第7話:「私、知ってるよ」と彼女は笑った。
(間違いない。葉月さんは、意識的に使ったわけじゃない。これは、手術経験者だけが持つ「身体の記憶」に基づいた言葉だ)
彼女もまた、あの時の地獄を、あの時の痛みを、全く同じ言葉で経験してきたのだ。
彼女の完璧な発音は、あの「しみる痛み」の感覚を忘れないように、絶えず自分に課した自己懲罰的な訓練の結果だったのだ。
凪は、葉月をまっすぐに見つめた。
その視線は、マスクの奥から、彼女の瞳に直接突き刺さる。
「そうか……訓練……」凪は、呻くように繰り返した。
「僕は、その……訓練を受けてないから、そういう言い方は知らないなって思っただけ」
凪は、咄嗟に嘘をついた。
彼は瘻孔の手術を受けている。
訓練もした。
しかし、それを葉月さんの前で認めることは、自分の人生の全てを彼女に明け渡すことになりそうで、まだ怖かった。
「……そっか。凪くんは、写真の通り、言葉よりファインダーの奥を見つめてきた人だもんね」
葉月は、そう言って、凪の言葉の嘘を、優しく受け流した。
その優しさが、凪の胸をチクリと刺した。
(嘘をついているのは、僕のほうなのに。どうして、彼女はいつも、僕を肯定しようとしてくれるんだ?)
葉月は、凪の自己開示を待ち続けている。
そのことを、凪は知っていた。それは、「共犯の復唱」で、彼女は凪の声を「僕らの秘密の言語」として認識したのだから。
凪は、葉月の完璧な笑顔を見つめる。
「ねえ、葉月さん。君は、どうしてそんなに……完璧でいられるの?」
凪が初めて踏み込んだ質問だった。
葉月は、目を伏せた。
彼女の顔から、張り詰めた和紙の笑顔が消え、初めて本心が覗く。
「完璧じゃないよ、凪くん。昨日、あなたに助けられたばかりでしょ」
「そうじゃない。あの時、あの瞬間の『失敗』一つで、葉月さんが築き上げてきた『光』は壊れない。僕には見えるよ。葉月さんは、誰も気づかないところで、ずっと、誰よりも懸命に『戦い』続けてきた。その努力が、僕には眩しいんだ」
凪は、一歩葉月に近づいた。
「僕は、戦うことを諦めた。マスクで隠すことで、逃げた。でも、葉月さんは、逃げずに、自分の身体と、言葉と、自分の運命と戦い続けた。それは、事故でできた傷を持った僕には、想像もできないことだよ」
凪は、あえて「事故」という言葉を重ねた。
これは、「偽りの告白」を強化し、その罪悪感を極限まで高めるための、凪なりの精神的な自傷行為だった。
この嘘の重圧に耐えられなくなれば、彼は真実を吐き出すしかない。
葉月は、その「事故」という言葉を、静かに受け止めた。
彼女は、凪の嘘を見抜いているかもしれないが、今は何も言わない。
「私にとって、完璧は、鎧だったから」
葉月は、静かに語り始めた。
「この鎧を着ていれば、誰も私を傷つけない。誰も私の『欠陥』を見つけられない。そう信じてきた」
「鎧……」
凪は繰り返した。
凪は、マスク越しの目だけで葉月を見つめた。
「葉月さんの鎧は、正面から世界と渡り合うためのものだ。誰にも弱さを見せない防御壁。でも、僕のこのマスクは、誰にも見つからないように裏口から逃げ出すための、弱い自分を閉じ込める箱なんだ。戦う意思なんて、最初からなかった」
「そんなことない。隠すことも、戦うことよ。でもね、凪くん。私も、時々、その鎧が重すぎて、押しつぶされそうになるの」
葉月は、凪の目を見て、今にも泣き出しそうな、しかし決意に満ちた瞳で訴えた。
「だから、昨日のあなたの声が、私にとってどれだけ重要だったか。あなたは、私が築き上げた完璧な世界を、音で肯定してくれた。あなたは、私の唯一の共犯者だから」
凪の胸は、葉月のこの言葉で熱くなった。
彼は、彼女の孤独な戦いを共有したいという衝動に駆られる。
しかし、「事故」という名の嘘が、重い鎖となって彼の喉を締め付けていた。
(この嘘は、もう限界だ。これ以上、葉月さんの優しさに甘えることはできない。僕は、僕の本当の姿を、醜い縫合線も含めて、彼女に見せなければならない)
凪は、深い罪悪感と、真実を語る恐怖に苛まれながらも、ついに決意した。
「葉月さん。僕は……君に、話さなきゃいけないことがある」
彼は、ポケットから手を抜き、マスクの下の人中の瘢痕に触れた。
そこが、まるで嘘の縫合線のように、チクチクと痛み始めたのを感じた。
凪が「話さなきゃいけないことがある」と口にしたにもかかわらず、葉月はそっと凪の手を包み込んだ。彼女の指先は温かく、凪の震えを落ち着かせようとしているのが伝わってきた。
「大丈夫だよ、凪くん。焦らなくていい。今日は文化祭で忙しいでしょう? また、二人きりで、時間を取って話そう」
葉月の言葉は、凪の告白を拒絶したわけではなかった。
むしろ、凪が自らの最も深い秘密を明かす準備をしていることを理解し、その勇気を大切に扱おうという、静かで深い優しさだった。
(葉月さんは、僕が何を言おうとしているのか、もう薄々わかっているのかもしれない)
凪は、その優しさが逆に胸を締め付けるのを感じた。
葉月が、自分の告白の真剣さを受け止めてくれたからこそ、彼は今、自分がつい口にしてしまった「事故による傷だ」という嘘の重みを、耐え難いほどに感じていた。
「ごめん……」
凪は、マスクの下でそっと唇を噛んだ。
「君はいつも、僕にこんなに優しくしてくれるのに、僕は……」
葉月は、静かに頷き、凪の目を見た。
「凪くんは優しいよ。昨日だって、咄嗟に私を助けてくれた。それが、何よりの真実でしょう?」
葉月は、そっと凪の人中の瘢痕のあたりに視線を合わせた。
「この傷のこと。以前も言ったけど、事故の跡だよね? 本当に大変だったね。私も、自分の顔に傷があるから、凪くんの苦労は、少しは分かるつもりだよ」
(お願いだ、その優しい言葉を、僕に向けないでほしい)
凪の心の中で悲鳴が上がった。
(葉月さんは、僕の傷が、生まれつきのものではなく、同情されやすい「事故」によるものだと信じて、僕を励まそうとしてくれている。彼女は、自分と同じ、あるいはそれ以上の痛みと懸命に戦ってきたのに、僕は「生まれつきの障害」という真実を隠し、「事故」という偽りの設定で、彼女の優しさから逃げているんだ)
凪は、自分がとても卑怯に思えた。
「葉月さんが、僕の『事故の傷』を優しく扱ってくれるほど、僕は自分が許せなくなる」
凪は、絞り出すように言った。
「葉月さんは、過去の痛みを乗り越え、完璧という鎧を着て戦っている。なのに、僕はまだ、このマスクと嘘の影に隠れている」
葉月は、凪の自己否定の言葉を、静かに受け止めた。
「私の完璧は、鎧というより、ただの防御壁だよ。少しでも息が漏れたら、それは失敗だから、必死で自分を守っているだけ」
「その防御壁が、すごいんだ」
凪は続けた。
「葉月さんの鎧は、正面から世界と渡り合うためのものだ。誰にも弱さを見せない強さ。でも、僕のこのマスクは、誰にも見つからないようにそっと裏口から逃げ出すための、ただの臆病で卑怯な自分が、隠れている影なんだ。僕には、戦う勇気が最初からなかった」
凪は、言葉を重ねるごとに、嘘の重さに押しつぶされそうになった。
葉月が、そっとレモネードの空になったグラスを手に取った。
「ごめん、私、ちょっと飲み物を買い直してくるね。ずっと話してたから、喉が渇いちゃった」
凪は、すぐさま立ち上がった。
「僕が行くよ。僕のほうが元気だから。葉月さんはここに座ってて。何か欲しいものある?」
葉月は、一瞬ためらってから、優しく微笑んだ。
「ありがとう、凪くん。じゃあ……温かいココアをお願いしてもいいかな」
凪は短く頷き、キャップを深く被り直した。
「わかった。すぐ戻る」
凪は、人混みを避けるように足早に廊下へ出て行った。
葉月は、中庭が見える席に座ったまま、彼の背中を見送った。彼女はバッグを膝の上に置き、凪が戻るまでのわずかな時間を待っていた。
葉月が席に座っているを見て、凪はふと、彼女が持っていた小さなバッグに目を向けた。
葉月は、座っている間、周囲の喧騒から少し距離を取り、バッグから小さな電子機器を取り出した。それは、ICレコーダーのようなものだった。
葉月は、誰も見ていないことを確認するように周囲を見回すと、それを耳に当て、極めて小さな音で、自分の声を流し始めた。
「……ッパ、パパ。タッ、チツテト……」
それは、彼女自身の発音練習の音声だった。
葉月は、自分の声を再生しながら、口元を微細に動かして、その音をなぞっている。その行為は、まるで、自分の体から発せられる声を信用せず、常に外部のツールで、自己を監視し、修正しているかのようだった。
彼女の完璧な発音は、一瞬たりとも緩めることのできない、弛まぬ訓練によって維持されている。
これは、単なる努力ではない。
自分の不完全さを、常に外部の視点からチェックし、完璧に制御下に置くという、極めて過酷な、自己監視という名の「自傷行為」に近い行為だった。
「葉月さん……」
凪は、心の中でその名を呼んだ。
凪は、葉月のこの壮絶な努力こそが、彼女の「完璧な仮面」の土台であることを悟った。この仮面は、彼女の精神的な防御壁であり、生きるための命綱だ。
(もし、僕が今、真実を告白したらどうなる? 彼女のこの完璧な鎧は、僕の告白によって崩壊してしまうのではないか? 僕の『生まれつきの障害』という真実が、彼女の『戦い』のモチベーションや、精神的な防御壁を壊してしまうのではないか?)
凪は、葉月の精神的な防御壁を崩壊させてしまうことを危惧し、告白をためらった。
彼女の努力を否定する結果になるかもしれないという恐怖が、彼の口を再び閉ざそうとした。
しかし、その恐怖を上回るのが、「事故の傷だ」という嘘を続けることへの耐えがたい罪悪感だった。
(彼女の孤独な努力を知りながら、僕だけが嘘で逃げている。このままでは、彼女の信頼を最も深く裏切ることになる)
凪は足早に廊下から戻ってきた。
しかし、彼の手にココアではなく、ミルクティーのペットボトルが握られているのを見て、葉月は首を傾げた。
「お待たせ。ごめん、自販機にココアが売り切れてて……。代わりにミルクティーでも良かったかな?」
凪は、ミルクティーを葉月に差し出すと、マスクの上からでも分かる優しい微笑を浮かべて、言った。
その声は、ココアが買えなかったことへの心底からの申し訳なさを滲ませていた。
葉月は、その申し訳なさそうな凪の表情を見て、すぐにボトルを受け取った。
「ううん、全然大丈夫! 凪くん、ありがとう。ミルクティーも私は好きよ」
葉月は、そっとボトルを胸元に寄せ、凪の気遣いに感謝した。
「葉月さん。僕は、君に嘘をついていた。僕のこの傷は、事故じゃない。本当は……」
凪は、葉月のその優しさと、小さな失敗に対する誠実さを見るにつけ、自分が抱えている嘘の巨大さに押し潰されそうになった。
(彼女は、こんな些細なことにさえ誠実なのに。僕は、僕という存在の根本的な真実を、ずっと彼女に偽っている)
葉月は、先ほどの深刻な空気を取り戻すように、静かに尋ねた。
「何を話そうとしているの? 凪くん」
凪は、両手を膝の上で固く握りしめた。
中庭に差し込む午後の光は、斜めに伸びて、休憩室の窓枠の影を濃く落としている。その光と影のコントラストが、まるで今の凪の心の内を表しているようだった。
(僕は、卑怯だ。葉月さんが、あのレコーダーで、誰も知らない努力を、自己監視という名の「自傷行為」として続けているのを知ってしまった。彼女の完璧は、彼女の命綱だ。僕の告白が、その命綱を断ち切るかもしれない)
脳裏には、「完璧な仮面を剥がしてしまうことへの恐怖」が渦巻いた。
しかし、その恐怖を打ち破るのが、葉月が自分に向けてくれる「誤解に基づいた優しさ」への激しい罪悪感だった。
葉月は、凪を「事故で傷を負った人」として、優しく扱ってくれている。
だが、凪の傷は「生まれつきの障害」であり、それは葉月が隠蔽し、戦い続けてきた「彼女自身の運命」と同じものなのだ。
(僕たちは、同じ地獄から来た。それなのに、僕だけが、楽な嘘という影に隠れている。このままでは、僕らの関係は、ただの「共犯」で終わってしまう。彼女は、僕の影を照らしてくれた。今度は、僕が、僕の「醜い縫合線」を晒してでも、彼女の孤独な戦いを、真の信頼に変えなければならない)
凪は、深く息を吸い込んだ。その空気は、冷たく、渇いた彼の喉を焼いた。
それは、フラッシュバックした「熱いものがしみる」感覚と重なる、痛みを伴う決意だった。
彼は、震える指をマスクにかけた。
この布を剥がせば、彼の最も隠したかった真実が露わになる。だが、もう逃げられない。
「葉月さん」
凪は、声を振り絞った。
マスクの下の唇は、緊張で乾燥している。
「僕は、君に嘘をついていた。ずっと、この傷のことを『事故でできた傷だ』と言い続けてきた」
葉月は、ミルクティーを握ったまま、ただ静かに凪を見つめていた。その瞳は、凪の言葉を一言も聞き逃すまいとする、強い集中力を帯びていた。
「この傷は、事故じゃない。僕は、君と同じ……」
凪は、マスクにかけた手を、強く引き下げた。
彼の顔の下半分が露わになる。
人中の中心を縦に走る縫合線が、午後の光の中で、はっきりと葉月の視界に入った。それは、彼が最も隠したかった、「不完全さ」の証明だった。
彼女の瞳は、凪の傷をまっすぐに見つめながらも、どこか遠い過去を思い出すような、深い慈愛に満ちていた。
そして、葉月は凪の言葉を遮った。
葉月はそっと、凪のマスクを外したままの顔に手を伸ばし、優しく触れようとした。
その寸前で手を止め、静かに、しかし確信に満ちた声で答えた。
葉月は、目を逸らさず、凪の目を見つめたまま、言葉を続けた。
「知ってるよ、凪くん。その痛みも、怖さも」
葉月の「知ってるよ」という言葉は、凪の耳元で、静かに響く衝撃となった。
凪は、全身の力が抜け、立ち尽くしたまま動けない。
マスクを外した彼の顔は、驚きと、すべてが露呈したことへの戸惑いで満ちている。
葉月の瞳は、凪の傷に驚くことなく、ただ深く、穏やかな眼差しを向けていた。
そこにあるのは、同情ではなく、完全に理解し合っている者同士の静けさだった。
周囲の文化祭の賑わいは、二人の周りだけ時が止まったように遠ざかっていく。
凪が必死に守り続けた「嘘の壁」は、葉月の言葉一つで、完全に砕け散った。
彼は、自分の最も深い秘密が、最初から彼女に受け入れられていたという事実に、言葉を失う。
窓から差し込む光が、二人の間に、重くも清々しい影を作っていた。
つづく
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