を馬鹿にする事を「わざとルールを壊す文学的行為」と勘違いする事はある。これは頻繁にある。
「文学」というものもある程度の決まった領域はある。厳密に領域が決まっているわけではないが、基本的には、古典文学という形で既に成立したものをどう読み、どう考え、どう評価するか、そして自分は批評とか創作という形で自分自身の応答を形作っていく。これが「文学」というゲームの実践となる。
そういう規準で考えるなら、私が三宅香帆をこき下ろすのは、私が「文学」というものに謙虚だからだと言えるだろう。
私は現代の生きた大衆をリスペクトしていない。私は死者が山積している文学という固有のゲームを愛する。私はこのゲームに対しては謙虚であるが、その反動としてこのゲームを蔑ろにする人間に対しては批判的だ。
一方、三宅香帆のような人はその反対だ。
三宅は文学というものを否定している。彼女自身は肯定しているつもりかもしれないが、彼女が「自分にあうかどうか」で文章の価値を判断し、現在の生きた大衆に合わせる為に必死に取り繕っている姿を見ると、彼女は「文学」に対しては傲慢で軽蔑的であり、その反対に今の大衆に対しては謙虚だと言えるだろう。
これは両者のしているゲームの違いとも言える。
三宅香帆に苦しい点があるとすると、それは三宅は文学を低いものに貶めているにも関わらず、これを素晴らしいものだと称賛しているという見かけを取り続けないといけない事にある。つまり彼女は自己の内部に欺瞞を抱え続けなければならない。
一方で私の苦しい点は大衆を軽蔑しているから、大衆から支持されないという事にある。私はこの重荷を背負い続けなければいけない。
これらはあくまでもゲームの違いである。前の記事で三宅香帆批判は十分書いたので、この文章ではあくまでもしているゲームの違いとして両者を考えてみた。
どちらのゲームが優れているかと考えるのは、それはこの文章を読んでいる読者の自由だ。




