9話 新たな観測者
第9話
放課後の図書館は、いつも通り静寂に包まれていた。
湿った空気が漂い、古紙とインクの微かな匂いが鼻をくすぐる。
磨かれた床に反射する光は弱々しく、高い天井まで伸びる書架の列は、深い影を落としていた。
遥斗がいつもの窓際の席に着くと、ほどなくして佐倉いおりがやって来た。彼女は何気ない素振りで隣の椅子に腰掛けたが、どこか躊躇いが感じられた。
机の上に置かれた古びた「異端の書」と遥斗の横顔を、彼女は交互に見つめる。
「ねえ、朝倉くん。最近……何か、変わった?」
佐倉は唐突に口を開く。その声は囁くように小さかったが、鮮明に響いた。
遥斗は一瞬、心臓が跳ねるのを感じ、曖昧に微笑んだ。
「別に……変わったことなんてないよ。いつも通りだよ」
「嘘」
佐倉の声は、わずかに強くなる。
見透かすような視線に遥斗はぎくりとし、机の下で手を強く握りしめる。爪が食い込む痛みで、なんとか平静を装おうとした。
図書館の空気がひやりと冷え、まるでフィルターがかかったように、窓から差し込む光が不自然に色褪せていく。
「……おや、気付いたか。いおり嬢」
芝居がかった芯のあるテノールが、空間に割り込んだ。壁からでも、天井からでもなく、まるで遥斗自身の内側から響くようでありながら、同時に佐倉のすぐ傍からも聞こえた。佐倉の目の端に、影が形を結び、裂けた口の“誰か”がはっきりと映る。
ウルフカットの黒髪、病的に白い肌、痛々しい縫い傷だらけの痩せた体――ロギュルは、まるで待ちかねた舞台の幕間で観客にウィンクするような、悪戯っぽい、しかしどこか底知れない調子で、深々と一礼した。
「やあ、はじめまして。名乗り遅れたね。私の名はロギュル・トランスグレッソル……いや、やめておこう、ロギュルでいいよ」
佐倉はいきなり姿を現した“影”の男に、一瞬、呼吸すら忘れ、金縛りにあったように動けなくなる。
遥斗もまた、唖然としてロギュルを見るが、ロギュルはそんな二人の反応を楽しむかのように、飄々と佐倉に近づいた。
「君は、面白いね。物語の役者でありながら、こちら側の気配もある――危うい気配だ」
ロギュルは佐倉の顔を覗き込む。ぽかりと開いた奈落への入口のような目に意識が吸い込まれてしまいそうだった。
佐倉は震えながらも、ロギュルを見据えた。見た目に反して強い反応に愉快になったのか、ロギュルの口角が上がる。
「……あなた、朝倉くんの……なに?」
絞り出すような声だった。
ロギュルはくつりと喉を鳴らし、愉しげに目を細める。
「さあ、何かな。相棒であり、語り部であり、ときに物語そのもの。あるいは、ただの寄生虫かもしれない。君がそれを“怖い”と思うなら、それが真実に一番近いのかもしれないね」
言葉と同時に、図書館の光が一層青白くなる。蛍光灯がチカチカと不規則に点滅し始め、窓の外では風が唸りを上げ、木々の枝が不気味な影を窓ガラスに踊らせていた。
書架の間の影が、まるで生き物のように、じわりじわりと広がり始めていた。図書館全体が、変容していくような感覚があった。
「……佐倉さん、下がって」
遥斗は咄嗟に佐倉をかばうように立ち上がる。視線の先、一番奥の書架、郷土史や古い民話が収められた棚の奥から、何かが気配があった。ギシギシ、ズルズル、と音が響く。
目線の先に這い出てきたものは、ページがちぎれて乱暴に貼り合わせられたような体を持っていた。
古びた羊皮紙や、黄ばんだ和紙、色褪せた挿絵が歪に組み合わさり、人型のようなものを成している。体には、無数の目と口が、悪趣味なコラージュのように埋め込まれていた。
目はちぐはぐで、ぎょろぎょろと絶え間なく動き、口はそれぞれ異なる囁きを漏らしている。
童話の挿絵がそのまま悪夢となったような、異様で冒涜的な存在だった。
インクとカビの匂いが、あたりに立ち込める。
「今夜の主役は、童話集から生まれた悪魔『千の語り部』。忘れられた物語、歪められた結末、その怨念の集合体さ。――さあ、今日も幕は上がった。演じるぞ、遥斗くん」
ロギュルが口角を吊り上げ、その姿がすうっと薄れると同時に、遥斗の背中にふわりと影が重なる。
体が内側から焼かれるように熱く、鉛を流し込まれたように重くなる感覚――受肉が始まった。視界が明滅し、耳の奥で声が囁く。
悪魔は這いずる音と共に書架をなぎ倒し、無数の“語り”を呪詛のように呟く。悲しい結末、救われない英雄、報われない愛の断片。時折、悲鳴が混ざり、ざらざらとした不快な音の羅列だ。
佐倉の顔が青ざめ、立っているのがやっとというように壁に手をつく。
『今回は君だけの戦いじゃない。君を“見ている”観測者がいることで、物語の筋書きも揺らぐ。彼女の存在が、新たなページを拓くかもしれない。ここからは即興劇だ。アドリブの覚悟はできているかね?』
ロギュルの声が脳内に直接響く。それはいつものように軽薄でありながら、どこか確信に満ちていた。
『さあ、物語を進めよう。守るものがある英雄は、いつだって新たな道を切り開く。もう一段階、受肉を進めようか。ふふ、これでは私のほうが悪魔のようだね』
「何でもいい! 佐倉さんは……絶対に守る!」
『いい返事だ。そうでなくては楽しくない』
ロギュルが言い切るのと同時に、遥斗の感覚が剥離した。
握りしめた右手から、全ての感触が抜け落ちる。そして、頭の中で低く乾いた声が響いた。
何を言っているのかは聞き取れない。音が重なり合い、圧縮されたような発音だった。
その声に合わせ床が歪み、バキバキと音を立てながら、遥斗の手の内へと伸びてくる。
悪魔は甲高い叫び声を上げ、書棚を蹴散らし、無数の紙片とインクの飛沫を放ちながら迫ってくる。紙片は鋭い刃となり、インクは粘つく呪詛となって遥斗を襲う。
遥斗は真正面から立ち向かった。手にはいつのまにか漆黒の棒が握られている。ただの床だったとは思えないほど、本質から変化し、鉄のような密度を持っていた。
金属音のような硬い音、紙の破れる甲高い音、直接魂に語りかけるような叫び声、そして本のページが嵐のように舞い散る音。
図書館の空間が軋み、照明が激しく瞬くたびに、現実と物語の“ひび”が深まっていく。悪魔は口々から異なる物語の破片を吐き出し、遥斗の惑わそうとするが、遥斗は佐倉の存在を背中に感じながら、意識を集中させている。
『――矛盾を突け! 多くの物語を抱えるが故に、そいつには確固たる“核”がない。』
遥斗は悪魔の動きの僅かな隙間、物語の継ぎ目を見出す。支柱を逆手に持ち、低く踏み込み、一気に駆け抜ける。
一閃。
悪魔の胴体に棒がめり込む。絶叫が響き渡り、貼り合わされていたページがばらばらになって宙を舞う。文字は意味を失い、挿絵は色を失い、やがて残った紙片が黒い靄となって、まるで存在しなかったかのように消えていく。
後には、なぎ倒された書架と、散乱した本、そして息苦しいほどの静寂が残った。
遥斗は荒い息を吐き、受肉の反動で膝をついた。棒は黒い霧のような粒子となって消えていた。
たった一撃であったが、今までの戦いよりもはるかに体力を奪われていた。ロギュルの言ったアドリブ――受肉の深化は危険なものだ。遥斗の額から冷や汗が流れ落ちる。
「……朝倉くん……」
か細い声に振り向くと、佐倉いおりがそこに立っていた。いまだ怯えた表情ではあったが、しっかりと遥斗と、その背後に再び薄っすらと姿を現したロギュルを見据えていた。
彼女の視線の奥には、恐怖と同じくらい強い、あるいはそれ以上の好奇心がある。
この日から、佐倉いおりもまた、否応なく、“物語”の中に足を踏み入れることになる。彼女という新たな“観測者”を得て、遥斗とロギュルの物語は、予期せぬ方向へと転がり始めるのだった。
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