第4話:優等生の君が、一瞬だけ音を外した。
週末の土曜日。快晴の空には、どこまでも吸い込まれるような群青色が広がっていた。
郊外の古い駅前商店街には、まばゆい日差しが降り注ぎ、錆びたブリキの看板や色褪せた提灯を、まるで舞台のセットのように照らし出している。
通りを埋め尽くす人の波は、色とりどりの傘や日傘で小さな花畑のようだ。
そこは、活気がありながらも時間の流れが止まったような、ノスタルジックな空気に満ちていた。
そんな喧騒の中に、水川凪と遠野葉月はいた。
写真部の文化祭展示用の撮影という名目だった。
レトロな木造の店舗の軒先からは、揚げ物の香ばしい匂いや、甘い焼き菓子の匂いが風に乗って運ばれてくる。
しかし、その場の雰囲気に溶け込んでいるのは、凪ではなく葉月の方だった。
「わあ、あそこの『玉子焼き専門店』、すごい行列だね! 卵の焼けるいい匂いがする。あ、凪くん、あの古いポスト、色合いがすごくいいよ。赤が深いね」
葉月の声は、商店街の賑やかなざわめきの中でも、一段明るく澄んで響いた。
まるで、光を纏っているかのように輝かしい。彼女は、凪の隣にいるときでさえ、いつもの完璧な笑顔を保っている。
彼女がカメラを構えて、少し恥ずかしそうに「すみません」と声をかければ、店の店主も、通りすがりの老人たちも、皆、一様に柔らかい表情になり、彼女の問いかけに丁寧に答えてくれる。その姿は、まるで魔法のようだ。
葉月は、まさに「光」そのものだった。
その光は、彼女の周りのすべてを照らし、僕らの間にあったはずの「ガラスの距離」を打ち破っているように見えた。
(どうして、こんなに完璧なんだろう)
凪は、相変わらず黒いマスクで顔の下半分を隠し、そのマスクの上に深く被ったキャップの影に潜んでいた。
まるで、凪だけが、このまばゆい光景から切り離されたモノクロームの存在であるかのように。
凪のカメラは、葉月のように人に向かうことはない。
錆びて緑青が浮いた雨樋、雨上がりの水たまりに映った歪んだ空、人の気配が消えた路地の奥にひっそりと咲く雑草の花。凪は、そんな「影」の被写体を通して、凪自身の沈黙を記録していた。
「葉月さん、人が多いね。危なくない? もう少し壁際寄りの、広い方を行こう」
凪は、人波に押されそうになる葉月の肩にそっと触れて、小さな声で尋ねた。凪の声は、口蓋の瘻孔手術の痕が原因で、どうしても微かな「空気漏れ」となって鼻に抜ける。
それを隠すため、そして人中の瘢痕を隠すため、凪はマスクを外しそうにない。だからこそ、会話は極力簡潔に抑えてしまう。
「ありがとう、凪くん。大丈夫、平気だよ。でも、人混みが苦手なの? 無理しなくていいからね。この道は、もう少しで開けるから」
葉月は、凪の気遣いと同時に、凪の沈黙の理由を深く詮索しないよう、優しく応えた。
彼女の視線は、凪のマスク越しの目元に、ほんのわずか、しかし確実に、気遣いの色を宿していた。
凪の沈黙は、商店街の賑やかなざわめきの中で、ますます分厚く、重くなる。それは凪の「逃避としての影」だった。
彼女と凪のコントラストは、まるで白と黒のモノクロ写真のように鮮明だった。
「葉月さんの撮る写真も、きっと明るくて、光に満ちているんだろうな。……僕は、影ばかり追いかけてしまうから」
凪は、そう独り言のようにつぶやいた。
それは、彼女の完璧な存在への、凪なりの賛辞であり、同時に、自分自身の不完全さへの諦念だった。
「どうかな。でも、凪くんが撮る影には、私には見えない秘密の光があるよ。……ねえ、凪くんの撮った、あの廃墟の写真。壁のひび割れから、木漏れ日が差し込んでいたでしょう? あれ、すごく好きだったな」
葉月は、凪のマスク越しの目を見て微笑んだ。
その言葉は、凪の心に、温かい光を灯すようだった。
「……ここ、もう少し奥まで行けば、もっと静かな路地があると思う。先にそっちから撮ってみない? もし、疲れていたら……」
凪は、人混みの中で葉月の完璧な「演技」を続ける負担を減らしたいと思い、提案した。
彼女の顔にはまだ疲労の色はないが、凪には、その笑顔の裏に潜む努力が見えていた。
「大丈夫だよ、凪くん。でも、ありがとう。じゃあ、もう少しこの辺りを撮ったら、さっき見つけた静かな広場に移動しよう。あそこなら、もっとゆっくり撮れるから」
葉月は、凪の視線を理解したように頷いた。
その優しさが、凪の隠している真実をいつか暴いてしまうだろうという予感を抱きながらも、凪は彼女の差し出す光の方向へ、ゆっくりと歩みを進めるのだった。
商店街を抜け、二人は古いレンガ造りの建物の裏手にある小さな広場にたどり着いた。苔むした石畳が広がり、周囲の建物が作る深い陰が、まるで時間が止まったかのような静寂を生み出していた。
人通りはほとんどなく、風が遠くの木々の葉を揺らす微かな音だけが聞こえる。日差しは広場の半分にだけ差し込み、もう半分は涼やかな影に覆われている。
「ここで少し休もう。光の入り方が面白いから、僕はあっちの壁を撮ってるよ。葉月さんは、ベンチで休んでて」
凪は、そう言って広場の端にある古びたベンチを指し示した。
ベンチは、陽の当たらない場所にあり、ひんやりとした空気が漂っている。
「ありがとう、凪くん。そうするね」
葉月は、そう言ってベンチに腰を下ろした。カメラを膝の上に置き、深く、ゆっくりと深呼吸をする。
その瞬間、凪は、彼女の「完璧な仮面」が緩むのを見た。
まるで、顔の筋肉が微かに弛緩したかのようだ。目元の笑みは消え、口元は僅かに真一文字に引き結ばれている。
一瞬、彼女の唇の端、人中から口角にかけて、ごくごく微細な、しかし確実にそこにある手術痕が、影の中に浮かび上がった。
それは、第三者には決して気づかれない、光と影の奇跡的な交差でしか見えない傷跡だった。
(この場所が、彼女の唯一の控え室なんだ。完璧な笑顔を維持する舞台裏が、ここなんだ)
凪が壁際でカメラを構えるふりをしていると、葉月はスマートフォンを取り出し、メールをチェックするふりをしながら、微かに唇を動かしていた。その口元は、微細な筋肉の動きを繰り返している。
「……ッパ、タァ、カッ」
「……ッパ、ピ、プ、ペ、ポ」
それは、破裂音の発音練習だった。
彼女の声はごく小さく、周囲には全く聞こえない独り言のようなものだが、凪にははっきりと聞こえた。
広場の静寂が、その微かな音を増幅させるかのようだ。
彼女が意識して「パ行」や「タ行」の音を出すとき、唇を強く閉じ、破裂させる際の息の送り方が、凪が幼い頃、言語聴覚士に指導されていた動作と全く同じだったからだ。
(言葉が、彼女にとっての「隔壁」なんだ)
凪は、レンズのキャップをゆっくりと閉めながら、葉月の内面を観察した。
彼女は、自分の言葉、つまり自分の存在を、この完璧な発音という「隔壁」によって外界と隔てている。
その隔壁の向こう側で、彼女は懸命に、自分の「不完全さ」と戦っている。
その姿は、張り詰めた糸のように繊細で、いつ切れてもおかしくないように見えた。
「葉月さんは、本当に熱心だね。写真に対しても、いつも。……その、リップクリーム、よく塗るんだね。唇、荒れやすい?」
凪は、彼女の発音練習に直接触れることを避け、代わりにリップクリームというごく日常的なものを通して、彼女の口元への意識の高さを間接的に指摘した。
その問いかけは、葉月の唇の乾燥への気遣いでもあった。
葉月は、少し驚いたように顔を上げたが、すぐに微笑んだ。
その笑顔は、さっきまでの完璧な笑顔とは違い、少しだけ素朴な、警戒の解けたものだった。
「そうかな? あ、これ、乾燥予防だよ。唇、荒れやすいから。凪くんも、乾燥には気をつけてね」
「……うん。そっか。気を付けてね。乾燥は、良くないって聞くから。……特に、傷があるところは」
凪は、それ以上踏み込まなかった。
葉月の目元が一瞬、緊張に固まったように見えたからだ。
彼女が自分の努力を隠したいのなら、凪はそれを尊重する。
しかし、凪の言葉の奥に、彼女が共有しているはずの「傷」への気遣いを忍ばせた。
そのとき、広場の入り口から、明るい高校生の声が聞こえてきた。
「あ、葉月じゃん! こんなとこで何やってんの?」
予期せぬ遭遇だった。それは、先ほど商店街で偶然会った、葉月のクラスメイトたちだった。
葉月の顔に、再び、魔法のように完璧な笑顔が貼り付けられた。
わずか数秒前までそこにいた疲労の色は、完全に消え失せていた。
その変化はあまりに瞬時で、まるで別の人間になったかのようだ。
言葉の戦場は、一瞬にして、優等生の社交場へと姿を変えた。
そして、その戦場こそが、僕らの間の「ガラスの距離」を、決定的に打ち破ることになる。
男子二人と女子一人のグループが、缶コーヒーを片手に、僕らの静寂という聖域に踏み込んできた。彼らには悪気がない。
ただその屈託のない明るさ、圧倒的な「光」が、さっきまで葉月が晒していた「疲労」の空気を一瞬で消し去り、この場の空気を一変させた。
葉月の顔に、再び魔法がかかる。
「うん、文化祭の展示する写真の撮影。水川くんと私しかいないから。でも、みんなはこれから駅前?」
彼女の声が、ワントーン上がった。表情がパッと明るくなるのを感じる。
その表情に一点の曇りもない。完璧な笑顔と、流暢な発音。それは、人知れず訓練を積み重ねた「遠野葉月」という優等生の姿そのものだった。さっきまでの、口元を動かす発音練習の痕跡など、微塵も感じさせなかった。
(すごいな)
凪は、その早業に畏怖さえ覚えた。葉月は、この完璧な演技を、自然な呼吸をするように続けている。
会話は、文化祭の出し物の話題に移る。
「でさ、来週の買い出しは、葉月がいないとまとまらないって話し合ってたんだよね」
「え、来週はちょっと用事で……」
一人の女子生徒が葉月に少し詰め寄る。
会話のリズムが急に跳ね上がった。凪は、彼女の体が一瞬、硬直したのを見過ごさなかった。
葉月が相手のペースに合わせようと、焦って呼吸を整えているのが分かった。
凪は、彼女の些細な仕草を見逃さなかった。
しかし、相手のペースがそれを許さなかった。
「なぁ頼むよ! 今度のチケットの管理は、葉月じゃなきゃ無理だって」
一人の男子生徒が、遠慮なく言葉を投げつけた。
その言葉に、葉月が反応した。
彼女は息を短く吸い込み、少し焦ったように、早口で答えようとした。
「ええ、分かったわ。来週のチケットは、絶対に必要なのよね。私が……」
時が、止まった。
その瞬間、広場のすべての音が消え失せ、凪の耳には、たった一つの音だけが、暴力的なまでの鮮明さで突き刺さった。
「……チィ(ヒィ)ケット……ヒィツヨウ……」
それは、ほんのコンマ数秒の出来事だった。「チ」という破裂音を作ろうとした舌と口蓋の閉鎖が不完全で、行き場を失った呼気が、鼻腔へと逃げていく音。
「シューッ」という、空気が湿った音を立てて漏れる、あの独特のノイズ。
開鼻声。
凪の全身の血が、逆流した。
その音を、知っている。骨の髄まで知っている。
それは、凪が小学一年生で瘻孔を塞ぐ手術を受ける前、毎日、毎瞬、自分の口から聞いていた音だった。
どれだけ口を大きく開けても、どれだけ舌に力を込めても、口蓋の穴から空気が漏れてしまい、言葉がフガフガと鼻に抜けてしまう、あの呪いの音。
「何言ってるか分かんない」と友達に笑われ、何度も何度も言い直しをさせられた、屈辱の記憶そのもの。
(嘘だ……)
凪は、カメラを片手に立ち尽くした。
けれども、葉月にとっては、それは決定打だった。
彼女は、顔を真っ青にして、言葉を発したその瞬間、文字通り凍り付いていた。完璧な笑顔の仮面は、すでにひび割れていた。
強く引き結ばれた口元は、これ以上自分の不完全さを外に出すまいとする、痛々しい決意を示していた。
その瞳には、深い絶望と、誰にも知られることのない孤独な恐怖が宿っていた。
広場に、時間が止まったかのような、異質な静寂が訪れていた。
葉月は、自分の口から漏れた「失敗の音」の残響に、全身の血を凍らせたように固まっている。
彼女の顔は蒼白で、その瞳は絶望と恐怖で大きく見開かれていた。
クラスメイトたちの「やった!ありがとう!」という声が耳に届くはずが、葉月の世界は沈黙し、ただ無意味なノイズとして響いているようだった。
そこで、一人の男子生徒が顔を曇らせた。
「え? 葉月、今なんて言った? 『チ』のところ、ちょっと聞き取れなかったんだけど。もう一回、ゆっくり言ってくれる?」
クラスメイトの声は、葉月の世界に響く唯一の「裁定」だった。
違和感を指摘されたことで、葉月の身体はさらに硬直する。
彼女が築き上げてきた完璧なガラスの城は、いま、公衆の面前で、明確な検証を求められていた。
つづく
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よろしくお願いします。
第5話は、明日の18時~19時頃投稿します。




