8話 変わりゆく心
再び静寂を取り戻した図書館で、遥斗はしばらくその場から動けなかった。
床に崩れ落ちたまま、汗ばんでぬるりとした掌で、冷たく硬い支柱を握りしめる。
現実と自分を繋ぎ止める唯一の楔であるかのように。
耳の奥深く、鼓膜のさらに内側で、今しがたまで空間を震わせていた悪魔の咆哮がこびり付いていた。
高熱に浮かされた時の悪夢のように、遥斗の意識を圧迫し続ける。
ようやく乱れた呼吸が落ち着きを取り戻し始めると、途端に身体中のという身体中が悲鳴を上げ始めた。
強かに打ち付けた肩の鈍い痛み、切り裂かれたような脇腹の熱、全身を覆う鉛のような倦怠感。
まるで全身のエネルギーを根こそぎ吸い取られたかのようだ。肩で大きく息をつき、ゆっくりと顔を上げる。
あれほどまでに歪み、不吉な影に満ちていた図書館の景色は、今や何事もなかったかのように平凡な姿になった。
夕暮れの光が窓から斜めに差し込み、埃をきらきらと照らし出す、いつもの放課後の図書館だ。
(……終わった、のか?)
あまりに普段通りの姿に、現実感が希薄になる。
戦いの名残は、どこにも見当たらなかった。
砕けたはずの本棚も、千切れ飛んだ本のページも、幻だったかのように傷一つなく整然と並んでいる。
床に飛び散ったはずの血痕も、壁に刻まれたはずの爪痕も、何もかもが消え失せていた。
今の激闘そのものが白昼夢だったのだろうか。そんな疑念が一瞬、遥斗の脳裏をよぎる。
この現実が先ほどまでの悪夢と地続きであることを証明するかのように、遥斗の手の中に残る鉄製の支柱のずっしりとした重みと、体の奥底に焼き付いて消えない“恐怖と興奮”の鮮烈な名残だけが、リアルな感触として残っていた。
アドレナリンが逆流するような興奮と、死の淵を覗き込んだような凍てつく恐怖。二律背反する感情の余波が、まだ遥斗の魂を微かに震わせていた。
ふいに、内側でロギュルの声が優しく響く。脳に直接語りかけてくるような声だった。
『お疲れ様、ちいさな英雄くん。今日の君は見事だった。消耗は激しいようだが、それもまた戦い抜いた証だ。力任せではなく、己の判断と、そして何より私との連携で勝ち取った勝利だ。あの瞬間、君は確かに悪魔を凌駕した』
ロギュルの言葉に、遥斗は強張っていた心が一瞬緩むのを感じ、わずかに口元に力ない笑みが浮かんだ。しかし、すぐにその表情は曇り、静かに、絞り出すように答える。
「……でも、すごく、本当に怖かった。足が竦んで、動けなくなるんじゃないかって。正直、負けるかもしれないって何度も、何度も思った。あいつの声が、まだ耳にこびり付いてるんだ」
遥斗の脳裏には、悪魔の燃えるような瞳と咆哮、殺気が鮮明に蘇る。
『恐怖は否定しなくていい。むしろ、それが君を賢く、強くする。生き物である以上、恐怖は当然の感情だ。それを知り、乗り越えようとすることで、君はさらに成長する。だが――』
ロギュルは一瞬、言葉を切る。
沈黙の奥に、深い淵を覗き込むような静けさと、それでいて確かな信頼の温度が感じられた。これからの言葉を遥斗の魂に刻みつけるかのように。
『君はもう、物語の傍観者じゃない。誰かが用意した筋書きをなぞるだけの存在ではないのだ。自ら選び、危険を承知で歩み出した“主人公”だよ。その道に恐怖も痛みも伴うだろう。だが、それこそが君が生きている証、成長の証だ』
ロギュルの言葉が、じわりと胸の奥に染み込んでいく。遥斗は、自分の胸の中に小さな熱を持つ新しい炎が灯るのを感じた。未知への挑戦を恐れない勇気の炎だった。
やがて放課後の図書館は、閉館を告げるチャイムのメロディとともに、天井の蛍光灯が一つ、また一つと無機質な音を立てて消えていく。
光が失われるたびに、書架の影が濃く、長く伸びていく。遥斗は静かに立ち上がり、手の中の支柱をそっと元の本棚の隅、定位置であるはずの場所に戻した。
何事もなかったかのように、図書館には再び日常の静寂が戻ってくる。どこにも戦いの痕跡は残らない――だが、自分自身だけは、もう昨日までの自分ではないという、確信があった。
心の奥底で、何かが決定的に変わってしまったのだ。
人の気配が消えた薄暗い廊下を一人歩き、昇降口で外履きに履き替えて校舎の外に出る。
夕暮れの色が一層濃くなり、空は茜色から深い藍色へとその表情を変えようとしていた。
校庭の隅に植えられた桜の木々は、今は葉を落とし、寒々しい枝を空に突き上げている。
そこに生徒たちの姿はもうなく、風が砂を巻き上げる音だけが響いていた。
遠くで、飼いわれているのであろう犬の甲高い吠える声が、風に乗って聞こえてきた。日常の音のはずなのに、今の遥斗にはどこか知らない場所で聞く音のように感じられた。
遥斗は自分の頭上に、明確な何かの視線を感じて、反射的に空を見上げた。肌を粟立たせるような、まとわりつくような嫌な感覚。誰かが、もしかしたら誰か”たち”がこちらを見ていると強く感じた。
だが、当たり前のように、そこには誰もいない。ただ、夕闇の空が、どこまでも深く広がっているばかりだった。
見慣れたはずの校舎の影が、まるで巨大な生き物のように見えた。
(僕は……これから、一体どうなっていくんだろう)
家路を辿りながら、遥斗は胸の奥で小さく問いかける。
「英雄」になる。
その言葉の響きは勇ましく、魅力的だった。
実際にその一端に触れた今、それが想像以上に孤独で、そして常に危険と隣り合わせの危ういものであることを痛感し始めていた。
守るべきものがあるからこそ、失うことへの恐怖もまた大きくなる。
それでも、一度踏み出したこの道を引き返すつもりは、もうなかった。
あの図書館で感じた無力感と、それを乗り越えた瞬間の高揚感が、彼を先へと推し進めていた。
家に帰り、食卓で家族の何気ない会話に混ざりながらも、遥斗の心はどこか現実から浮遊しているような感覚に囚われていた。
湯気の立つ温かい夕食、テレビから流れるバラエティ番組の陽気な音楽。
妹の無邪気な笑い声、母の細やかな小言、父のいつものくだらない冗談――その一つ一つが、数時間前までの自分にとっては当たり前の日常だったはずなのに、今はまるで薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように感じられる。
どれもが懐かしくもあり、同時に、もう手の届かないどこか遠い世界の音のようにも聞こえた。
温かな日常と、自分が踏み入れた異質な世界との乖離が、遥斗を混乱させる。
(この平和な日常が、この温もりは、いつまで続くんだろうか……僕が戦うことで、本当にこれを守れるのだろうか)
異端の書は、机の上に置かれている。
そして、ロギュルの気配も、微かにだがすぐそばにあった。
見えない守護者のようでもあり、逃れられない運命の共犯者のようでもあった。
『油断するなよ、遥斗くん。勝利の美酒に酔うのは愚者のすることだ。勝利の後こそ、悪魔は牙を研ぎ、次なる獲物を狙う。そして、一度敗れた敵は、より執拗に、より狡猾になって襲いかかってくるものだ』
ロギュルの声が、静寂を破って遥斗の意識に流れ込む。
『夜の静寂に潜む影は、昼間のそれよりも強く、深く、そして狡猾になる。光が弱まれば、闇の力は増すのだ。心せよ。明日もまた、新しい“物語”が、否応なく君を待ち受けている』
遥斗は目を閉じ、深く息を吐いた。身体の奥に残る戦いの疲労と、ロギュルの言葉がもたらす新たな緊張感が、混ざり合う。
不思議なことに、孤独感とプレッシャーの中に、小さな安心を感じていた。自分一人ではないという感覚、そして、進むべき道が示されているという感覚から来るのかもしれない。
次の戦いは、もうすぐそこまで迫っている。遥斗は暗闇の中で、そっと拳を握りしめた。
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