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第6話:「熱いものがしみる」君と僕の、幼い日の記憶。

高校の文化祭当日。校舎全体は、普段の静謐な学び舎の表情を脱ぎ捨て、熱気に包まれた祭りの中心地と化していた。


一階の玄関ホールから、三階の特別教室棟まで、廊下という廊下は、色とりどりの装飾と人々の波で埋め尽くされている。


模擬店の揚げ物の香ばしい匂いと、甘いポップコーンの匂いが混ざり合い、演劇部の威勢のいい宣伝や、ダンスステージから漏れる轟音と、クラスメイトの歓声が、渾然一体となって校舎全体を揺らしている。


それは、あらゆる声と音が、混ざり合い、増幅される「光の喧騒」だった。


そんな光の喧騒の中、水川凪は影の存在として立っていた。


彼はいつものように、黒いキャップを深く被り、マスクで顔の下半分を完全に隠している。

そのスタイルは、この場においてはまるで、周囲の華やかさを拒絶し、自己の沈黙を守るための「黒い隔壁」のようだった。


しかし、彼の隣には、その喧騒の中心にいるべき存在、遠野葉月がいた。


葉月は、クラスTシャツの上にカーディガンを羽織り、髪をハーフアップに結んでいる。


その表情は、いつものように一点の曇りもない完璧な笑顔だ。


彼女が微笑みながら誰かに話しかければ、相手は皆、その笑顔に吸い寄せられるように柔らかい表情になり、自然と周囲に明るい空気が生まれる。


「あ、凪くん、写真部、すごい人気だね!」


葉月は、写真部の展示室の前で、満足そうに目を細めた。


写真部の部室を改装した展示室は、想像以上の盛況ぶりだった。


明るくカラフルな風景写真が並ぶ中、特に異彩を放っていたのが、凪の展示コーナーだった。


雨上がりの水たまりに映った歪んだ街灯、光がひび割れた壁の隙間から差し込む廃墟、誰にも見られずに咲く雑草の花。


それらすべてが、「影」の持つ、静かな美しさを訴えかけていた。


「すごいね。『これ、なんていうタイトル?』って、何人もの人が熱心に聞いていたよ。あなたの『沈黙の記録』が、ちゃんと人に届いているんだね」


葉月は、凪の写真を見つめながら、小声で囁いた。


彼女の言葉には、感嘆と、まるで自分のことのように喜ぶ感情が混じっていた。


凪は、マスクの下で口元をきつく引き結んだ。

そして、心の中で深く感謝する。


(僕のこの写真が、単なる暗い自己満足で終わらなかったのは、葉月さんが、そこに『優しい音』を見つけてくれたからだ)


凪が撮った「影」は、光を見つけた葉月のまなざしによって初めて、表現という形を得たのだ。


彼にとって、葉月の存在は、自分のコンプレックスという名の暗室に差し込む、唯一の現像液だった。


「葉月さんが、『世界に聞かせたくても聞かせられない、誰かの声の代わりに』って言ってくれたから、かな」


凪は、微かな鼻音を隠すように、低く小さな声で答えた。


しかし、


「僕の写真は、葉月さんの言葉で完成したんだ」


葉月は、その言葉を聞き、一瞬だけ瞳に翳りを宿したが、すぐにいつもの完璧な笑顔に戻した。


「そんなことないよ。凪くんの優しさが、世界に届いたの。さあ、文化祭は始まったばかり。写真展は休憩! クラスの出し物も回ろうよ」


葉月は、凪の手首を優しく引き、廊下の喧騒の中へと歩みを進めた。


二人が最初に向かったのは、三年生の教室が改装された、趣向を凝らした喫茶店だった。

メイドや執事に扮した生徒たちが、賑やかに客を呼び込んでいる。


葉月が店に入るなり、教室全体が少し明るくなったように感じられた。


彼女は、完璧な発音と、的確なタイミングで、ウェイター役の生徒たちに声をかけ、オーダーを伝えた。



「すごいね、葉月さん。まるで、社交の場のプロだ」


凪は感心した。


「ふふ、そうかな?」


葉月は、可愛らしく首を傾げるが、凪の目は、その表情の裏側を見ていた。



彼女の笑顔は、美しいが、同時に張り詰めた和紙のように薄い。


雑然とした喧騒の中で、葉月は絶えず、自身の口元、喉、そして呼吸をコントロールしている。


ウェイターが早口でメニューを説明した際、葉月は聞き返す代わりに、一瞬だけ瞳を大きく開き、口角を微かに引き締め直した。


それは、特定の破裂音や、早口で話すことによる空気漏れ(開鼻声)のリスクを、瞬間的に察知し、「言葉の隔壁」を修復する動作に違いなかった。


その動作は、第三者から見れば、単なる可愛らしい仕草にしか見えない。

しかし、この前、その音を聞き、自らの弱さを晒して葉月を庇った凪には、その「修復作業」の重さが痛いほど理解できた。


(葉月さんは、笑っている間も、一秒たりとも戦いを止めていない。完璧でいるために、常に、誰にも見えない銃口を自分自身に向けている)



喫茶店を出て、射的の出店へと移動する。射的の景品を狙う葉月は、まるで楽しむことに全力を注ぐ少女のようだった。


彼女は、景品のぬいぐるみを外した際も、悔しがる声をあえて少し大きめに出し、その「感情の声」で、自身の発音の曖昧さを誤魔化しているようにも見えた。


「外れちゃった! 次こそ、凪くんが当ててよ」


そう言って笑う葉月の顔には、一瞬、疲れの色がよぎった。


凪は、葉月のその「光の演技」が、いかに彼女の精神力を削っているかを感じ取り、人混みを避け、静かな美術準備室の廊下へと彼女を誘導した。


「ちょっと休憩しよう。ここ、人が少ないから」


「ありがとう、凪くん。助かる」


葉月は、その廊下の隅で、人から見えない角度でマスクを少し下げ、深い呼吸を一つした。


その際、彼女の唇の端の微細な縫合線が、蛍光灯の光に鋭く反射した。


凪は彼女の「失敗」を庇うために自らの秘密を明かした。


その結果、二人の間に生まれたのは、深い「共犯関係」だ。しかし、この瞬間、凪は気づく。


この関係はまだ対等ではない。


葉月は、凪の前でもまだ「完璧な仮面」を脱ぎ切れていない。


そして、凪自身も、「事故の傷だ」という嘘を脱ぎ捨てていない。


凪は、葉月を真に救うためには、自分の最も深い秘密、すなわち「この傷が、生まれつきのものだという真実」を告白し、葉月の孤独な戦いを、自分も共有する義務がある、と強く感じ始めた。


(彼女は、僕の影を照らしてくれた。今度は、僕が、彼女の完璧という名の孤独な光を、真実という名の影で受け止めなければならない)


文化祭の喧騒は遠くで続いている。


その賑わいと、目の前の葉月の張り詰めた静寂との対比が、凪の胸の内で、自己開示への激しい葛藤を燃え上がらせていた。


二人は、クラスの喧騒から離れた、静かな中庭が見える教員用の小さな休憩スペースを借りていた。


ガラス窓からは、紅葉し始めた木々の静かな景色が見え、教室の賑わいは遠いBGMのように響く。


葉月は、カフェで買ったレモネードのグラスを両手で包み込みながら、深く息をついた。


その表情は、先ほどまでの完璧な優等生のものではなく、ただの疲れた一人の少女のものだった。


「やっと落ち着いたね。一日中、気を張ってたから、肩が凝っちゃった」


凪は、窓の外の影を見つめながら、静かに尋ねた。


「しかし、今日の写真展、すごい評判だだったね。今年の文化祭のテーマ、『再生』にぴったりだね」


「うん、私もね、昨日の夜なんか、疲れがドッと出て、まるで熱いものがしみ出てくるみたいに、力が抜けてたよ」


葉月は、レモネードの冷たいグラスに頬を寄せた。


凪の意識が、一瞬で凍り付いた。


「……熱いものが、しみ出てくるみたいに」


その言葉が、凪の脳内のすべてを停止させた。


彼が口から漏らした呼吸は、ひどく不明瞭な、か細い音だった。


「…………え?」


葉月が心配そうに振り返る。


「どうしたの、凪くん? もしかして、寒かった? 大丈夫?」


「ううん、何でもない……今の葉月さんの言葉、ちょっと、聞き慣れない言い回しだなって」

凪は、必死に平静を装い、マスクの下で口の動きを最小限に抑えた。


(違う。聞き慣れないんじゃない。骨の髄まで、知っている言葉だ)


凪の意識は、抵抗する間もなく、十年前の春休みに強引に引き戻された。


それは、彼が口蓋の瘻孔ろうこうを塞ぐ手術を受けた、小学一年生の病室の記憶だった。



全身麻酔が切れた後の、喉の奥のヒリヒリとした痛み。

口蓋を縫い合わせた傷口の腫れと、熱を持った不快感。

全身を縛り付けるような点滴のチューブ。病室は白い。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。


看護師が持ってきたのは、ストローのついたコップ。


「凪くん、少しずつでいいから、冷たいお水を飲んでみてね。少しは楽になるから」


冷たい水。待ち望んでいたはずの、その冷たさ。


その水が、口蓋の縫合線に触れた一瞬。


激しい痛みが走った。それは、傷口に熱いものがしみるような、鋭い感覚だった。


水はちっとも冷たくない。


熱くて、痛くて、しみて、飲み込めない。喉の奥が引き裂かれるような錯覚。


『熱いものがしみる。痛いよ』


凪は、喉が乾いているのに、水を拒否した。泣きながら、口元を両手で覆った。

自分の発する声が、鼻に抜けて「フガフガ」という醜い音になるのが怖かった。


そのとき、同じように泣きじゃくる小さな少女の声が聞こえた。


『痛いよ、先生。ご飯が、熱くて、痛いよ……しみるよ!』


その泣き声であっても、わずかに鼻に抜ける音を帯びていた。


七歳の凪の目には、その少女の顔の輪郭が、ぼやけて見えた。しかし、その時感じた、「痛みと恐怖の共有」だけは、あまりに鮮明だった。



凪の全身の血は、一気に冷え、マスクの下で呼吸が乱れた。


彼は無意識に、黒いマスクの下の人中の瘢痕を、指で何度も何度も強く触れた。まるで、その傷の存在を再確認するかのように。


葉月が、再び尋ねた。


「あの……本当にどうしたの?」


「ごめん、大丈夫」


凪は、言葉を絞り出した。声は、ひどくくぐもっている。


「ただ……その言い方、誰に言われたの?」



「ただ……その言い方、誰に言われたの?」


「誰に、というよりは、訓練の時に覚えた感覚だよ。言語聴覚士の先生に、舌の奥でちゃんと蓋をする練習をする時、よく言われたの。『息が鼻に逃げる感じは、傷口に熱いものがしみているみたいに感じるはず。その感覚を忘れないように』って」


葉月の言葉が、凪の脳内に、確信を突きつけた。



つづく

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