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第2話:君の完璧な声が、僕の写真を褒めた。

 放課後の写真部部室は、現像液のすっぱい匂いと、沈殿した埃の匂いが混ざっている。

 凪はいつものように、部屋の隅にあるパイプ椅子に座り、現像したばかりの写真をピンチで留めていた。


 窓の外からは運動部の掛け声が聞こえるけれど、この部屋だけは水底みたいに静かだ。

 ガララ、と引き戸が鳴る。


「あ、いた。水川くん」


 振り返ると、遠野葉月が立っていた。

 制服のリボンは完璧な角度で結ばれ、スカートのプリーツも乱れがない。


 転校してきてまだ一週間だというのに、彼女はすでにクラスの中心にいる。


 そんな彼女が、なぜか僕のような日陰の住人に構うのか、正直なところ理解が追いついていない。

 葉月の凪に対する言葉遣いも、いつの間にか幾分かカジュアルなものに変わってきていた。


 その変化が、僕たちの距離が縮まっていることを、静かに示していた。


 凪はマスクの上から目だけで挨拶をして、また手元の作業に戻るふりをした。


 彼女はズカズカと踏み込んでくることはしない。

 ただ、凪のパーソナルスペースのふちをなぞるように、少し離れた場所にカバンを置いて、吊るされた写真を眺め始めた。


「これ、いつ撮ったの?」

「……先週」

「ふうん。場所は?」

「駅裏の、廃ビル」

「へえ、あそこ立ち入り禁止じゃないんだ」

「……ギリギリ、入ってない場所から」


 必要最低限の言葉。マスク越しにくぐもる自分の声が嫌いで、凪はすぐに口を閉ざす。

 でも、葉月は気にした様子もなく、隣の写真に視線を移した。

 雨上がりの水たまりに、逆さまの信号機が映り込んでいる写真だ。


「私、これ好きだな」


 彼女の指先が、写真の中の水面をなぞる。


「なんていうか……すごく静かだよね。水川くんの写真って」

「……そう?」

「うん。でも、ただ静かなだけじゃないの」


 葉月は一度言葉を切り、凪の方を見た。


 夕日が差し込んで、彼女の茶色い瞳が透き通って見える。


「あなたの写真には、優しい音がある気がする。世界に聞かせたくても聞かせられない、誰かの声の代わりみたいな……そんな音がする」


 心臓が、とくんと跳ねた。 ファインダーを覗くとき、凪が常に探しているもの。言葉にできないノイズや、叫び出しそうな沈黙。それを、彼女はいとも簡単に見つけてしまった。


「……買いかぶりすぎだよ、遠野さん」

「そうかな。私の勘、当たるよ?」


 いたずらっぽく笑って、彼女は机の上に置いてあった凪の予備のカメラ──古い一眼レフを手に取った。


「これ、覗いてみてもいい?」

「……うん、いいけど」


 彼女は慣れた手つきでカメラを構える。


 その瞬間だった。


 ファインダーに目を当て、レンズの焦点を合わせる一瞬の間。


 彼女の纏っていた「優等生」の空気が、ふっと消えた。

  眉間にわずかに寄ったシワ。どこか遠く、ここではない場所を見つめているような、痛々しいほどに真剣な横顔。


 ──あれ?


 既視感デジャヴが凪を襲う。

 記憶の底にある、消毒液の匂い。小児病棟のプレイルーム。ブロックの城を作る子供たちの喧騒から離れて、窓際で一人、黙々とスケッチブックに向かっていた女の子。


 あの時の少女の横顔と、今の彼女が、完璧に重なった。


「……あ、ピント合った」


 シャッター音。 彼女はカメラを下ろすと、またパッと花が咲くような笑顔に戻った。


「重いね、これ。水川くん、いつもこんなの持ち歩いてるんだ」

「……まあ、慣れだから」

「すごいなあ。私なんてスマホで撮るのもブレちゃうのに」


 彼女が笑う。 その時、凪は見てしまった。


「あはは、ほんと不器用なんだよね、私」


不器用ぶきよう』。 バ行とカ行が含まれるその単語を発する瞬間、彼女の唇がわずかに強張るのを。

  口角を上げる筋肉の動きが、左右でほんの数ミリだけズレる。


 左側が、右側よりもコンマ数秒遅れて引き上げられるのだ。

 それは、普通の人なら絶対に見逃すような些細な差異だ。 でも、僕にはわかる。


 あれは、引きつれる瘢痕はんこん組織を、意識的な筋力トレーニングで無理やり制御している動きだ。


 自然な笑顔に見せるために、彼女はコンマ一秒ごとに猛烈な計算と努力をしている。


 そして、語尾の「ね」の音が、ほんのわずかに鼻腔へ抜けた。手術前と同じ、空気漏れの音。


(……やっぱり、そうなんだ)


 確信が、冷たい石のように胃の底に落ちた。

 彼女は、同じだ。 あの完璧な笑顔の下に、継ぎ接ぎだらけの傷と、血の滲むような努力を隠している。


「……水川くん? どうしたの、そんなじっと見て」

「え、いや……別に」


 凪は慌てて視線を逸らし、現像液のボトルを手に取った。

 指先が震えているのを悟られないように強く握りしめる。

 彼女は太陽だと思っていた。

 でもその光は、ガラスの破片を何枚も重ねて、必死に反射させて作った光だったんだ。


 葉月は、壁に吊るされたモノクロ写真の前で立ち止まった。

 それは、数年前に取り壊しが決まった遊園地の、錆びついた観覧車の骨組みを写したものだった。空は曇り、すべてが冷たく、重い沈黙に包まれている。


「ねえ、この写真……」


 葉月は静かに言った。


「すごく寂しいのに、どこか『祈り』が込められてるみたい。観覧車って、本当は、たくさんの笑い声とか、賑やかな色があった場所でしょう?」


 凪は、相変わらずマスクの下で表情を隠したまま、パイプ椅子に座っていた。


「……ただの廃墟だ。光と影のコントラストが面白かっただけ」

「そうかな?」


 葉月は首を傾げ、一枚の写真にそっと指を近づけた。

 それは、コンクリートの壁の小さなひび割れから、一本のタンポポが咲いている写真だった。


「私には、そうは見えない。水川くんが撮るものって、全部『世界に忘れられたもの』ばかりだ。人も、声も、色も、全部持っていかれちゃった場所」


 凪は反射的に防御しようと、口を開いた。


「人を撮るのは、難しいから……」

「それは、『難しさ』? それとも、『怖さ』?」


 葉月は彼を責めるような言い方はしない。


 ただ、そっと確かめるように尋ねる。その瞳は、観覧車のゴンドラのように深く、底が見えなかった。


「水川くんは、この錆びた鉄骨や、崩れたコンクリートの壁に、何か『美しいもの』を見つけようとしている。まるで、誰にも聞いてもらえなかった、建物の『ため息』を代わりに記録しているみたい」


 葉月は、一枚の古い雨樋の写真に目を留めた。

 水滴が落ちた跡が、まるで涙のようについている。


「これ。雨樋はただの排水溝だけど、水川くんが撮ると、『時間が流れた痕跡』になる。完璧に設計されたものが、ゆっくりと崩れていくロマンティシズム……。それって、『永遠なんてない』って知ってる人だけが見つけられる美しさだよね」


 凪は、椅子の上で身じろぎもせず、葉月から目が離せなかった。


 言葉を重ねるたび、彼女の指先が、自分の心の最も脆い場所に触れてくる感覚があった。


(どうして、彼女はそこまで……)


 葉月は水たまりに映る逆さまの信号機の写真の前に戻ると、そっと語りかけた。


「水川くんの写真って、すごく静か。でも、それは単なる沈黙じゃなくて、『叫び声のあと』に残った沈黙なんだろうなって思うの」


「そして、この水たまり。それは、世界を映してるけど、触れようとすると歪む『鏡』なんだよね。まるで、声を出すのを恐れて、ずっと黙ってる、誰かみたい」


 彼女はそう言いながら、わずかに口角を上げた。

 その完璧な笑顔が崩れる一瞬、凪は再び、左右の筋肉の動きの非対称性と、その裏にある必死な努力を見た。


 葉月は、自分の持つ「完璧な声」という武器で、凪の持つ「沈黙」という鎧を、ゆっくりと、しかし確実に溶かし始めているのだ。


 そして凪は、それを拒絶できなかった。

 なぜなら、その葉月の指摘は、凪自身が言葉にできなかった真実そのものだったからだ。


 葉月は会話を区切ると、制服の内ポケットからスマートフォンを取り出した。

 ケースやカバーのない、きわめてシンプルなデザインだ。


 彼女は音を立てないように静かに窓辺へ移動し、部室の窓から見える街並みや、夕焼けに染まり始めた校庭にレンズを向けた。

 指が軽やかに画面をタップするたびに、デジタルシャッターの乾いた音が、「カシャカシャ」と静かな部室に響いた。


 その瞬間、凪の視線は釘付けになった。


 窓から差し込む、斜めに傾いた夕陽が、葉月の横顔を鋭く照らし出す。

 彼女は被写体に集中しているため、いつもの完璧な笑顔のガードを緩めていた。


 光の加減が、ごく特定の角度になったとき──凪は見てしまった。


 葉月の人中じんちゅうに走る、わずかな瘢痕はんこんの影。

 それは極限まで修正手術が施されており、普段は化粧や完璧な表情筋のコントロールによって完全に隠されている。


 しかし、この夕日の強すぎる光の下では、皮膚の表面張力のわずかな違いとなって、静かに存在を主張していた。


(彼女も……同じだ)


 凪の体は椅子の上で固まったままだった。凪がマスクで隠し、声を出さずに逃げ続けてきた傷と、彼女が「完璧」という名の城を築き、その内部に封じ込めてきた傷。


 葉月は、いったいどれほどの時間を、どれほどの痛みを伴う手術と訓練を重ねてきたのだろうか。


 その努力が積み重なった結果の「完璧な笑顔」は、凪には、もはや彼女自身の生々しい「演技の傷跡」のように感じられた。


 葉月がスマホを下ろすと、部室を支配していた不協和音のような「カシャカシャ」というシャッター音が鳴りやんだ。葉月は、凪の方へ振り返り、無邪気に笑った。


「うーん、私には水川くんが撮るような『優しい音色』は出せないかも。もし良かったら、水川くんが大切にしている『コツ』みたいなものを教えてもらえないかな?」


 その笑顔は、あまりに自然で、あまりに美しい。


 しかし、凪の目には、その完璧さの裏側にある、血の滲むような努力と孤独が透けて見えていた。

 彼女は、自分と全く同じ、あるいはそれ以上の痛みを抱えながら、この明るい光の中に立っている。


 そして、その事実は、凪の心の中に、初めて「共感」と「恐怖」という、相反する感情を同時に呼び起こした。



「じゃあ彩度とか。色の鮮やかさ、彩度を少し落として、マットで落ち着いた色合いにすると、静かで心地よい雰囲気が出るよ。あと、パステルカラーやアースカラーを意識してみるのも効果的かな」


 葉月は、その写真と、凪のマスクに覆われた顔を交互に見つめた。


「静けさ、か。でも、それって、『世界がうるさ過ぎる』ってことの裏返しじゃない?」


 凪は、口を開きかけたが、言葉を返すことができなかった。


 彼の求める静けさは、紛れもなく、日常の騒音や、他人の無遠慮な視線から逃れるためのものだったからだ。


「写真はね、色が鮮やかだと、それだけで目立つし、注目されるでしょ。まるで感情が爆発しているみたいに。だから、その逆の『静けさ』を表現するのは、意外と難しいんだ」


 凪は、葉月の完璧な笑顔を保つのと同じように、言葉を一音一音、丁寧に紡いだ。



 葉月は、スマホから顔を上げ、穏やかな微笑みを凪に向けた。


「奥が深いのね、写真って。でも、水川くんの写真はどれも『あなたの写真には、優しい音がある。世界に聞かせたくても聞かせられない、誰かの声の代わり』のような感じがする」


 彼女の言葉に、凪の背筋に冷たい電流が走った。


「あ、これは別に、私個人の戯言だから気にしないで、ね」


 葉月はそう言って、再びふわりと笑ったが、その言葉は凪の胸を深く抉っていた。


(世界に聞かせたくても聞かせられない、誰かの声の代わり──)


 その例えは、かつて凪が経験した苦痛そのものだった。


 週に一度、大学病院まで通っていた発音訓練の記憶が、鮮烈な苦味を伴って蘇る。


 それは、一度で完結するものではない。


 医師や言語聴覚士の指導のもと、何百回、何千回と、同じ言葉の発声の仕方を学ぶ、果てしない反復の日々だった。


 特に、サ行やラ行の発音は、凪にとって乗り越えられない壁だった。


 鏡の前で口を大きく開け、舌の位置を修正するたびに、自身の声が喉や鼻の奥で不自然に響くのを聞かされる。


 完璧な音を出そうとすればするほど、鼻腔に空気が漏れる「開鼻声」が強調され、自分の声が、自分のものではない「欠陥品」のように感じられた。


(あの苦しさを、この完璧な彼女が、どうしてそんなに正確に言い当てられるんだ?)


 葉月の言葉は、凪の最も深く隠されたトラウマを、やすやすと暴き出した。


 彼女は、凪の「沈黙」という鎧の隙間に、そっと共鳴する音を差し込んだのだ。


 凪は、マスクの下で強く唇を噛みしめた。


 葉月が自分と同じ経験を持っていることの確信が、共感という甘さと、秘密を知られたことによる恐怖とを混ぜ合わせ、彼の胸を満たしていった。


 葉月は、ふと視線を落とした。

 そこには、凪がデスクの上に何気なく重ねて置いていた数枚の写真があった。


 被写体は、自分の手のひら、殺風景な病室の風景、点滴台の横で無機質に光る器具、そして病院という隔離された場所から見える窓の外の景色。

 モノトーンのような寂しさを語る、数枚の写真。


「知ってる、この写真」


 葉月の声が、ひどく懐かしさを帯びたトーンに変わった。


「何だか寂しいけど、すごく懐かしい」


 彼女の表情が見せたのは、いつもの完璧な笑顔ではなかった。

 それは、すべてを包み込むような優しさ、遠い昔の記憶を懐かしむような、柔らかで温かい面持ちだった。


「それ、だいぶ前に入院してた時に撮った写真だから……、」


 凪は「だから」以降を紡ぐ言葉が見つからなかった。

 言葉にすれば、その全てが過去の痛みに繋がってしまう。短い空白が二人の間に生じた。


 葉月は静かに言った。


「大事なんだよね。大切なんだよね。ごめんね、大事なものを見ちゃって、ごめんね」


 彼女は、「ごめんね」を繰り返した。


 それは、自らの罪を罰するような、ひどく脆い謝罪だった。突けば壊れてしまいそうな、ひどく悲しそうな面持ち。

 凪は、その危うい表情の裏に、彼女自身も「隠しておきたい大切な傷」を持っていることを確信した。


(この人は、僕と同じ種類の孤独を知っている。知っているから、こんなにも深く謝るんだ)


 凪は、葉月が口を開けて笑った瞬間の唇の左右の非対称性や、特定の母音の響きに、凪だけが知る「自分と同じ匂い」を感じ取っていた。

 その秘密を『深追い』したい衝動と、目の前にある彼女の優しさを踏み壊したくない想いが、凪の心の中で互いに軋み合っていた。


「いいよ。これはあくまでも昔の記憶だから。そこに感傷的な想い出は、ないから……」


「そっか。病院っているだけでも苦しくなるよね、ごめんね」


 ひたすら謝罪を繰り返す葉月を見て、凪はこれ以上、この重い話題を続けることを恐れた。

 彼は、動揺を隠すために、ポートフォリオから別の写真を取り出した。


 それは、鮮やかな色彩を帯びた一枚だった。


 電線に止まった一羽の野鳥。頭から背にかけては青みがかった灰色、腹部から尾筒びとうの下にかけては、まるで生命が爆発したかのような鮮やかな黄色をしている。


「これ。山に登った時、偶然、見かけたんだ。僕は、鳥は詳しくないから。名前、知ってる……?」


 凪は、最も目を避け続けてきた「鮮やかな色」の写真を差し出すことで、重い空気を遮断しようとした。


 その問いかけは、過去の記憶から、今の「葉月」という存在へと、再び視線を戻すための、必死な試みだった。


 その写真の背景は期待通りに溶けていた。

 水しぶきを浴びた苔むす岩や深い緑の木々が、光と色彩の柔らかなボケとなり、鮮烈な黄色のコントラストを際立たせている。

 主役の鳥と背景の間には、明確な奥行きが生まれ、まるで立体的な切り絵細工のように、鳥が画面から浮き上がって見えた。


 葉月はしばらく目を細めた。


 凪が差し出した鮮やかな黄色の野鳥の写真を見て、葉月は少し困ったように眉を下げた。


「うーん、ごめんね、私にも分かんないや。残念ながら、野鳥については詳しくないの」


 その正直な言葉は、彼女の完璧な仮面の下にある、「何でも知っているわけではない」という人間らしい側面を垣間見せた。


 葉月はそう言って少し困ったように笑った。

 彼女の知識の広さでさえ、この分野はカバーしていなかったようだ。


「でもね、この写真は、すごく良いと思う」


 彼女はそう断言した。


「どこが良いって、はっきりと言語化するのは難しいけど……。なんていうか、凪くんの『目一杯の温かさ』みたいな感じがするの」


 その言葉は、凪の胸に、じんわりと染み込んできた。


 彼は、自分の内面にある「痛みの投影」として、いつも廃墟やモノトーンの写真を撮ってきた。そして、今この鳥の写真を差し出したのは、重い過去の話題から逃れるためだった。


 だが、葉月は、その逃避のために撮られた「鮮やかな色」の中にすら、彼の「温かさ」を見出したのだ。


 葉月の言葉は、いつだって技術論や美学を超越している。

 彼女は写真の技法ではなく、その裏にある凪の感情そのものを、正確に読み取っていた。


(僕の、目一杯の温かさ……)


 凪は、初めて、自分の声や傷を隠すために使ってきたカメラが、葉月という「鏡」を通して、彼自身の優しさを映し出す道具になり得るのだと悟った。


 部室の空気は、再び静けさを取り戻したが、その静寂は、もはや「沈黙」ではなかった。それは、二人の間に、言葉を超えた深い共鳴が生まれたことを示す、優しい余韻だった。



 葉月の「目一杯の温かさ」という言葉は、凪の心に深く響いた。

 彼は、この転校生との関係が、もう他人行儀な「水川くん」「遠野さん」という距離ではいられないことを悟っていた。


 凪は、鳥の写真からゆっくりと顔を上げた。

 マスクの下で、緊張のためか、口元が微かに引き締まるのを感じる。


「さっきさ、」


 凪は、言葉を選びながら、静かに切り出した。


「凪って呼んでくれたよね」


 葉月は、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。


「うん。……ごめんね、つい」


「ううん」


 凪は首を横に振る。


「いや、嬉しかった」


 そして、意を決して言葉を続ける。

 それは、声を出すことと同じくらい、あるいはそれ以上に、凪にとって勇気のいる行為だった。


「僕も……『葉月さん』って呼んでも、いいかな?」


 その問いかけは、単なる呼び名の変更以上の意味を持っていた。


 それは、「僕たちは同じ痛みを分かち合う、対等な存在として、もっと近くにいてもいいだろうか?」という、凪からの静かな願いであり、初めての自己開示だった。


 葉月は、瞳を潤ませるような、深い安堵の表情を見せた。


「もちろん。もちろんだよ、凪くん」


 彼女の返事は、完璧に整えられた優等生のものではなかった。

 ただ、「あの時」からずっと待っていた答えのように、温かく、静かな喜びを湛えていた。


 この瞬間、二人の間にあったガラス一枚分の隔たりは、ゆっくりと、しかし確実に溶け始めた。

 互いに違う楽器を演奏する協奏曲のように、僕たちの物語はここからゆっくりと始まった。


 僕たちは歩いてきた道は違えども、今、全く同じ場所に立っている。

 葉月は光の下で完璧な音色を奏でようとし、凪は影の中で沈黙のメロディを紡ぐ。


 その奏法は正反対だ。


 それでも、目には見えない糸が、どこにあるのか分からなくても、確かに僕たちを結びつけている。


 それは、病院の白い廊下で交わした、幼い日の記憶かもしれない。

 あるいは、互いの声の奥底に響く、誰にも届かないノイズを聞き取れる、不思議なえにしかもしれない。


 ガラス一枚分の距離を越え、二つの傷が、互いを求め始めている。



 その日、二つの傷は、互いを見つけ合った。


 それは、もう一人ではなかったことを静かに示す、確かな予感だった。


 僕たちは、もう一人ではなかった。


 つづく


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