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第7話 満席アンコールのその先

放課後の図書館には、昨日とは違う、張り詰めたような気配が濃厚に漂っていた。嵐の前の静けさのように、すべての音が吸い込まれていくような感覚。


 古びた木の床がきしむ微かな音さえも、今はどこか遠くに感じられた。


 天井に並ぶ蛍光灯は、自らの存在を主張するかのように、低い唸りを静かに響かせ、その無機質な光が使い古された机の表面を白く照らし出している。






遥斗は、机の上に置かれた分厚い装丁の「異端の書」を前に、何度か深く、ゆっくりとした呼吸を繰り返していた。微かに震え、緊張を隠せないでいる。


 昨日の戦いの直後はただただ現実感がなく、まるで悪夢の中にいるかのように呆然とするばかりだった。


 しかし、今は違う。


 一夜明け、ロギュルと対話したことで、あの出来事が紛れもない現実であったと、そしてこれからも向き合わねばならない試練なのだと、彼は理解していた。




「ロギュル、準備はできてる?」




すぐに頭の内側から芝居がかった、それでいてどこか安心感を覚える声が応えた。




『もちろんさ、ちいさな英雄くん。何を今更問う必要があるのかね? 君がその気なら、私はいつでも応える準備ができている。……だが、恐れるなよ。今回の舞台は、“昨日”よりも遥かに危険で、そして遥かに刺激的な、一段階上の舞台が君を待っている。もはや君は、安穏とした観客席には戻れない。否、戻ることなど許されないのだよ。君は自ら選んだのだから』




その言葉には、いつもの軽薄さの中に、確かな真実の重みが込められていた。遥斗はごくりと唾を飲み込む。観客席には戻れない――その言葉が、彼の胸にずしりと響いた。




「分かってる。……僕も、もう逃げないよ。昨日の僕とは違うんだ」




遥斗は祈るように、そっと手のひらで「異端の書」の古びた表紙を撫でる。


 指先から、じわりと生命を吸い取るような、それでいてどこか心地よい冷たい感触が伝わってくる。


 本が彼の覚悟に応えるかのように、微かな脈動を返しているかのようだった。


 そして、本が意志を持ったかのように、一枚だけページがふわりと軽やかにめくれた。


 ページには、昨日見たものとは異なる、禍々しくも美しい紋様が描かれていた。




 本棚が迷路のように入り組む奥の薄暗がりに、“存在”の気配が、急速に膨らんでいくのを肌で感じた。


 図書館の静寂を鋭く切り裂くように、どこか遠くで、しかしはっきりと、カツン、と硬質な何かが床を叩く乾いた音が響いた。一度だけではなかった。カツン、カツン、とそれは一定の間隔を置いて、ゆっくりと、だが確実にこちらへ近づいてきている。




遥斗の背筋を、まるで氷の指でなぞられたかのような、強烈な悪寒が這い上がっていく。全身の毛が逆立つのが分かった。




『来るぞ――覚悟はいいか!』




 ロギュルの声が、今までにないほどの張り詰めた緊張を孕んで、脳内に直接響き渡る。


 本棚の落とす影が、まるで生き物のように蠢きながら伸び、現実世界の輪郭が、水面が揺らぐかのようにゆっくりと歪み始める。


 書架と書架の間の空間が、まるで深淵への入り口が開いたかのように、じわじわと広がっていく。その闇は、図書館そのものを飲み込もうとしているかのようだった。




そして、淀んだ闇の中心に、“それ”は音もなく、しかし圧倒的な存在感を伴って現れた。




 舞台衣装のような、巨大なマント状の黒い布をその身に纏い、その布は光を一切反射せず、闇そのものを凝縮したかのように見えた。


 マントの下から覗く腕も脚も、常人のそれとは比較にならないほどに細く、そして異様に長く伸びており、関節があらぬ方向に曲がっている。




 顔と呼べる部分は、古い能面のように凹凸の少ない仮面で覆われており、その表面は感情というものを一切感じさせない。


 その仮面の目の部分だけが、まるで底なし沼のように暗い虚無を覗かせ、見る者の魂を吸い込もうとするかのように深く、暗く広がっているようだった。




 遥斗は、喉の奥で小さく呻きそうになるのを堪え、固く拳を握りしめ、意を決して一歩、悪魔の方へと踏み出す。床を踏みしめる靴音が、やけに大きく図書館に響いた。




「……ロギュル、行くよ。僕たちの力を見せてやろう」




『ああ、待ちかねたぞ!  その身に刻め、私の力を!』




 ロギュルの声が歓喜に震えるのとほぼ同時に、遥斗の身体を、再びあの激しい奔流が駆け抜ける。


 全身の細胞が一度分解され、再構築されるかのような、強烈な感覚だった。


 視界が一気に数段階も研ぎ澄まされ、薄暗い図書館の隅々まで、埃の粒子一つ一つまでが見えるかのようだ。


 聴覚もまた鋭敏になり、悪魔の衣擦れの音、自らの心臓の鼓動、そしてロギュルと思考が混じり合う微かな残響までをも捉える。


 背中には、昨夜と同じように、幻でありながら確かな感触を伴う、漆黒の翼が力強く拡がる感覚があった。 




 自分が自分でありながら、自分ではない何か――ロギュルと、思考も感覚も、魂までもがひとつに重なっていく。




 悪魔が、まるで氷上を滑るかのように音もなく、間合いを詰めてくる。


 そして、長い腕が鞭のようにしなり、鋭い爪で遥斗に襲いかかってきた。空気さえもが断裂するような音がした。


 遥斗は、身を低く屈め、間一髪で攻撃を躱す。そのまま床を滑るようにして近くにあった閲覧用の机の間をすり抜け、逆に悪魔との距離を一気に詰めた。




『やはり、筋がいい! 満席のアンコールのような最高の気分だ! さあ、足元を狙え。そこが弱点だ!』




 ロギュルの的確な指示が、脳内に直接打ち込まれる電流のように思考を駆け抜ける。


 遥斗は、手近にあった頑丈な金属製の本棚の支柱を、引き剥がすように素早く掴み取った。


 それを両手でしっかりと握り締めると、悪魔の細長い脚――膝裏と思しき一点めがけて、力の限り横薙ぎに振り抜いた。




ガギンッ! という甲高い金属音と共に、悪魔の細長い脚が不自然な角度に折れ曲がり、巨体が大きく体勢を崩す。


 すぐにあの仮面のような顔が、まるで首が三百六十度回転するかのように滑らかにこちらを向き、大きく開いた口元が、嘲笑うかのようにゆっくりと歪んだ。




 次の瞬間、悪魔が纏うマントのような影が、まるで巨大な捕食者のように遥斗に襲いかかかった。影は実体を持ち、無数の触手のように伸びてくる。


 遥斗は咄嗟に後方へ大きく跳躍し、その影の攻撃を紙一重で避ける。






『焦るな、相手をよく見たまえ。奴の動きにはパターンがある。そして何より、奴は君を誘っている。挑発に乗るな。油断は禁物だぞ、ちいさな英雄くん』




 ロギュルの冷静な声が、高ぶりかけた遥斗の意識を引き戻す。遥斗は深く息を吸い込み、荒くなった呼吸を整える。


 僅かな予備動作を見極め、再び接近の機会を窺う。


 恐怖はまだあった。それ以上に、この状況を打開したいという強い意志が彼を支えていた。




「僕はもう、逃げない。ここで……終わらせる!」




 遥斗の決意を込めた叫びが、静まり返った図書館に響き渡る。


言葉に反応したかのように、悪魔の能面のような仮面が一瞬、微かに揺らいだように見えた。それはほんの僅かな変化だったが、今の遥斗は見逃さなかった。




 遥斗は先ほど手にした支柱を、今度は天高く振り上げ、渾身の力を込めて悪魔の頭上から一直線に叩きつける。


ゴッ!という骨が砕けるような鈍い衝撃音と共に、悪魔の身体が大きくたわみ、今度は明確なダメージを受けたかのように大きく後退した。


マントの端が衝撃で千切れ、それが黒い靄となって虚空に舞い上がり、すぐに消えていく。




『いいぞ、もう一度だ!  奴はもう長くは保たない! 』




 ロギュルの興奮した声が背中を押す。遥斗は床を蹴って全力で駆け、体勢を立て直そうとする悪魔のがら空きになった脇腹を狙い、再び支柱を力任せに横薙ぎに振るった。




 悪魔の体が大きくよろめき、仮面の中心に深い亀裂が入るのが見えた。


 ――倒せる。そう思ったとき、悪魔の口から今までに聞いたこともないような、不気味な呻き声が響き渡った。


 ガラス窓がビリビリと震え、本棚から数冊の本が滑り落ちた。




 遥斗はもう恐れなかった。いや、恐怖を感じる余裕すらなかったのかもしれない。


 自分の中に存在する、逃げ出したいと叫ぶ“弱さ”と、それに抗おうとする“強さ”――そして、誰もが一度は願う”何者か”になると言う強い意志。




「これが――僕の選んだ、僕の物語だ!」




 渾身の力を振り絞り、亀裂の入った悪魔の仮面めがけて、支柱を脳天から真っ直ぐに振り下ろす。


 パリンッ!という甲高い破壊音と共に、悪魔の仮面が木っ端微塵に砕け散り、破片が光を反射しながら宙を舞った。


 同時に、悪魔の身体を構成していた黒いマントもまた、実体を失い黒い煙となって霧散していく。




 圧倒的な存在感を放っていた闇は一気にその勢いを失い、再び図書館には本来の静けさが戻ってくる。先ほどまでの激闘が嘘のように、ただ蛍光灯の唸りと、遥斗の荒い息遣いだけが響いていた。


 床に片膝をつき肩で大きく息をしながら、荒い呼吸を繰り返す遥斗の背後で、ロギュルの声がいつもの芝居がかった調子ではなく、どこか誇らしげに、そして静かに響く。




『よくやった、遥斗くん。実に見事な戦いぶりだった。君はもう、ただの“読者”じゃない。君は自らの意志で物語を選び、それを紡いだ』




 遥斗は床に力なく落ちた金属製の支柱を、なおも強く握りしめながら、全身を駆け巡った力の奔流の余韻と、心地よい疲労感に包まれていた。


 達成感が胸を満たし、同時に、これはまだ始まりに過ぎないという、次なる戦いへの予感が、彼の心を静かに揺さぶっていた。


 彼はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏には、まだ激しい戦いの残像がちらついている。




 図書館の窓の外、いつの間にか太陽はさらに傾き、夕暮れの最後の光が、まるで祝福のように、一筋だけ、静かに戦いを終えた遥斗の背中に差し込んでいた。その光は、彼の新たな物語の幕開けを告げているかのようだった。




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