それでも今の人生を選ぶ~その理由
あれからずいぶんたった。
俺もとうとう定年退職の日を迎えることになった。
俺はデスクから缶コーヒーを取り出す。
あれ…もうない。
そっか…昨日ので最後だったんだ。
バシュ
いつも聞きなれた音
もう
あの音をここで聞くことはないだろう。
「お疲れ様です」
入社3年目の同僚が声をかけてくる。
「あーお疲れ」
「これ良かったらどうぞ」
近くのコーヒーチェーン店のコーヒーを差し出した。
「えっこれは?」
「いや…。
昨日…先輩の缶コーヒーが最後なのを見て、
ほら今日…先輩引退じゃないですか…
俺…ずっと先輩に世話になってて、
お返しもなにも出来ていないので、こんなんじゃ全然足りねぇのはわかってるんですが…。
ちょっとしたお礼ということで。
すみませんー受け取ってください」
「あっそうか。
あー。こういう良いコーヒー始めてだな。
いつもほら安いコーヒーばっかりだったから。
そっかありがとう」
「いえ。ぜんぜんっす」
同僚のくれたコーヒーはとても甘くてウマかった。
これはなんてコーヒーだと聞いたら
魔術の詠唱みたいなのを唱えてきたから
これは注文するの無理だな。
今日が最初で最後だと…
じっくり味合うことにした。
その後引き継ぎ業務をこなし送別会に行った。
知らない顔も何人かいた。
お酌されるが、なんだか申し訳なかった。
いろいろ細々とした贈り物なんかをもらった。
これでこの会社ともお別れか…
そう思いながら
帰宅する途中
あのバーをみかける。
カバンを探すとクーポン券があった。
ワンドリンク…いや1000円は使わないとなと思い見ると
チャージなし ワンドリンク無料 ワンドリンクだけでもOKと書いてある。
これは太っ腹だな。
妻からは
「今日は遅くなるでしょ」
と言われていたが、思ったより早く送別会が終わったので
見栄もあるし、少しだけ寄ることにした。
カウンターにはあの男が座っていた…
当時とまったく変われない姿で
「お久しぶりですね」
「覚えてくれていましたか」
「もちろんですよ。今日は定年退職でしょ」
「えっ?なんで…それを」
「まーいいじゃないですか。それより乾杯しましょう」
俺たちは乾杯をして、しばし語りあった。
…
「では…今日はここまで…。機会があればまたお会いしましょう」
と男は席をたつ。
「あーそうだそうだ。今日の夢であの後を見せてあげましょう」
最後にそう言われて
男は去っていった。
俺もうちに帰り、
妻に
「最後の勤めを果たしてきた」と報告をする。
妻は
「長々とお疲れさまでした」
深く頭を垂れた。
「いや君がいなかったら…ここまでこれなかったよ。ありがとう」
と俺は答えた。
ひさしぶりに二人で酒を飲んだ。
その日は発泡酒ではなくビールだった。
つまみは皮つきのピーナッツだった。
―――――――――――
俺は睡魔に襲われる。
夢の中で走馬燈のように色々な映像が浮かぶ。
ミュージシャンの俺は
昔の仲間と音楽性が合う曲だけコラボしていた。
逆に昔の仲間に楽曲提供したり、逆に仲間から楽曲提供してもらったりしていた。
留学した俺は
元ルームメイトと共同研究を始め、共同で研究開発し、共著を出した。
作家の俺は
オリンピックのパワーリフティングの女性選手と結婚し 二人で世界中を旅しながら講演や執筆を行っていた。
お笑い芸人の俺は
先輩と動画配信で遠隔地同士の漫才 元相方との部分的コラボ ピンとしての活動をしていた。
経営者の俺は
若手経営者の支援 小さな商圏の覇者を目指す弱者の戦略のコンサルティング業務や オープンソースのソフト開発をしていた。
研究者の俺は
偶然基礎研究が応用研究につながり大成した 離婚して教え子と再婚している。
結婚離婚を繰り返した俺は
無常観を感じて出家するが、縁あってお寺の娘さんと結婚して寺を継ぐことに
現在は結婚と恋に悩む人たち向けに『バツ5坊主の恋の説法』というセミナーを開く
NPOの俺は
環境系の周辺企業を設立し、もとNPOメンバーも参加。環境保護関連ビジネスで成功していた。
俺は目覚めた時
「みんなよかったな。お疲れ様」
そう呟いた。
―――――――――――
後日 妻との買い物途中で
あのバーの近くを俺は通りかかった。
そこにはバーはなく
ただ潰れた1件の映画館があった。
映画館には色褪せたポスターが1枚
スーツ姿でハットをかぶる男が描かれていた。
小さな文字で、こんなコピーが読めた。
『人生はいつだって、途中で観る映画より美しい』
END