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赤星の黄昏  作者: 国家人民軍参謀本部戦史編纂室


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00. 沈みゆく巨人

不定期更新

気が向いたら書く


1985年3月3日 ソビエト社会主義共和国連邦 モスクワ モスクワ中央病院 特別病棟最上階

 窓の外では、鉛色の空からしんしんと雪が降り注いでいた。

 暖房が効きすぎた室内に、人工呼吸器の無機質な電子音が響く。

 病室の隅、重厚なカーテンの影で、数人の老人が声を潜めていた。

 その中の一人、分厚い眼鏡の奥から鋭い視線を放つ男――外務大臣アンドレイ・グロムイコが、重い口を開く。

「同志院長、同志チェルネンコの容態は?」

 問われた白衣の男は、脂汗を拭いながら首を横に振った。

「同志グロムイコ、芳しくありません。既に自発呼吸は不可能、もって数日かと」

「よりにもよって今か……困ったことになるぞ。回復の見込みは?」

「……同志レーニンを生き返らせるよりは、幾分か簡単かと」

 不謹慎なブラックジョークに、グロムイコは表情一つ変えずに頷いた。

「わかった。今の発言は、この部屋に置いていこう」

 これで3回目の指導者交代だ。

 党内の結束は揺らぎ始め、東欧諸国でも不穏な動きが起きている。

 超大国ソビエト連邦は今、崩壊の序曲を迎えようとしていた。


1985年3月4日 ソ連邦 モスクワ クレムリン宮殿 ソビエト連邦閣僚会議室

 巨大な会議室の空気は、何年も換気されていないかのように淀んでいた。

 磨き上げられたマホガニーの長テーブル。その上座――書記長の座るべき椅子だけが、主を欠き、寒々しい空白を晒している。

 集まったのは、連邦を動かす実力者たち。だが、彼らの顔に覇気はない。あるのは疲労と、終わりのない書類仕事への徒労感だけだった。

 沈黙を破ったのは、首相のニコライ・チーホノフだ。80歳近い老体は、そこに座っているだけでやっとのように見える。

「……国家計画委員会からの報告によれば、第11次五カ年計画の進捗は順調だ。重工業、エネルギー部門ともに、前年比でプラスを維持している」

 単調な朗読。誰もが知っている「建前」の数字。

 テーブルの端で、若き政治局員ミハイル・ゴルバチョフが苛立ちを隠すようにペンを走らせた。

 彼は顔を上げずに、低い声で問いかける。

「同志チーホノフ。その『順調な』報告書には、地方からの悲鳴は記載されていますか?」

「悲鳴、かね?」

「チュメニ油田からの報告です。実際の産出量は計画の80%を割り込んでいるとのこと。現場からは『部品がない、人がいない、動くトラックがない』との打電が止まりません」

 ゴルバチョフの言葉に、チーホノフは不愉快そうに眉をひそめた。

「西側からの妨害工作か? KGBはどうなっている」

「いいえ、同志首相。単純な事実です」

 口を挟んだのは、KGB議長のチェブリコフだった。冷徹な瞳が、テーブルの上の面々をねめつける。

「我々の労働者は、シラフで働くことを忘れてしまったようだ。先月だけで、未成年の飲酒による事故件数が過去最高を記録した……」

 重苦しい溜息が部屋に満ちる。

 誰もが知っている事実。だが、誰も解決策を持たない病巣。

 話題を変えるように、国防相のソコロフが唸った。

「で、肝心の食料事情はどうなんだ」

 農業担当書記でもあるゴルバチョフが、苦々しい顔で答える。

「昨年の穀物収穫量は、目標を5000万トン下回りました。……今年もまた、『敵』に頼らざるを得ないでしょう」

「アメリカから小麦を買うのか? 我々の金で?」

「西側の小麦を彼らが売ってくれなければ、レニングラード市民は明日からジャガイモの皮を齧ることになる」

 屈辱的な沈黙が流れた。

 超大国を自称する国が、パン一つ自給できず、敵国に頭を下げて食料を恵んでもらう。その矛盾が、老いた指導者たちの背中をさらに押し潰していく。

 外務大臣のグロムイコが、感情の読めない声で呟いた。

「プラウダ紙には載せられん話だ」

「……それで、外貨準備高は?」

「底が見えています。原油価格の下落が止まらない。このままでは、来年の冬を越す燃料すら輸入できなくなる」

 チーホノフ首相が震える手で眼鏡を外し、力なくテーブルに置いた。

 その乾いた音が、まるで小槌のように会議の閉塞感を決定づける。

「同志諸君。我々は……一体どこへ向かっているのだ」

 誰も答えない。

 主のいない書記長の椅子だけが、無言で彼らを見下ろしていた。


1985年3月4日 23:59 ドイツ民主共和国 マクデブルク近郊 ソビエト連邦軍西部方面軍 第3衝撃軍 防空レーダーサイト

 狭いレーダー車の中にいた男、アレクセイはため息をつきつつレーダー画面を眺めていた。

 車両には電子機器の熱と男たちの体臭、そして安煙草の匂いが混じり合い、鼻をつく独特の空気を醸成していた。

 P-18早期警戒レーダーの画面は、いつものように賑やかだ。

 昼夜を問わず、西側の「空の悪魔」たちは国境線ギリギリを飛行し、こちら側の反応時間を試してくる。それが日常だった。

 カチ、コチ、とアナログ時計が秒針を刻む。

 あと1分で日付が変わる。交代の時間だ。

「……あ?」

 アレクセイは間の抜けた声を漏らした。

 一瞬の出来事だった。

 緑色の画面を埋め尽くしていたノイズの砂嵐が、まるで誰かがスイッチを切ったように消え失せたのだ。

 それだけではない。常に国境線の向こう側を旋回していたF-15やトーネードの反応も、一斉にフッと消失した。

 完全なる静寂。

 クリアすぎる画面には、走査線が虚しく回るだけで、何一つ映らない。

 アレクセイは舌打ちをして、コンソールを掌でバンと叩いた。

「おいおい、またかよ。ポンコツが」

 西側の空軍が全員同時に着陸し、同時にジャミング装置の電源を切る確率と、この老朽化した真空管の塊がイカれる確率。考えるまでもない。後者だ。

 彼は誰も見ていないことを確認すると、足元のボロ布の下から小汚いスキットルを取り出した。

 キュッと一口、生ぬるいウォッカを喉に流し込む。胃袋が焼けつく感覚で、苛立ちを誤魔化す。

「クソッたれ、交代直前に余計な仕事を増やしやがって……」

 彼は足元から重たい工具箱を引きずり出し、金属のこすれる音を響かせながら蓋を開けた。

 手慣れた手つきでドライバーを握り、計器パネルのネジに手を掛ける。

 時計の針が、0時00分を指した。

 その瞬間、彼が座っていた車両ごと、世界が大きく跳ねた。


1985年3月5日 00:01 ソ連邦 モスクワ クレムリン宮殿閣僚会議室

 ズズズ、という不気味な地鳴りが、地下深くから這い上がってきたのは、日付が変わったその瞬間だった。

 重厚なマホガニーの長テーブルが、小刻みに震え始める。

 シャンデリアが揺れ、グラスの水面に波紋が広がり、積み上げられた書類の山が一つ、音を立てて崩れ落ちた。

「――地震か?」

 誰かが呟いた。

 揺れは十数秒ほど続いただろうか。

 体感にして震度4程度。日本の木造家屋なら悲鳴が上がるレベルだが、ここは赤い帝国の心臓部だ。

 厚さ数メートルの石壁と、核爆発の衝撃波にも耐えうる堅牢な基礎構造を持つクレムリン宮殿にとって、この程度の揺れは、巨人が身じろぎした程度に過ぎない。

 KGB議長のチェブリコフは、揺れが収まると同時に、手元の書類を淡々と整え直した。

「モスクワで地震とは珍しい。……地下鉄の工事で事故でもあったか?」

「あるいは、地下核実験の失敗か」

 国防相が冗談めかして言ったが、笑う者はいなかった。

 建物に被害はない。照明も明滅すらしなかった。

 彼らは動揺を押し殺し、すぐに「官僚の顔」に戻る。地震ごときで業務を止めるわけにはいかないのだ。

「確認を急がせろ!」

「『微弱な揺れを観測したが、被害はない』。そう公式で出すように」

 老いた閣僚たちが、再び死んだような目で議論を再開しようとした、その時だ。

 バンッ!

 重厚な扉が、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。

 入室を許されていないはずの下級士官が飛び込んでくる。軍服は乱れ、顔は紙のように白い。

「ぶ、無礼な! 何事だ!」

 チーホノフ首相が叱責するが、士官は聞こえていないかのように、震える声で叫んだ。

「ほ、報告します! たった今、大規模な地震を観測!」

「分かっている! 我々も今、揺れを感じたばかりだ。モスクワの被害状況はどうなんだ」

「ち、違います! モスクワだけではありません!」

 士官は息を呑み、信じられない事実を口にした。

「レニングラード、キエフ、ミンスク、トビリシ、果てはウラジオストクまで……!」

「……は?」

「それだけではありません! ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ブダペスト……全ワルシャワ条約機構加盟国の首都より、同時に『地震発生』の緊急入電! 全土です! ソビエト連邦および東欧の同盟国の『全領土』が、この瞬間、同時に揺れたとの報告です!!」

 会議室に、地震の時以上の静寂が落ちた。

 グロムイコが、ゆっくりと眼鏡の位置を直す。その指先が、わずかに震えていた。

 地質学的にあり得ない。

 ユーラシア大陸の半分を覆う広大な領域で、同時に、同じ規模の地震が起きるなど。

「……おい。ワシントンはどうなっている」

 チェブリコフが低い声で割り込んだ。

「ホットラインは生きているのか? これは、アメリカによる新型兵器の攻撃ではないのか」

 士官は首を激しく横に振った。

「そ、それが……現在、通信室はパニック状態です! 西側諸国、および中国方面への回線が一切繋がりません!」

「切断されたのか?」

「分かりません! あらゆる周波数帯で強烈なノイズが発生している上に、各方面からの問い合わせが殺到しており、通信網が完全にパンクしています! 大規模な通信輻輳が発生中! 事故か、敵のジャミングか、あるいは回線の物理的切断かすら判別不能!」

「北京は? パリは? どこか一箇所でも繋がる国はないのか!」

「ダメです、全滅です! 応答があるのはワルシャワ条約機構加盟国のみ! 外部との連絡、一切つきません!」

 士官は悲鳴に近い声で報告を締めくくった。

「げ、現在、鋭意確認中です!!」

ドン、とチーホノフがテーブルを拳で叩いた。

「『確認中』で国が守れるか! 参謀本部は何をしている! 全部隊に第1級警戒態勢を発令しろ! ……敵が見えなくとも、何かが起きているのは間違いない!」

 士官が敬礼をして踵を返そうとした、その時だ。

 廊下から、複数の足音が走ってくる。

 今度は衛兵が二人、息を切らして飛び込んできた。一人は帽子を落としたまま、もう一人は銃を握る手が震えている。

「ほ、報告します! 月が……月が……!」

「月がどうした! 落ち着いて報告しろ!」

「月が、二つあります!」

 会議室が凍りついた。

 グロムイコがゆっくりと立ち上がりチェブリコフが眉をひそめる。ゴルバチョフのペンが紙の上で止まった。

「……何を言っている?」

 チーホノフの声は怒りというより、困惑に満ちていた。

「月が二つ、だと?」

「はい!西の空に通常の満月が!そして東の空にもう一つやや小さな満月が浮かんでいます!現在、クレムリン警備隊全員が目視で確認中!間違いありません!」

 誰も動かない。

 誰も言葉を発しない。

 老いた指導者たちは、まるで言葉の意味を理解できないかのように、互いの顔を見合わせた。

 グロムイコが、重い足取りで窓へと歩み寄り、分厚いカーテンを引く。

 外はモスクワの夜。降り続く雪が街灯の光を反射して淡く世界を照らしている。

 そして、その上空、西の空には、いつもの満月。黄色みがかった見慣れた天体が静かに輝いていた。

 だが東の空。

 そこにはもう一つの月があった、やや小さく青白い光を放つ二つ目の月が。

 グロムイコの喉が乾いた音を立てた。

 背後で、誰かが椅子を倒す音がした。

 チェブリコフが窓に駆け寄り、ゴルバチョフが息を呑み、チーホノフが震える手で胸を押さえた。

「……神よ」

 誰かが呟いた。

 無神論を国是とする国家の閣僚が、神の名を口にした。

 クレムリン宮殿の窓から見える、ありえない夜空。

 二つの月は何事もなかったかのように、静かにモスクワを照らし続けていた。

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