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無人島の住民票──声の届かない島で

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/22

 その封筒は、ほとんど広告のような顔をしてポストに差さっていた。


 薄いクリーム色の紙。差出人は「内閣府 人口密度最適化推進本部」。

 長い肩書きにうんざりしながら、真島悠人は玄関先でその場で開封した。


 中には、二枚の書類が入っていた。

 一枚目は、聞き慣れたようで聞き慣れない政策名を説明するチラシだった。


『人口密度の最適化に関するお知らせ』


 そこには、こんなことが書いてあった。


・都市部の過密解消および地方の過疎是正を目的とし

・全国民から公平かつランダムに対象世帯を抽出し

・“未利用区域”への移住をお願いすることになりました


 お願い、という言葉の隣には、細かい文字で「※法律に基づく義務です」と添えられている。


 悠人は苦笑し、その下の行に目を走らせた。


『なお、貴世帯は今回の最適化対象として選定されました』


 そこで、視線が止まる。


 思わず、二枚目を引き抜いた。


 そこには、簡潔な表が印刷されている。


――――――――――

世帯主氏名:真島 悠人

配偶者氏名:真島 奈央

子 ど も:真島 ひかり(一歳六か月)


転居予定日:来月一日

転居先住所:無人島特別区域第七号

――――――――――


「……無人島?」


 声に出してから、自分でおかしくなった。


 無人島に住所がついている。しかも「第七号」ときた。

 無人であるはずの場所が、番号で管理されている。


 そこへ、玄関の奥からひょこっと顔を出したのは妻の奈央だった。エプロン姿で、片腕にはひかりを抱いている。


「悠人くん? 誰から?」

「政府。人口密度の、ええと、最適化だってさ」

「なにそれ、高層マンション建て直すとかじゃなくて?」


 苦笑いしながら封筒を渡すと、奈央の表情がみるみる変わっていくのが分かった。


「……ねえ」

「うん」

「これ、冗談じゃないよね」


 冗談みたいな紙を握りしめたまま、二人はしばらく黙っていた。

 ひかりだけが、分かっていない顔で「んば」と声をあげる。


 テレビをつけると、ちょうどニュースでこの政策が取り上げられていた。


『なお、今回の最適化は、AIによる完全ランダム抽出に基づいております。収入や職業、年齢、家族構成にかかわらず、全国民が平等に選ばれる仕組みです』


 スタジオで、コメンテーターがそれらしいことを言う。

 画面の端には、カラフルな円グラフが踊っていた。


「ねえ、ランダムってさ」

「うん」

「外れたかったよね」


 奈央のつぶやきに、悠人は苦笑いするしかなかった。


     ◇


 説明会は、市役所の会議室で行われた。


 悠人のように「当選」したらしい家族が、十組ほど集められている。

 前の方にはスーツ姿の男たちが並び、「人口密度最適化推進本部」と書かれた立て看板が立っていた。


 担当者の一人が、よく通る声で話し始める。


「皆様、本日はお忙しいところお集まりいただきありがとうございます。今回の最適化政策は、わが国の未来を守るための大変重要な試みでして──」


 聞き飽きたようなスローガンと、聞いたことのない専門用語がセットになって、会議室の空気をじわじわと薄くしていく。


 隣で奈央が小さくため息をついた。


 ひととおり説明を終えたところで、一人の男が手を挙げた。

 中年の、少し神経質そうな顔だ。


「あの、質問いいですか」

「はい、どうぞ」


「無人島って、どういう意味なんですか? 本当に誰もいないんですか?」


 担当者はにこやかに首を振った。


「いい質問です。『無人島』という言葉のイメージについて、少し誤解があるかもしれません」


 ホワイトボードに、ペンで二つの円を描く。


「一般的に、『無人島』と言うと、誰も住んでいない島、というイメージでしょう。しかし、行政上の定義は少々異なります」


 右側の円に「行政上の無人島」と書き込んだ。


「行政上の無人島とはですね、『国勢調査その他の統計において、居住人口がゼロと記録される区域』を指します」


「でも、それって……」と別の誰かが口を挟む。

「僕たちが住んだら、ゼロじゃなくなるんじゃ」


「いいえ」


 担当者は、柔らかく、しかしぴたりと言った。


「皆様は、そこにお住まいになりますが、統計上は“いない”ことになります」


 ざわっと、空気が揺れた。


「法律上の細かい話になりますが、皆様の住民票は『無人島特別区域台帳』に移されます。こちらは、通常の自治体のデータベースとは接続されておりませんので、国勢調査その他の統計には反映されません。その意味で、無人島というわけです」


 意味が分かったような、分からないような説明だった。


「帰ってくることは……?」


 奈央が、勇気を振り絞って尋ねた。


 担当者は、一瞬だけ言葉を選ぶように黙った。


「現在のところ、一定期間経過後の再抽選による再移住の可能性について、検討を進めております」


 それはつまり、「決まっていない」という意味だ。


「再抽選」も、「再移住」も、実際には一度も行われない類いの言葉に聞こえた。


     ◇


 出発の日は、妙にさっぱりとしていた。


 港には、同じ市から選ばれたらしい三世帯が集まっている。

 子どもたちは、まだ事態の意味が分からないのか、波打ち際で走り回っていた。


 白い船体の小さな船が、一隻だけ桟橋に横付けされている。

 その側面には、「未利用区域活用事業」と、控えめなロゴが描かれていた。


 乗船前に、係員から携帯電話とノートパソコン、タブレットなどを回収された。


「危険物の持ち込みは禁止ですので」


 係員は、マニュアルどおりの笑顔で言った。


「電話って、危険物だったんですね」

「電波の混信などの恐れがございますので」


 代わりに渡されたのは、分厚い紙の手帳と、鉛筆一本だった。


「ご意見・ご要望などございましたら、こちらにご記入のうえ、島の役所にお出しください。必ず拝見し、今後の運営に活かしてまいります」


 それが、彼らの「声」の行き先だった。


     ◇


 船は、思ったよりも長いあいだ、灰色の海の上を進んだ。


 島に近づいた時、悠人は無意識に、携帯電話のポケットを探ってしまい、そこで初めて、もう手元にないことを実感した。


 甲板の上に出ると、風が髪を乱す。ひかりが、ぱあっと顔を輝かせた。


「あ! おうみ!」


 海を「おうみ」と呼ぶのは、最近覚えたばかりの単語だ。


「そうだよ、海だ」


 そう答えながら、悠人は前方を見た。


 そこに現れた島は、想像していた「無人島」とはまるで違っていた。


 港にはコンクリートの岸壁が整備され、小さなクレーンが備え付けられている。

 丘の上には、同じ規格で建てられた家が十棟ほど並び、その中央には、やけに立派な庁舎のような建物が建っていた。


 庁舎の屋根には、国旗と、「無人島特別区域第七号 管理事務所」という看板。


 電柱は途中までしか伸びておらず、風力発電の小さな風車と、ソーラーパネルがところどころに見える。

 だが、外部とつながるアンテナの類いは、どこにも見当たらなかった。


     ◇


 上陸すると、役所の職員らしき男が出迎えに来た。


 灰色のスーツにネームプレート。

 この島に似つかわしくないほど、きっちりとアイロンのかかった服装だった。


「ようこそお越しくださいました。管理事務所長の日比野と申します」


 柔らかな笑顔と、抑揚の少ない声。

 官僚的な、しかしどこか芝居がかった挨拶だった。


「ここが、皆様の新しい生活の場になります。住宅はすべて新築で、水は地下水をろ過し、電力は自家発電でまかなっています。最低限のインフラは整っておりますので、ご安心ください」


「通信は?」と、誰かが尋ねた。


「外部との通信設備は、ございません」


 日比野は、さらりと言った。


「災害時などには?」


「その場合は、こちらで責任をもって対応いたします。皆様からのご相談は、すべて管理事務所でお受けし、必要に応じて本土の関係部署と連絡を取り合うことになっております」


 必要に応じて。

 誰が、その必要性を判断するのか。


 日比野は続けた。


「まずは、世帯ごとに住民登録を行います。『無人島特別区域台帳』への転入手続きですね。こちらにお越しください」


 庁舎の中は、妙に涼しかった。

 外観は簡素だが、中は近代的で、窓口カウンターや番号札発券機まで備わっている。


 壁には「ご意見・ご要望はこちらへ」と書かれたポスターと、苦情処理のフローチャートが貼られていた。


 窓口で書類を書かされるうちに、悠人は、ふとある項目に目を留めた。


『転入前住所:○○市○○町

 転出先備考:無人島特別区域第七号(統計外特別区域)』


「統計外、って何ですか?」


 尋ねると、日比野は待ってましたと言わんばかりに説明を始めた。


「はい。皆様はここで生活されますが、本土の各種統計には反映されません。国勢調査、選挙人名簿、医療統計、教育統計などなど。そういった意味で『無人島』なわけです」


「じゃあ、選挙権も……」


「島内の自治会選挙には参加できますよ」


 日比野はにこりと笑った。


「ここでの暮らしに関することは、皆様のご意見を尊重して運営していきたいと思っております。皆様の“声”は、必ず私たちが受け止めます」


 受け止める先が、本土でないだけの話だ。


     ◇


 新居は、確かに立派だった。


 木造二階建てで、広さも、旧居のマンションよりはるかに余裕がある。

 庭には小さな畑と、雨水をためるタンク、それに簡易の物干し台までついていた。


「家だけ見たら、宝くじ当たったみたいだよね」


 奈央が、苦笑しながら言った。


「当たったのは、別のくじだけどな」


 二人で荷物をほどきながら、家の中を見て回る。


 テレビはあるが、アンテナはつながっていない。

 電話のモジュラージャックも、壁に穴だけが開いている。


 あるのは、島内で通話できるという内線電話と、役所から配られたラジオだけだった。

 ラジオは、一つのチャンネルしか受信しなかった。


『こちら無人島特別区域向け広報放送です。本日の天気は晴れ、波の高さは一メートル。水の節約にご協力ください──』


 聞き慣れない女声が、ゆっくりと今日の予定を読み上げていた。


 その夜、窓の外は、驚くほど静かだった。


 車の音も、電車の音も、隣のテレビの爆音もない。

 聞こえるのは、風と波の音、そして、ひかりの寝息だけ。


 静けさは、たしかに贅沢だった。


 しかし悠人は、その静けさが「外から切り離された結果」であることを、決して忘れられなかった。


     ◇


 数日もすると、島での生活のパターンが見えてきた。


 朝になると、役所のラジオが一日の予定を告げる。

 週に一度は共同作業の日があり、住民全員で道の草刈りをしたり、貯水タンクの掃除をしたりする。


 月に一度、補給船がやって来る。

 食料や日用品がコンテナで降ろされるが、船の乗組員が島に上がることはない。


 桟橋の端に、「立入禁止」と書かれた赤い線が引いてあった。

 それより向こうへ出ると、日比野が穏やかな声で注意してくる。


「安全のためですから」


 安全とは、誰の安全のことだろう。


 初めのうち、住民たちは、それでも前向きになろうと努力していた。


 元会社員の男が、島内通貨の導入を提案した。

 主婦たちが、子どものための遊び場を整備しようと話し合った。


 そうしたアイデアは、すべて紙に書かれ、役所の「ご意見箱」に投函される。


 日比野は、必ず翌日には丁寧なお礼状を返してきた。


『貴重なご意見ありがとうございます。前向きに検討させていただきます』


 その言葉だけは、どこの役所でも同じだった。


     ◇


 ある日、悠人は、どうしても我慢できずに、ひとつの書類を書いた。


『本土に残してきた母に、無事を知らせたい。手紙を送る手段を用意してほしい』


 丁寧な言葉で、しかし切実な思いを込めて。

 封筒代わりの茶色のファイルに入れ、ご意見箱の中に落とす。


 その瞬間、妙な手応えがあった。


 箱の中には、既に多くの紙が溜まっているらしい。


 数日後、日比野から返事が来た。


『ご家族へのご連絡につきましては、制度上の制約が多く、現時点では個別の対応が難しい状況です。なお、皆様のご様子につきましては、定期報告の形で大まかな情報が本土に共有されておりますので、ご安心ください』


 「大まかな情報」がどの程度のものなのか、想像もつかなかった。


 それでも、完璧に無視されない限り、まだマシだと自分に言い聞かせた。


 ところが。


 その一週間後、悠人は偶然、役所の裏口のそばを通りかかった。


 戸口の隙間から見えたのは、巨大な紙くずシュレッダーだった。

 ごうん、ごうんと音を立てながら、大量の紙を飲み込んでいる。


 その紙の端に、一瞬だけ見覚えのある文字が見えた。


 母、という二文字。


 悠人は立ち止まり、しばらく動けなかった。


 日比野が裏口から顔を出した。


「どうかしましたか?」


「いえ……」


 口の中が乾いて、声がうまく出なかった。


 日比野は、いつもの笑顔で言った。


「皆様からいただいたご意見は、個人情報保護の観点から、一定期間経過後、安全に破棄しております。ご安心ください」


 ご安心ください、と彼は言った。


 ご安心ください。

 ここで書いた言葉は、外には出ませんから。


     ◇


 その夜、悠人は奈央に、シュレッダーのことを話した。


「つまり……」


 奈央は、しばらく黙っていた。


「私たちの声は、どこにも届いていないってこと?」


「日比野さんの耳には、届いてるんだろうけどな」


「それ、届いてるって言う?」


 ひかりは、床で積み木を積みながら、「とうちゃく」と覚えたての言葉を繰り返していた。船のアナウンスの真似だ。


 届く、という言葉が、やけに残酷に聞こえた。


「……あの人、きっと悪い人じゃないんだろうね」


 奈央がぽつりと言った。


「仕事、なんだろうね。ただの」


 ただの仕事として、人の声をシュレッダーにかける。


 それは、個人の善悪とは別の場所で動いている仕組みのように思えた。


     ◇


 数か月が過ぎた。


 島の生活は、表面上は安定していた。


 畑には野菜が育ち、共同の井戸からは安定して水が出る。

 子どもたちは、小さな集会所で即席の「島立幼稚園」に通い、大人たちは交代で先生の代わりを務めた。


 島内の自治会選挙も行われた。


 候補者は二人。

 一人は、前向きなスローガンを掲げる元営業マン。

 もう一人は、控えめに「みんなの声を役所に届けます」と訴える元市議会議員。


 結局、元市議会議員が僅差で当選した。


 当選挨拶の場で、日比野が拍手をしながら言った。


「皆様の民主的なご意思が、きちんと反映されました。すばらしいことです」


 ただし、その意思が反映される範囲は、島内に限られている。


 島の外に対しては、誰一人として、何の影響力も持たない。


 ある意味で、それは究極に「安全な選挙」だった。

 外の世界の誰も、結果を気にしなくてよい「民主主義」。


     ◇


 ある夕方、港に見慣れない船が近づいてくるのが見えた。


 いつもの補給船ではない。

 もっと小さく、白いペンキが新しい。


 桟橋に駆け寄ると、船の横腹に「調査」とだけ書かれている。


 甲板には、カメラを構えた男と、マイクを持った女が立っていた。


 テレビ局、だろうか。


 住民たちがざわめく。

 誰かが「助けて」と叫ぼうとした、そのとき。


 日比野が、桟橋の赤い線の手前に立ち、静かに両手を上げた。


「皆さん、赤い線の内側までお下がりください」


 彼の声は、妙に通る。


 その隣に立つ若い職員が、ポータブルスピーカーを掲げ、船に向かって話しかけた。


「こちらは無人島特別区域第七号です。立ち入りは許可されておりません。撮影の際は、個人情報保護にご配慮ください」


 船上の二人は、こちらにレンズを向けることなく、岸壁や波打ち際を撮影している。


 女がマイクに向かって、何かをしゃべっていた。

 風に乗って、ところどころ言葉が届く。


「……かつて人が住んでいた痕跡も……現在は、居住者はおらず……政府による“無人島”活用プロジェクトの一環として……」


 悠人は、自分の足元を見た。


 確かに、赤い線のこちら側には、人が立っている。

 しかし、カメラのフレームの中には、誰もいない。


 船はしばらく撮影すると、そのまま去っていった。


 テレビには、きっと「誰もいない島」として映るのだろう。


 そこに、住民の姿は写らない。

 写らないものは、存在しないものとして扱われる。


     ◇


 そんな日々の中で、ひかりは二歳になり、言葉が増えていった。


「ここ、どこ?」と聞かれたとき、悠人は答えに迷った。


 日本、というには遠すぎる。

 海の向こうにある国、と言っても、彼女にはまだ分からない。


 結局、「ひかりのおうちの島だよ」とごまかしてしまう。


 そのうち、役所から一通の通知が届いた。


『出生届および就学に関するお知らせ』


 島で生まれた子どもたちの扱いについて書かれた文書だった。


『無人島特別区域において出生した子どもは、島内台帳にのみ記録されます。本土の住民基本台帳には記載されません』


 それはつまり、彼らの子どもは、国にとって「最初からいない」存在だということだ。


 学校教育についても、「島内での独自のカリキュラムにより実施」とだけあり、卒業後の進路については何も書かれていない。


 奈央は、紙を握りしめたまま震えていた。


「この子たち、どこにも属さないの?」


 悠人は、答えられなかった。


     ◇


 やがて、島の中にも、空気の差が生まれ始めた。


 仕組みを受け入れて、ここでの暮らしをできるだけ快適にしようとする人たち。

 いつか戻れると信じ、日々の生活を仮のものとして過ごす人たち。

 そして、そのどちらにもなれずに、酒に逃げる人たち。


 自治会長になった元市議は、日比野とよく話し合いをしているようだった。

 島内放送では、「管理事務所との建設的な対話が進んでいる」と盛んにアピールされる。


 悠人は、そんな放送を聞きながら、自分がどちらの側にも立ちきれないことに気づいていた。


 ある晩、日比野から呼び出しがあった。


 管理事務所の応接室には、コーヒーの香りが満ちていた。

 ここだけ、どこか別の国の官庁のような空気が漂っている。


「真島さん。少し、お話ししたいことがありまして」


 日比野は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。


「真島さんは、以前からたいへん建設的なご意見をくださっていますね。水の配分方法や、共同作業の効率化。それから、島内の子どもたちの学習環境についても」


「あれは、ただ気になったから書いただけで……」


「いえいえ。とても参考になっております」


 彼は、机の上の書類をぱらぱらとめくって見せた。


 そこには、悠人が出した「ご意見」たちが丁寧にファイリングされている。

 シュレッダー行きにならなかった分だ。


「そこで、ひとつお願いがありましてね」


 日比野は、言葉を区切った。


「管理事務所の非常勤職員として、お手伝いいただけないでしょうか。島民の皆さんの声を、ここで取りまとめる役目です」


 悠人は、一瞬言葉を失った。


「つまり……苦情窓口、ですか」


「言い方を選ぶなら、『相談窓口』ですね。真島さんのような方が窓口にいてくだされば、皆さんも安心してご意見をお寄せになるでしょう」


 安心して。


 安心して、どこにも届かない言葉を書けるように。


 それが、彼らの言う「参加」の形なのだろうか。


「もちろん、待遇についても、島内基準ではありますが、できる限りの配慮をさせていただきます」


「もし……断ったら?」


「その場合は、また別の方にお願いするだけです。ただ、真島さんにお願いできれば、私としてはとても助かります」


 それは、個人的な好意のように聞こえた。

 だが、個人的な好意でこの仕組みが変わるわけではない。


 悠人は、奈央とひかりの顔を思い浮かべた。


 彼らのために、自分は何ができるのか。


 ここでただ文句を言い続けてシュレッダー行きにするより、窓口の内側に立って、少しでも何かを変えられるのではないか。


 そんな都合のいい幻想が、一瞬だけ頭をよぎった。


 やがて、彼は静かにうなずいていた。


「……分かりました。やります」


「ありがとうございます」


 日比野の笑顔は、いつもより少しだけ、心からのものに見えた。


     ◇


 それからの悠人は、窓口カウンターの内側で働くようになった。


 番号札を呼び出し、一人ひとりの話を聞く。


 水が足りない。

 畑にイノシシが出る。

 子どもの将来が不安だ。


 皆、同じことを繰り返し訴えている。


 悠人は、真剣に耳を傾け、必要な書類を書き、日比野の決裁印をもらうために回覧する。


 ときどき、本土に対する要望も出てくる。


「うちの親に、一度でいいから電話をさせてほしい」

「自分の退職金がどう処理されたか知りたい」


 そういう書類は、決裁のフォルダとは別の「検討中案件」ファイルに区分される。


 ファイルは、徐々に厚みを増していく。


 ある日、そのファイルが丸ごとシュレッダー室に運ばれていくのを見た。


 日比野は、申し訳なさそうに言った。


「制度上、どうしても限界がありましてね」


 悠人は、何も言わなかった。


 窓口に戻ると、番号札を握りしめた住民が、また一人、椅子に座って待っていた。


「次の方、どうぞ」


 それでも人は、自分の話を「誰か」に聞いてほしい生き物だ。


 たとえ、その誰かが、シュレッダーの手前で立ち止まるだけの存在であったとしても。


     ◇


 季節が二巡した頃、島にまた新しい世帯がやって来た。


 かつての自分たちと同じように、不安そうな顔で、しかしどこかでまだ「何とかなるかもしれない」と信じている表情。


 管理事務所の玄関で、日比野が出迎える。


 その横に、今は悠人も立っている。

 胸には、「相談員」と書かれたプレート。


「ようこそお越しくださいました。ここが、皆様の新しい生活の場になります」


 日比野が、かつてと同じ文句を繰り返す。


 新しい住民の一人が、恐る恐る聞いた。


「あの……無人島って、本当に誰もいない場所なんですか?」


 悠人は、日比野と目を合わせた。


 日比野は、軽くうなずく。

 その合図は、「説明をお願いします」という意味だ。


 悠人は、口を開いた。


「一般的に、『無人島』と言うと、誰も住んでいない島、というイメージだと思います。でも、行政上の定義は少し違うんです」


 彼は、ホワイトボードに円を描きながら、かつて自分が聞かされた説明をなぞっていく。


「行政上の無人島というのは、『国勢調査その他の統計において、居住人口がゼロと記録される区域』のことです。つまり──」


 新しい住民たちの視線が、一斉に集まる。


「ここに住む人たちの声は、外には届きません。だから、『無人島』なんです」


 言いながら、自分の喉の奥が少し焼けるような感覚がした。


 彼らは、しばらく黙っていた。


 やがて、一人がぽつりとつぶやく。


「……そんなの、人がいるのに無人って、矛盾してませんか」


「はい」


 悠人は、静かに答えた。


「矛盾しています。でも、紙の上では、そういうことになっています」


 紙の上で、人は存在したり、しなかったりする。

 住民票に名前があれば「いる」ことになり、別の台帳に移されれば「いない」ことになる。


 その違いは、ここに来てしまえば、骨身に染みて分かる。


     ◇


 数年後。


 どこか別の町のテレビの前で、誰かがニュースを見ている。


『政府は本日、「人口密度の最適化」政策の中間報告を公表しました。報告によりますと、都市部の居住人口は適正水準に近づき、地方における空き家活用も進んでいるとのことです。また、未利用区域として指定されていた無人島の有効活用も進み、“無人島”の数は統計上、着実に増えているということです』


 画面には、青い海にぽつんと浮かぶ、小さな島の映像が映し出される。


 そこには、きれいに並んだ家々も、役所の庁舎も、畑も、雨水タンクも写っている。


 しかし、そこに住んでいる人々の姿は、やはりどこにも見えない。


『これらの島は、現在も“無人島”として記録されています』


 アナウンサーの滑らかな声が、当たり前の事実のように伝える。


 画面の片隅には、小さく「資料映像」と表示されている。


 その「資料」の中で、誰かが洗濯物を干し、誰かが子どもを抱き上げ、誰かが役所の窓口で番号札を握りしめていることなど、誰も気に留めない。


     ◇


 その頃、第七号の島では、今日もラジオが流れていた。


『こちら、無人島特別区域向け広報放送です。本日の天気は晴れ、ときどきくもり。波の高さは一メートル。水の節約にご協力ください』


 管理事務所の窓口には、「ご意見・ご要望お待ちしています」と書かれたポスター。


 その下に、小さな文字で注意書きが添えられている。


『※いただいたご意見は、島内においてのみ活用されます』


 悠人は、そのポスターの前で、今日も番号札を呼ぶ。


「二十三番の方、どうぞ」


 カウンターの前に、一人の男が椅子に腰掛けた。


「この島って、本当に、俺たちの存在ってどこにも記録されてないんですかね」


 男は、笑うでも泣くでもない顔で言った。


「家族に、自分がまだ生きてるって証明したいんですよ。どうしたらいいですかね」


 悠人は、いつもどおりに書類を取り出し、ペンを握った。


 そして、いつもどおりに答える。


「こちらにご記入ください。必ず、お預かりします」


 それが、彼に許された、最大限の誠実さだった。


 紙に書かれた文字は、やがてファイルに閉じられ、一定期間を過ぎれば、丁寧にシュレッダーにかけられる。


 そうして、静かに消えていく。


 紙の上から消えた「住民」は、最初からいなかったことになる。


 無人島。


 そこは、人が住んでいるのに、誰もいないことになっている島。


 そして今日もまた、新しい住民票が一枚、「無人島特別区域台帳」に追加される。


 その台帳に、いつか誰かが目を通す日が来るかどうかは、誰にも分からない。


 ただひとつ、はっきりしているのは。


 統計上、この島の人口は、これからもずっとゼロのままだということだった。

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