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第5話:僕の鼻音と、二人の共犯関係。

(彼女を、このままにしてはいけない)


凪の視界には、葉月さんの姿しか映らなかった。


過去の記憶が、激しいフラッシュバックを起こす。

それは、凪自身が言葉を失い、どうにもできない不完全な口元を両手で覆った、小学一年の日の凪の姿だった。


誰も助けてくれなかった、あの孤独。

あの時、誰か一人でも、「僕も同じだよ」と声をかけてくれる人がいたら。


理屈ではない。それは、痛みを共有する者としての、本能的な衝動だった。


彼女の完璧な「光」を救うために、凪の「影」を差し出す。


この衝動は、凪が長年かけて築いてきた、臆病さという殻を、内側から激しく打ち破った。


(これをしたら、もう戻れない。僕の最大の秘密を、僕の意志で、公衆の面前で晒すことになる)


凪にとって、鼻音混じりの声を人前で出すことは、マスクを外すことよりも、さらに深い自己開示の行為だった。

凪の口蓋の縫合線が、再び開くような錯覚が全身を襲う。


それは、長年封印してきた「自分の失敗作」を公にする恐怖だった。

心臓の鼓動は、耳鳴りのように煩く響き、鼻腔の閉鎖音がうまくできないことを突きつけてくる。


けれども、葉月さんがこれ以上、あの孤独な絶望の中に沈むのを見過ごすことはできなかった。


「……僕の最も脆い武器が、彼女を救う唯一の鍵なんだ」


凪は、意を決して、一歩、影から踏み出した。


「あ、ご、ごめん。あの……」


凪はマスクを外した。唇の動きを最小限に抑え、喉の奥から絞り出すように声を出す。

その声は、微かに鼻音を帯び、くぐもっていた。


「今の話、少しざわつきで聞き取れなかったんだけど……。『チケット』じゃなくて、『電気』の『チェック』のこと?」


凪は、葉月さんが失敗した「チ」という破裂音を含む単語を、あえて同じように不明瞭に、「ああいうこと」というトーンで復唱した。


凪の声の弱さ――その空気漏れの音色――を、彼女の失敗と重ね合わせたのだ。


葉月さんの顔色に、変化が起こる。


凍り付いていた瞳の奥に、わずかな動揺と、信じられないものを見た驚愕の色が浮かんだ。


その間も、クラスメイトの会話は止まらない。


「え、水川くん、なんか言った? 電気? もう電池は誰か持ってるって。あ、葉月、今の水川くんの言葉は無視して大丈夫だよ! チケットの件、OKってことで進めていいよね?」


「そうそう。水川、ごめんな、ちょっと声が聞き取りづらいかも。大事なのはチケット管理だ。じゃあ、葉月、助かった!」


彼らは凪の言葉の「音質」には一切関心がない。


「水川の聞き取りにくい声による、どうでもいい確認」として、凪の自己開示は一瞬で、広場の雑踏という「光」の中に溶かされた。


凪の微かな鼻音混じりの声は、葉月さんの「決定的な失敗」という音を、別の「ノイズ」で上書きし、完全に無効化した。


葉月の過ちは、凪の弱さという形で、誰にも知られることなく、広場の空気に縫い合わされたのだ。


クラスメイトが立ち去るまで、凪と葉月さんは沈黙したまま、視線を絡ませた。


葉月さんの瞳は、凪のマスク越しに、凪の微かな鼻音を帯びた声の「音色」を聞き逃さなかったことを示していた。

彼女は、凪が自分と同じ傷を持っていることを、決定的に確信した。


(彼女は知った。僕が、彼女の過ちを庇うために、長年隠してきた『僕らの秘密の言語』を、公衆の面前で使ったことを)


葉月さんの口元に、引き結ばれた緊張が解け、安堵の震えが走る。


彼女の絶望は、一瞬で、凪への言葉なき感謝と、強い信頼の絆に変わった。

凪の行動は、彼女の失敗を「共犯」に変えるための、究極の優しさだった。


クラスメイトの姿が角を曲がり、完全に消えた後。


葉月さんは、小さく、喉の奥で息を震わせるように囁いた。


「……あ……、ありがとう、凪くん」


彼女の言葉は、まるで口蓋の縫い目に触れるかのように優しかった。


凪の声を晒すという自己犠牲の代償として、僕らの間の「ガラスの距離」は崩壊し、言葉にならない、深い信頼という「縫い目の繋がり」へと変化した。

僕らは、互いの存在が、最大の秘密であり、最大の理解者であることを知った。


クラスメイトの男子生徒が「俺ら戻るわ!」と言い残し、広場から完全に姿を消すまで、凪は微動だにしなかった。



クラスメイトの姿が角を曲がり、完全に消えるまで、凪と葉月は視線を交わしたまま、微動だにしなかった。


広場を支配していた賑やかなざわめきが完全に引くと、ひんやりとした静寂が戻ってきた。


凪はゆっくりとマスクを再び装着した。

それは、彼が再び「影」の存在に戻るための儀式だったが、葉月にとって、その布はもはや二人の間の壁ではない。二人が共有する秘密の象徴に変わっていた。


葉月はベンチに座り直すと、震えを収めるように、そっとカメラを抱え込んだ。


「ありがとう、凪くん。助けられたのは、本当にそうなんだけど……」


葉月の声は、先ほどまでの優等生の声ではなく、わずかに震えていた。



「どうして、そこまでしたの? あなたにとって、あのマスクを外すことは……」



「葉月さんが、ああいうふうに孤立するのが、嫌だっただけだから」


「孤立……」


葉月は繰り返した。



「そうね。ずっと、一人で完璧なふりをしなきゃいけないって思ってた。あの声が漏れた瞬間、皆に笑われる、嫌われる、って」


「知ってるよ」


凪は静かに言った。



「その音が、どんなに怖くて、どんなに屈辱的か。誰よりも、知ってる」



葉月は、凪のマスクの奥をじっと見つめた。


その視線は、布の下にある凪の口元、そしてそのさらに奥にある、口蓋の見えない縫い目を探していた。


「あの声……」


葉月は続けた。


「あの微かな鼻に抜ける響き。凪くんも、ずっと隠してきたんだね。私と同じ、秘密の言葉を」


凪は頷いた。言葉は少なかったが、その一回の頷きは、千の言葉よりも重かった。


「うん。このマスクの下に、封印してた。でも、葉月は、マスクなしで、あの人たちの前で戦ってたんだ。すごいよ」


葉月は、ふっと、初めて凪に見せる、どこか疲れ切ったような、自嘲めいた笑みを浮かべた。


その笑顔には、もう優等生の仮面はなかった。


「戦い、ね。あなたに会うまで、私がこんな傷を負ってるなんて、誰にも知られたくなかった。完璧でいれば、誰もこの『欠陥』に気づかないって、信じてた」


「もう、完璧じゃなくていいよ」


凪は、初めて、葉月の瞳をまっすぐ見つめた。


「……少なくとも、僕の前では」


葉月の瞳に涙が滲んだ。それは悲しみではなく、長年の孤独から解放されたことによる、安堵の涙だった。


「そうね」


葉月は、かすかに笑った。


「私の共犯者に、完璧は必要ないもの」


彼女は、凪の自己犠牲を「共犯」という言葉で受け入れた。


それは、二人が同じ秘密を共有し、互いの不完全さを守り合う、最も強固な契約だった。


「……ありがとう、凪くん。本当に」


「うん。大丈夫だよ、葉月さん」


「……ひとつだけ、聞いていい?」


葉月は、意を決したように言った。


「あなたが、そのマスクを外して、あの人たちの前で声を晒したのは、私を救うためだというのは分かってる。でも、怖くなかった?」


凪は、両手に握りしめたカメラを見つめた。


「怖かったよ。今も、手が震えてる。でも、あの瞬間、葉月さんが一人で凍り付いているのを見たら、僕が、あの頃の僕を助けられなかった分まで、助けなきゃいけないって、ただそう思った」


葉月は、その言葉を聞き、深く息を吸い込んだ。


「ありがとう。……ねえ、凪くん。この広場が、私にとって、一番静かで、一番正直になれる控え室になったよ」


凪と葉月の間にあった、薄いガラスのような距離は、完全に崩壊した。


二人は、言葉の裏側にある同じ「縫い目」を共有することで、見えない、しかし強固な絆を結んだ。

葉月にとって、凪は、自分の最も脆い部分を理解し、その上で自己犠牲をもって庇ってくれる、世界でただ一人の共犯者になったのだ。


広場に残されたのは、傾き始めた日差しと、二人が共有する重い静寂だけだった。


葉月は、膝の上のカメラに手を置き、その視線は凪のマスクの口元から、決して離れない。

凪もまた、葉月の疲弊しきった、しかし真実を宿した瞳から目を逸らさなかった。


(この人は、もう、完璧な優等生じゃない。僕と同じ、孤独な戦いの痕を全身に纏った、ただの少女だ)


凪は、葉月の「完璧な仮面」のひび割れと、その奥に露わになった「弱さ」を、ありのままに受け入れた。

彼はもう、彼女を遠い手の届かない「光」として崇拝することはなかった。



葉月は、少しだけ口角を上げた。


それは、誰かに見せるための、いつもの練習された笑顔とは違う。


苦渋と安堵が混じり合った、不器用で、しかし本物の微笑みだった。


「凪くん」


葉月は静かに呼びかけた。


「私ね、本当は、さっきの『チケット』の発音の件、誰も気づいてないって思いたかった。でも、あなたがあの音で声を返してくれた時、全てが分かった」


凪は、返事をしなかった。ただ、深く息を吸い込む。


「私、ずっと、口を開くのが怖かった。特に早口になる時や、破裂音を出す時。誰かが気づくのが怖くて、常に意識して、無意識に口元を隠すようになって……だから、あなたのマスク姿を見た時も、最初は怖かったの。私と同じ『傷』を持った人がいると知ることが」


葉月の言葉は、ナイフのように凪の心の奥深くに突き刺さる。


それは、凪自身が長年抱え込んできた、恐怖と屈辱の歴史そのものだった。


「でも、あなたは、私が最も追い詰められた瞬間に、自分の一番脆い部分を晒して、私を庇ってくれた」


葉月は、涙を拭うことなく続けた。


「それが、私にとってどれほど救いになったか、言葉にできない」


凪は、ポケットの中で手を握りしめた。


今、葉月に対してすべきことは、全てを打ち明けることだ。


自分も幼い頃に口蓋の手術を受け、その結果、発声に微かな障害が残っていることを。


しかし、言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。


(僕が、口蓋の件まで話したら、葉月はさらに僕の傷を深く探ろうとするだろうか? それとも、彼女の『唯一の理解者』という重荷を、彼女に背負わせてしまうのではないか?)


葉月は、完璧主義者だ。凪のさらなる不完全さを知ることが、かえって彼女の「二人で完璧に隠し通さなければ」という新たな重圧になることを、凪は恐れた。


「……僕も」


凪は、ようやく声を絞り出した。


「葉月さんみたいに、あんなに堂々と、人前で話すことなんて、ずっとできなかった。だから、今日の葉月さんを見て、ずっとすごいと思っていた」


それは、本心だった。葉月の完璧さは、凪にとっての憧れであり、目標だった。


「私は、あなたに助けられた」


葉月は、まっすぐに凪を見つめた。


「だから、今度は私が、あなたを助けたい。凪くんが、人前で話すことに、少しでも慣れるように。あなたの写真の邪魔をしないように、あなたが『影』にいる時は、私があなたの『盾』になる」


葉月は、凪の弱さを否定せず、それを受け入れた上で、支えになることを申し出た。


この瞬間、二人の関係は、ただの「秘密の共有」を超えた。


互いの存在が、最大の秘密であり、同時に、互いの人生を支え合う「唯一の共犯者」として、新たな日常が本格的に始まったのだ。


広場の空気は冷たかったが、凪の胸の奥は、温かい火が灯されたように熱かった。


彼らは、これから二人で、不完全さという大きな秘密を抱えながら、高校生活という舞台を歩んでいく。

それは、孤独な戦いではなく、二人だけの、静かな共謀だった。


この時から、凪は、自分の写真のテーマが変わる予感を感じていた。


影ばかりを追っていた視線が、初めて、誰かの内側に差す「光のひび割れ」を探し始めた。


つづく


何かを感じて頂けたら、ブクマ&評価(又は感想)をお願いします。


よろしくお願いします。


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