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第1話:マスクの下の秘密と、転校生【後編】

 昼休みの終了のチャイムが鳴ると同時に、5時限目の授業が始まりを告げる。


 5限目は、日本史。

 暗記することは、得意だけれども、かといってそれに関心がわけでもないし、ありきたりで面白味もない。


 先生が話す言葉を聞き取り、黒板の内容を、ただひたすら板書する。


 時折に先生が問題を出し、生徒に答えを求めるという問答のやり取りを行う。


 しかし、凪にとっては、『正解を答える』のではなく、答えを『はっきりと話す』ことの方が難しい。

 ノートに答えは書ける。頭の中で正確な年号と人名も出てくる。

 当然、凪のところにも問答が回ってくることがある。


 その時、凪にとって難しいのは、『正解を答えること』ではない。


 難しいのは、その答えを、人前で『はっきりと、聞き取りやすいように話すこと』だ。


 声を出す前に、少し喉が締まるのを感じる。

 口の中、舌の位置、息の出し方……「サ」行や「カ」行の摩擦音や破裂音をどうすれば、空気が漏れずに、しっかりした音として出せるだろうか。


 たった一言を発するまでに、無意識のうちに複雑な調整作業が入る。


 答えが合っているかどうかの緊張よりも、『伝わるかどうか』の不安の方が、いつも凪の口を重くする。


 光陰、矢の如し。その言葉通り、凪が発言の困難さについてあれこれ考えている間にも、『時間』はあっという間に過ぎ去っていく。


 六限目の授業が終わり、ざわめきとともに今日という一日に終止符が打たれる。


 そう、凪は思っていた。



 ホームルームが終わると思いきや、担任の言葉で凪は昼休みの出来事を思い出した。


『――こちらは転校生の遠野葉月さんだ。遠野は写真に興味があるらしい。水川、おまえ、部長だったな。放課後、一度部室に案内してやれ』


 担任から告げられた言葉が、嫌な予感と共に脳内を反すうする。


 面倒だ。


(そもそも、なぜ僕が案内しなければならないのだろう?写真部は、誰にも邪魔されず、声を出さずにいられるたった一人の安息の地だというのに)


 教室の空気が変わる。

 凪は反射的に、マスクの下で口を固く結んだ。


(なぜ、こんな完璧な人が、僕の閉じた世界に入ってくるんだ)


 彼女の唇の端の微かな線、そして澄んだ声の奥に混じる「空気漏れ」の音。


 つまるところ自分だけが知るその秘密は、凪にとっての最大の恐怖であり、最大の興味でもあった。


 それは、凪の平穏な日常を打ち破る、鋭いガラス片のようだった。


 教室を出て、ざわつくクラスメイトの視線を背中に受けながら廊下に出ると、昼休みに見覚えのある遠野葉月が、すでに静かに立っていた。

 彼女は、自分から声をかけることなく、凪が近づくのを待っている。


 その立ち姿は、まるで絵画のように隙がなく、周囲の光を一身に集めているようだった。


 凪は、無意識のうちに、マスクの下で固く閉じた唇を、さらに内側に巻き込む。そして、彼女の顔から目を離せなかった。


(やっぱり、そうだ)


 凪の視線は、吸い寄せられるように、彼女の唇の上部、人中と呼ばれる縦の溝へと落ちる。

 確かに、その線は走っている。


 しかし、それは彼のものとはあまりにも違った。


 彼の傷が、光の角度によってはっきりと「縫い目」として影を落とすのに対し、葉月の人中は、極限まで修復され、肌理の粗さすら感じさせない。

 まるで、熟練の職人が、時間をかけて何度も研磨した宝石のようだった。


 同類にしか分からないほどに微細で、完璧なメイクと整った顔つきによって、その痕跡は完璧にごまかされていた。


 これが、同じ痛みを抱えているはずの、彼女の戦いの結果なのだろう。


 彼女が身につけた「完璧さ」は、彼のコンクリートのように固いコンプレックスを、軽々と踏み越えていく。


 彼女は、口唇口蓋裂を「受け入れるもの」ではなく、「戦って、打ち勝つべきもの」だと定義し、この高校に現れたのだ。


 凪の胸に、激しい羨望せんぼうと、深い敗北感が同時に湧き上がった。

 この完璧な存在の隣を、マスクで顔を隠し、声すら出せない自分が歩くことが、どれほどの公開処刑になるか。

 葉月は、その完璧な口元をわずかに引き上げ、ほほ笑む。


「水川くん。案内、お願いします」


 その声は、相変わらず澄んでいて、どこにも淀みがない。


 しかし凪だけは、その声の端に、今にもこぼれ落ちそうな「ガラスの音」を聞き取っていた。


 ◆◆◆ ◆◆◆

  “廊下を隔てて、二人は二つの世界を生きていた”

 ◆◆◆ ◆◆◆


 凪は葉月と目線を合わせたその一瞬で、逃げることを選んだ。


「……こっち」


 蚊の鳴くような、自信のない小さな声でそう告げると、彼は葉月に背を向け、早足になった。

 マスクの下で、無意識に唇を強く噛みしめる。一歩でも早く、この完璧な光の隣から、自分の影を引き離したかった。


 写真部の棟は校舎の裏手にあり、人気のない長い廊下を歩く必要がある。

 廊下に出ると、にぎやかな教室のざわめきは遠ざかり、二人の間に残されたのは、重く、密閉された空気だけになった。


 彼の耳には、自分の焦った靴音と、背後から追従してくる葉月の、一定のテンポを刻む靴音だけが響いていた。


 葉月の足音は、まるで精密な時計の振り子のように正確で、凪の不安な心拍数を嘲笑っているかのようだった。


 彼は自分の歩幅を広げたが、葉月は焦る様子もなく、常に凪の背後、しかし適切な「ガラスの距離」を保っていた。


(振り返るな。声を出したら終わりだ)


 凪の頭の中は、その二つの命令で占められていた。


 彼女は同類だ。


 しかし、彼女はそれを完璧に隠し、太陽の下で笑うことを選んだ。その完璧さの隣にいることは、自分の「不完全さ」を晒す公開処刑にも等しい。


 彼の首筋を、冷たい汗が伝った。


 彼は視線をひたすら床のタイルに落とし、自分の影だけを見つめた。


 廊下の窓から差し込む午後の光は、葉月を明るく照らし出しているだろうが、凪の影はただ地面にへばりついているだけだ。


 凪の思考は、焦燥と自己嫌悪で黒塗りにされている。


(一秒でも早く、この時間を終わらせて、部室に閉じこもりたい)


 彼は祈るような気持ちで、ここから少しでも早く逃げたいという焦燥心で、歩くスピードを上げた。

 それ以上に強烈なのは、声を聞かれることへの恐怖だ。


 次に何かを問われたら、どう答える?

 部長としての説明は避けられない。


 もし、たった一言でも心の乱れを覗かせてしまったら、その瞬間に彼女は見抜くだろう。

 そして、その完璧な笑顔の下で、静かに私の真情を受け止めるだろう。

 声を出さなければならない状況が訪れること自体が、耐えられなかった。


 そして、何よりも耐え難いのは、葉月という存在そのものだった。

 彼女の無傷で完璧な口元と、淀みのない声は、凪が幼い頃から何十回と手術とリハビリを繰り返しても辿り着けなかった理想の形だ。


 その理想が、今、すぐ後ろを歩いている。

 彼女の隣にいることは、自分の人中の傷痕はんこんが、自分の不完全さが、強烈なライトで照らし出されるように感じられた。


(彼女の完璧さに、僕は耐えられない。これは、僕への罰だ)


 彼は、マスクの下で強く目を閉じ、ただ写真部棟への扉が開かれることを願った。


 凪の内心は、「早く終わらせたい」「声を聞かれたくない」「彼女の完璧さに耐えられない」のの3つ要素が頭の中をぐるぐると回るように支配していた。


 その時、背後から、完璧に制御された声が飛んできた。


 葉月が初めて口を開く。


「写真部って、何人くらいいるんですか?」


 完璧な発音で、しかし凪の鼻音混じりの声と比べようとするかのように、ゆっくりと。

 凪は葉月の問いに対し、立ち止まらず、うつむいたまま、自信がなく極小の声で告げる。


「僕だけ。今のところ写真部は一人だよ」と、

 言葉の語尾を飲み込みながら答える。


 葉月は、凪の声の鼻に抜ける音を正確に一音一音、正確に聞き取り、一瞬、満足したような表情を浮かべる。


 それは一秒も満たない、わずか0.5秒の出来事だ。


 すぐさま彼女は、『笑顔』という完璧な仮面でそれを覆い隠した。


「そう、ですか。静かですね」


 葉月が発した「静かですね」という言葉は、凪の自己防衛としての「沈黙」を、彼の性質そのものとして肯定しているように響き、凪を激しく動揺させた。


 その「静かさ」は、生まれ持った口唇口蓋裂の傷痕はんこんが、文字通り彼の体中に、そして心に、幼い頃からこびり付いて取れない垢のように深く刻み込まれた結果だった。


 顔の人中じんちゅうにある傷痕はんこんは、当然のことながら消えることはない。

 そして、小学生の時に毎週のように通い、苦痛を伴う訓練を受けたにもかかわらず、いまだに完全には治りきらない、鼻に抜ける微かな声。


 そのすべてが、凪を社会から隔絶かくぜつさせ、「静か」であることを強制してきた。


 葉月の言葉は、その治りようのない傷と声の現実を、まるで静かなナイフで突きつけられたような感覚を凪にもたらした。


 やがて二人は、校舎から少し離れた、古びた特別棟へと続く写真部棟の前に辿り着いた。木製の小さなプレートには、かすれた文字で「写真部」と書かれている。


 凪が鍵を取り出そうと手を止めたとき、葉月はそっとプレートに視線を向け、ほほ笑みをわずかに緩めた。


 彼女はあごに手を当て、どこか遠くを眺めているような、虚ろな目つきになった。


「古い建物なんですね」


 葉月がそう呟いた。

 その声は、完璧ではあったが、どこか現実感がなかった。


 凪は、その一瞬、彼女の口元から目を離せなかった。

 完璧な笑顔という仮面の下に隠された、その一瞬の遠い横顔。その表情が、凪の脳裏に、七歳の夏休みに見た、あの記憶を呼び起こした。


 全身麻酔後の渇きと痛みで、白いベッドの上で身動きもできなかった自分。


 プレイルームの隅で、いつも誰とも話さず、静かに絵を描いていた、あの少女。


「……何か、ある?」


 凪は、反射的に、しかしほとんど息のような小さな声で尋ねた。


 葉月は、すぐに視線をプレートから凪に戻し、完璧な笑顔を再構築する。


「いいえ。ただ、懐かしいような気がしただけです」


「懐かしい」という言葉に、凪の心臓は激しく波打った。


 あの時、いつも自分にそっと、言葉にできない優しさを向けてくれた、あの小さな背中。



 葉月が、その写真部の前のプレートを見ている姿が、幼い頃に病院で出会ったあの子に、写真部のプレートを見てる姿が、なんか、幼い頃に病院で会ったあの子と重なって見えたんだ。


 凪の頭の中は、一瞬でパニックに陥った。過去と現在が激しくつながり、彼の意識を乱す。七歳の春休み、手術後の激痛よりも鮮明に覚えていた光景。



 白い部屋の隅で、いつも静かに絵を描いていた、あの口数の少ない女の子。

 言葉を交わすことはなかったが、彼女はいつも彼の方に視線を送り、そっとベッドの横に飴玉を置いてくれたのだ。


(まさか、ね。ありえないって。ただの偶然)


 凪は否定したくて、マスクの下で歯を食いしばる。


 だけど、葉月のあの完璧な笑顔の裏に見えた唇の傷跡と、あのサ行の「空気漏れ」の音は、あまりにも現実味を帯びていた。


 彼女がここにいるのは、本当に偶然じゃないかも。


 もし、本当に彼女が「あの時の子」だとしたら?


 問い詰めるか、一瞬迷ったけど、真実を知るには、問いの先。


 幼い頃の痛みや怖さから湧き上がる恐怖心から尋ねることはできなかった。


 彼は結局、沈黙を選んで、静かに鍵をプレートの下の穴に差し込んだ。


 その瞬間、葉月が、まるで古びたものを大事にするみたいに、「写真部」って彫られた木製プレートに、そっと指先で触れた。


「水川くん」


 葉月は、微笑んだまま、凪の目を見た。その瞳は澄み切ってて、凪の内側の動揺をすべて見透かしているようだった。


 あの病院の白と、この部室棟の古びた茶色が、一瞬重なる。


「……何の、話?」


 凪は、反射的に、しかしほとんど息のような小さな声で尋ねた。


 聞くつもりはなかったのに、言葉が漏れてしまった。

 葉月は、すぐに視線をプレートから凪に戻し、完璧な笑顔を再構築する。


「いいえ。ただ、古いものって、たくさん秘密を抱えてそうじゃないですか。写真って、そういう秘密を映し出すものだと思うんです」

「秘密……?」


 凪は、彼女の口から出たその単語を、オウム返しのように繰り返した。


 喉の奥が締まり、それ以上言葉が続かない。


「何を、探してる?」


 凪は、二度目の問いを、ささやくような、消え入りそうな声で絞り出した。


 自分の発音の弱さを晒すことへの恐怖を押し殺して。

 葉月は、その問いを聞き逃さなかった。彼女はさらに一歩、凪に近づく。


 その距離が、凪には耐えられなかった。


「ふふ。水川くんこそ、何を隠しているんですか?」


 葉月は、そう問い返すと、すぐに表情を引き締め、口元を緩めた。


「私、あなたの写真にすっごく興味があるんです。言葉じゃ言えないものを、どうやって写真に閉じ込めるのか。明日から、楽しみにしていますね」


 彼女の言葉は、表向きはただの入部前の挨拶。


 だけど、凪には「あなたの隠し事を、これからしっかり見させてもらうから」っていう、静かな宣戦布告にしか聞こえなかった。


 そして葉月は、凪が鍵を回し終えるのを待って、先に特別棟の暗い廊下に入っていく。


「明日、またね」


 彼女は最後にそう言い残し、立ち去った。

 その背中はピンと伸びてて、全然迷いがない。


 まるで、自分の行くべきステージに上がっていくみたいだった。


 凪は、サビついた部室のドアを開けながら、心の中で決意する。


 この転校生、遠野葉月は、凪の安息の地を邪魔する「鏡」だ。


 そして、もう、この鏡から目を逸らせない。


 明日から、彼女の正体と、その完璧さの裏側にある物語を、ファインダー越しに見つめることにしよう。



 チャリ、と鍵が回る音が響いた。


 その音は、彼が今日まで守り続けてきた静かな日常いばしょを、扉の向こうに閉じ込める合図だった。


 もう、後戻りはできない。


 少なくとも凪にとって、それは「静か」に、しかし明確に異物として入り込む瞬間だった。

 つづく






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