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第3話:ガラスの距離と沈黙の共鳴。

 放課後の写真部部室。

 そこは、現像液のツンとした酸っぱい匂いと、古い木材や埃の匂いが混ざり合う、独特で静かな空間だった。


 窓から斜めに差し込む西日が、空気中に舞う細かな塵をキラキラと照らし出す。


 その光に包まれ、部屋全体が時間が止まったかのような、薄暗い琥珀色に染まっていた。


 文化祭の展示準備が本格化し、部員は凪と葉月の二人だけだが、部室は活気に満ちている。


 凪はいつものように部屋の隅の暗室で現像作業に集中していた。

 赤いセーフライトの下、トレーの中で徐々に浮かび上がるモノクロの像。


 この非日常的な静寂こそが、凪にとって唯一、マスクの下の自分を忘れられる時間だった。


「凪くん、これ、プリント完了だよ。乾燥させておくね」


 葉月が、現像を終えたばかりの印画紙を、ピンチで吊るす。

 その声は、相変わらず明るく澄んでいるが、凪の静かな作業の邪魔をしないよう、トーンが落とされていた。


「ありがとう、葉月さん」


 凪も小さな声で応える。口蓋の瘻孔手術の痕が、発音時にどうしても微かな「空気漏れ」となって鼻に抜ける。

 それを隠すため、そして人中の瘢痕を隠すため、凪はマスクを外しそうにない。


 葉月は、それを責めることも、訝しむこともなく、ただ静かに凪の隣で作業を進める。


(手際がいいな)


 葉月の指先は、現像液、停止液、定着液のトレーを淀みなく扱い、現像済みの印画紙を水洗槽へ移す動作も滑らかだ。


 まるで、この一連の作業を何度も何度も、徹底的に訓練してきたかのようだった。


 その完璧さは、凪が感じた「優等生の演技」に通じるものがある。


 凪は、暗室から出るふりをして、窓際で吊るされた写真を眺め始めた葉月に話しかけた。


「水洗まで終わったら、あとは乾燥機にかけるだけだから。もし疲れてたら、先に帰っていいよ、葉月さん。残りは僕がやるから」


「ふふ」葉月は振り返った。

「そういう優しいところ、本当に昔から変わらないね、凪くん」


「昔から……?」


 凪は、思わず葉月の言葉に反応した。


 葉月は慌てた様子もなく、吊るされた写真の端をそっと指先でなぞった。


「ううん、何でもない。ただ、凪くんの写真も、話し方も、なんていうか……優しすぎるくらい丁寧だから。見てて、私まで落ち着くんだ」


 葉月のその言葉には、敵意も、詮索するような色もなかった。ただ、温かい懐かしさだけが滲んでいる。


 凪は、また自分の内面を彼女に見透かされているような錯覚に陥った。

 言葉にできない感情は、いつもファインダーを通して、廃墟や水たまりという「被写体」の中に封じ込めてきたはずなのに。


「葉月さんがそう言ってくれるなら、嬉しいよ」


 凪は静かに言った。


「僕は、大きな声で話すのが得意じゃないから。僕の代わりに、写真が何かを静かに伝えてくれたら、っていつも思ってる」


 葉月は、頷いた。その澄んだ瞳は、凪のマスクの奥、傷を隠した表情をまっすぐ見つめているようだった。


「大丈夫。私には、凪くんの声がちゃんと聞こえてるから」




 暗室のセーフライトが消され、部室は夕日が差し込む通常の光に戻った。


 凪は、失敗作の山をまとめていた。


 ブレた風景写真、現像時に光を浴びて台無しになったネガ、ピントが合わずに水滴だけがぼやけて映った写真――これらは、自分の未熟さの証拠として、すぐにゴミ箱へ直行するのが常だ。


「ちょっと待って、凪くん」


 葉月が、その束をそっと引き抜いた。


「これ、捨てるの?もったいないよ」


「これは失敗だから」


凪は答えた。


「被写体も、主題も、全然はっきりしない」


 葉月は、ブレた写真の一枚を手に取った。

 風で揺れる電線が、まるで抽象画のように写っている。


「これが失敗だなんて思わないな」


 彼女は否定した。

 その声は、凪がこれまで出会ってきた、全てを「完璧」で判断する人々とは違う響きを持っていた。


「ねえ、このブレた電線。これって、風の音を撮ろうとしたんじゃない?」


「風……?」


「そう。写真って、本来は音を記録できないでしょう? でも、凪くんが撮る写真は、いつも『音』が聞こえてくるんだよ。この電線が揺れてる『ブーン』っていう音とか、さっきの水たまりの『ポツポツ』って音とか」


 葉月は、粗削りな写真群を眺めながら続けた。


「凪くんの写真には、優しい音がある。世界に聞かせたくても聞かせられない、誰かの声の代わりみたいな……そんな音がする」


 凪の心臓が、大きく、脈打った。


(どうして、そこまでわかるんだ)


 それは、凪が誰にも言えずに抱えてきた、写真への最も個人的な動機だった。

 自分の声の不完全さを、世界への「言葉」として放出できないフラストレーション。

 それを、光と影、そして沈黙を媒介にして、別の「優しい音」として変換しようとしていた。


 それを、彼女はいとも簡単に、しかも肯定的に見つけ出してしまった。


 凪の体は、思わずこわばった。

 彼は、心の中を見透かされないよう、反射的に貝のように口を閉ざした。


「……買いかぶりすぎだよ、葉月さん。僕は、ただ光と影のコントラストが面白かっただけ」


「そうかな」


葉月は微笑んだ。


「私の勘、結構当たるんだよ。特に、人の気持ちに関することはね」


 彼女の茶色い瞳が、夕日に透き通って見える。

 その視線はどこか遠く、まるで過去の記憶を探るようだった。


「写真って、撮った人の内側の世界を、唯一、他人が覗ける窓だと思わない? 凪くんの窓からは、いつも、すごく一生懸命で、繊細な『声』が聞こえてくるの」


 葉月の言葉は、凪の自己認識を強制し、激しく揺さぶった。

 彼はマスクの下で、強く唇を噛みしめる。


「……どういう意味ですか?」


 凪は、咄嗟に問いかけた。

 その声は、マスクでくぐもり、いつも以上に鼻に抜ける音を帯びていた。

 それでも、これ以上は逃げられないと悟り、問いかけざるを得なかった。


 葉月は、凪の動揺をしっかりと受け止めて、静かにパイプ椅子に腰掛けた。


「それはね、叫びたいのに叫べない音」


 彼女は、答えを急かすことなく、ゆっくりと言葉を選んだ。


「世界は、私たちに、明るく、大きく、はっきりと話せって強要するでしょう? 誰でも聞き取れる『完璧な声』じゃなきゃ、存在を認めてもらえない気がする」


 凪の体が、椅子の上で微かに震えた。

 それは、言語聴覚士の訓練室での苦い記憶、そして学校生活での沈黙の日々そのものだった。


「でも、人間って、そんなに完璧じゃない。心の中の叫びや、本当に言いたいことは、大抵、言葉にすると歪んじゃうか、小さすぎて誰にも届かない」


 葉月は、まるで凪の代わりに、彼の過去の痛みを代弁しているようだった。


「だから、凪くんは、その『叫び声のあと』に残った沈黙を、写真で撮っているんだと思う。そしてその沈黙は、あなたの心臓の音に近い。外界の音から身を守るために、必死で静かに、静かに脈打っている音」


 凪は、反論する言葉を持たなかった。

 彼女の指摘は、あまりにも正確で、あまりにも優しかったからだ。

 自分の最も深いコンプレックスを、葉月は「繊細さ」「優しさ」という形で肯定的に解釈し、凪を包み込んだ。


「ありがとう、葉月さん」


 凪は、静かに、そしていつもより少しだけ意識して、鼻に抜ける音を抑えながら言った。


「葉月さんの言葉は……僕にとって、すごく温かい」


 その言葉を紡いだとき、凪は、葉月の瞳の奥に、ほんの一瞬、痛みに耐えているような、遠い光を見た気がした。


(彼女も、僕と同じだ。叫びたいのに叫べない音を、完璧な笑顔の裏に隠しているんだ)


 葉月は、微笑みながら、部室に置きっぱなしになっていた凪の古いポートフォリオを手に取った。


「じゃあ、この勘が当たるか、試させて」


 彼女は、ポートフォリオの中から、凪自身も忘れていた数年前の写真を取り出した。

 殺風景な病室、点滴台、そして窓の外の景色。すべてがモノトーンで、寂寥感に満ちている。


「この病室で、あなたはよく、自分の手のひらを撮ってたでしょう? 焦点が合ってない、ぼやけた手のひら」


 凪は息を呑んだ。なぜ、彼女がそんな写真を正確に知っている?


 それは、誰も見ていないはずの、入院中の凪の個人的な記録だったはずだ。


「この時、あなたは『治る』ことよりも、『自分を許す』ことを探していたんでしょう? だから、ブレた手のひらを撮った。完璧に治らなくても、この不完全な自分を許すための光を、探していた」


 葉月の声は、確信に満ちていた。

 その言葉には、敵意もなく、侮辱もなく、ただ温かい共感だけがあった。


 凪は、この転校生が、自分の心の中を覗き込んでいるかのような錯覚に陥った。しかし、その言葉は、凪の閉ざされた心を開く、鍵のように響いた。


(彼女は、僕と同じ記憶を、どこかで共有している。僕たちが、会っていた、あの病院で……)


 凪は、葉月の優しさに強く惹かれながらも、自分のコンプレックス(声と傷)という重い現実を、彼女の築いた完璧な世界に持ち込むことを恐れ、「真実の告白」をためらい続けた。


 ガラス一枚分の距離。

 それは、いつ割れるのか。


 二つの傷は、今、触れ合う寸前で、互いの存在を確かめ合っていた。



(彼女は、あの時の……)


 凪は意を決して、マスクの下で口を開いた。


 この疑問は、言葉にしなければ、次の瞬間にはまた、彼の喉の奥に引っ込んでしまうだろう。


「葉月さん、どうして……僕の、そんな昔の写真を、知っているんだ?」


 その問いかけは、言葉としては静かだったが、凪の心臓は激しく脈打っていた。まるで、沈黙という名のダムが決壊する寸前のような緊張感だった。


 葉月は、ポートフォリオをそっとデスクに戻した。

 彼女は答えを急がなかった。そして、問いに直接は答えず、代わりに窓の外、夕暮れに染まり始めた校庭に視線を移した。


「そうね……私も、古い記憶を掘り起こしているところ」


 彼女の瞳は、夕日の強い光を浴びて、琥珀のように輝いていた。


 その顔は、いつもの完璧な笑顔のガードが緩み、どこか遠い過去を見つめているようだった。


「私にもね、幼い頃、長くて辛い入院生活があったの。特に小学一年生くらいの頃かな。夏休みも冬休みも、いつも病院で過ごした。消毒液と、白いシーツと、点滴の音が嫌いで……」


 葉月は、自らの過去の断片を、まるで独り言のように、静かに紡ぎ始めた。


「その病院の、窓際のプレイルームで、いつも一人で絵を描いている男の子がいたんだ。ブロック遊びにも入らず、誰とも話さず、ただ黙々と、色鉛筆でスケッチブックに向かっている男の子。彼はいつも、描いた絵を、誰にも見せないように、すぐに閉じてしまうの」


 凪の背筋に、冷たい電流が走った。

 それは、僕だ。僕しかいない。


 口蓋の瘻孔手術を控えていた小学一年生の僕。

 言葉にできない恐怖と、発音練習への嫌悪から逃れるように、ひたすら絵を描き続けていた僕の姿。


「その男の子が、ある日、描いた絵を、私のベッドサイドにそっと置いていってくれたんだ。絵は、ただの抽象画だったけど……とても優しくて、温かい色だった。その絵を見て、私は、もう一度、この男の子に会いたいって、強く思った」


 葉月が凪の方へ向き直る。彼女の瞳は、凪のマスク越しの上半分をまっすぐ射抜いていた。


 その微笑みは、もはや演技ではなかった。それは、再会への確信に満ちた、静かで深い喜びの表情だった。


「ねえ、凪くん。貴方は、あの時の絵を覚えている?」


 凪は言葉を失った。全身の血が引いていくような感覚。彼女は、僕と同じ痛みを隠しているだけではなかった。


 僕の存在そのものを、幼い頃から追い続けてきたのだ。

 その完璧さは、偶然ではなく、僕に会うための、愛と努力の結晶だったのだと悟った。



 二人は、夕日が沈み切った街路樹の下を、並んで歩いていた。

 部室を出てから、凪はずっと口を閉ざしていた。葉月の過去の告白──それが、全てだった。

 彼女は「遠野葉月」という完璧な仮面を被り、僕に会うために、この高校へやってきた。


 葉月が、ふと足を止める。


「ねえ、凪くん」


「……何?」


 凪は、かすれた声で応じた。


「どうして、いつも、そんなに声を隠そうとするの?」


 問いかけは、優しかった。

 しかし、その優しさが、凪の心臓を強く鷲掴みにする。


 まるで、最も触れられたくない、脆い部分を撫でられたような感覚だった。


 凪は、瞬時に防御の姿勢を取った。

 マスクの下で、無意識に唇を強く引き結ぶ。


「……別に、隠してるわけじゃ、ないよ」


 その声は、やはりマスクにくぐもり、わずかに鼻に抜ける。


 凪は、自分の声のその不完全な響きを、葉月に聞かせていることが嫌でたまらなかった。


「ただ……僕の声は、ちょっと聞き取りにくいところがあって。小さい頃に顔を少し怪我した時の影響で、うまく発音できてないみたいでね」


 凪は、マスクの下でそっと唇を噛みしめ、顔を強張らせながら、その言葉を付け加えた。


 それは、彼が長年、自分の心を守るために使い続けてきた、最も切ない嘘の理由だった。


「言葉がうまく伝わらないよりは、マスクで口元を隠して、俯いて話す『無言の表情』でいる方が、周りの人に余計な気を使わせずに済むんじゃないかって……そう思ってるんだ」


 それは、自分の声に対する戸惑いと、相手に負担をかけたくないという優しさが、複雑に絡み合った、凪の素直な気持ちだった。


「それは、嘘でしょう?」


 葉月は、凪の目をまっすぐ見て、優しく否定した。


「凪くんの傷は、事故なんかじゃない。私と同じ、生まれた時から持っている縫合線でしょう?」


 凪の全身が硬直した。彼は、これまで誰にも、親しい友人さえもこの真実を語ったことはなかった。

 彼のコンプレックスの源泉である、人中の微かな瘢痕。それを、葉月は、まるで愛おしいもののように、静かに言い当てた。


「……どうして、そんなこと言うの」


 凪は、喉の奥から、絞り出すように言った。


「だから、僕の傷は、事故で──」


「違うよ、凪くん」


 葉月は、一歩だけ凪に近づいた。


 その瞬間、凪は真実を告白しそうになった。


(僕も同じだ。僕も、生まれた時からこの声とこの傷を持っている。だから、もう逃げなくていいんだ)


 しかし、葉月の顔を見たとき、凪は立ち止まった。街灯に照らされた葉月の顔は、本当に完璧だった。瘢痕はどこにも見えず、その口元は、微笑み一つで世界を優しくできるような、無垢な美しさだった。


 この完璧な光の中にある葉月の世界へ、自分の不完全な声、鼻に抜ける「空気漏れ」の音、そして人中の痛々しい瘢痕きずあとを持ち込むこと。


 それは、この再会を信じ、懸命な努力で掴み取った葉月の想いを、自分が踏みにじることになってしまうのではないか。



(僕は、彼女の完璧な世界を、僕の不完全さで汚すことはできない)



 凪は、固く唇を閉じ、真実の告白を寸前で飲み込んだ。



 二人は再び歩き出した。沈黙を破ったのは、葉月だった。


「ねえ、凪くんの声は、ガラスみたいだね」


 凪は驚いて葉月を見た。


「ガラス?」


「うん。すごくきれいで、繊細で……。だから、割れるのが怖くて、誰も触れないように、凪くん自身が厳重に隠している。まるで、外側から見えない、静かな檻の中に入っているみたい」


 葉月は、静かに、一歩も動かずに立ち尽くしていた。


 彼女の視線は、街灯の薄明かりの中で影になっている、凪のマスクをかけた横顔に、吸い寄せられるように注がれていた。


 その横顔には、凪がひた隠しにしてきた傷跡は当然見えない。


 しかし葉月の目には、その布の下に隠された微かな傷跡と、それを誰にも見せまいとする凪の孤独な決意が、手に取るように分かっていた。


 彼女の瞳は、凪の表面的な姿ではなく、その内奥にある震える心を覗き込んでいるようだった。


「でもね、その声に光が当たって、響くとき──きっと、世界で一番きれいに響く音を持っていると思う。私は、そう信じてる」


 葉月の言葉は、凪の自己否定を、静かに肯定へと変えていく。

 彼女は、凪の弱さではなく、その奥にある可能性を見ていた。


「……ありがとう、葉月さん」


 その言葉を紡ぐ凪の声は、いつものくぐもった声だったが、葉月には、その「ガラスの声」が確かに届いた。


 葉月は、そこで立ち止まり、微笑んだ。


「ところで、今度の日曜日、写真部の文化祭の作品のための撮影で、郊外に遠征に行かない? 二人きりで」


 それは、凪への誘いであり、二人の関係をさらに進めるための、葉月からの明確な提案だった。


「もちろん、僕でよければ」


 凪は、コンプレックスを抱えながらも、その誘いを拒否できなかった。


 なぜなら、葉月の隣こそが、彼が「自分を許すための光」を最も強く感じられる場所になり始めていたからだ。


 二つの傷は、もうお互いを無視して引き返すことなどできない、運命的な距離まで近づいていた。

 互いに触れ合うことを強く求めながらも、それが故に、傷つけ合うことを恐れて立ち尽くす。


 しかし、その静止した時間は長くは続かない。


 しかし、次の日曜日、二人が共に迎える写真撮影の遠征で、この繊細な「ガラスの距離」は、ついにある決定的な事件によって打ち破られることになる。


 それが、長く秘められてきた真実を露わにし、僕らの人生の道筋を変えてしまうほどの、優しくも避けられない痛みを伴う響きとなることは、この時点ではまだ、二人とも予想だにしていなかった。


 つづく


何かを感じて頂けたら、ブクマ&評価(又は感想)をお願いします。


よろしくお願いします

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