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6話 日常が非日常へと







昼休みの図書館には、静寂とわずかな人の気配だけが漂っていた。 昨夜の死闘の記憶を反芻しながら、遥斗は奥の定位置に腰を下ろす。


 机の上には「異端の書」。そして周囲には、穏やかな日常――のはずだった。


 だが、その静寂は、どこか脆く壊れやすいものに感じられた。 本を読む生徒のページをめくる音が、異様に大きく響く。窓から射す光が一瞬だけ翳り、埃の粒が宙に留まる。


  周囲の空気が、少しずつ“違う世界”へと侵されていくような感覚が、遥斗の背筋を冷たく撫でていく。


 


(……さっきから変だ。すべてが静かすぎる)


 


 遥斗はそっと「異端の書」に手を触れる。すると、どこからともなくロギュルの声が降りてきた。


 


『油断は禁物だよ、遥斗くん。悪魔は一度滅ぼせば終わり、というものではない。物語の呪いは、人々の心や記憶、日常の“ひび”から何度でも滲み出す』


 


「昨日のやつ以外にも、まだ……?」


 


『もちろん。むしろ、ここからが本当の始まりさ。悪魔が一度この場所に現れたということは、“この世界の薄皮”が破れかけている証拠だ。君の日常が、ゆっくりと物語へと浸食されている』


 


 遥斗は、不安と期待が入り混じった複雑な感情で、窓の外を見やる。 運動場を駆ける生徒たちの声、遠くで響くチャイム、誰かが笑う声。


 すべてが自分だけ“取り残されている”かのように遠く、現実感が薄れていく。


 図書館特有の、古紙とインクの混じった匂いも、今日はいつもより濃厚に感じられた。まるで、匂いの奥に、別の何かが潜んでいるかのように。窓の外の景色は鮮やかなはずなのに、遥斗の目にはセピア色に霞んで見えた。


 


 午後一番の授業は現代文だったが、遥斗の頭にはまったく内容が入ってこなかった。教科書の文字はただの模様にしか見えず、教師の声も遠い残響のように響く。隣の席の女子生徒がノートに書き込むシャーペンの音すら、異常に大きく聞こえてくる。自分だけが透明な箱の中に閉じ込められ、外の世界と隔絶されているかのようだ。


 


 黒板に書かれた漢字が、一瞬、別の文字に見えたような気がした。錯覚だと自分に言い聞かせるが、一度感じてしまった違和感は、脳裏にまとわりつく。休み時間になると、クラスメイトたちが楽しそうに談笑しているのが、さらに現実離れして感じられた。彼らの言葉が、遠い異国の言葉のように聞こえる。遥斗は、自分がこの世界のルールから少しずつ外れていっていることを、肌で感じていた。


 放課後、廊下を歩いていると、クラスメイトが二人、壁際でひそひそと話しているのが耳に入った。


 


「……知ってる? また“怪談”が増えてきてるらしいよ」


「昨日の夜、図書室の窓から“何か”が外を覗いてたって……本当かな」


 


 遥斗はその会話に、無意識に足を止める。


 彼らの表情には、好奇心と、わずかな恐怖が入り混じっていた。その無邪気な会話が、遥斗の心臓を締め付ける。彼らが語る“怪談”は、遥斗にとっては生々しい現実なのだ。


 


 「図書室の窓から“何か”が外を覗いてた」という言葉が、特に遥斗の耳に残る。あの窓から、確かに悪魔がこちらを覗いていたのだ。その光景が脳裏に蘇り、ゾッとした。


 


(やっぱり……現実が、変わり始めている)


 


 廊下の窓から差し込む夕陽が、いつもより赤く、不気味に感じられた。影が長く伸び、まるで生き物のように蠢いている。遥斗は、自分の置かれた状況の深刻さを改めて認識した。日常の“ひび”から、物語が浸食してくる。ロギュルの言葉が、重く響く。


 


 放課後、遥斗はもう一度図書館へ向かった。昨日の死闘の舞台は、やはり何事もなかったかのように整然としている。破れた書架は元に戻り、散乱した本の山も、床の血痕も、すべてが消え去っていた。昨夜の出来事が夢であったかのように。


 


 遥斗の心には、昨日確かに存在した悪魔の気配が深く刻み込まれていた。


 静まり返った図書館の中を、遥斗はゆっくりと歩く。夕暮れの光が、窓から差し込み、書架の間に長い影を落とす。影が、まるで生き物のように蠢いているように見えた。


 


 誰もいないはずの書架の陰から、視線を感じた。遥斗は息を潜めて振り向く――そこには何もいない。ただ、影が妙に深く、床に染みのように広がっているだけだった。まるで底なし沼のように、遥斗の視線を吸い込む。


 


 遥斗はゆっくりと書架の間を進む。本棚に並んだ背表紙が、無数の目玉のようにこちらを見つめている錯覚に陥る。ふと、一冊の古びた本が、他の本よりも少しだけ前に出ていることに気づいた。その本に手を伸ばそうとした瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 


 そのとき、不意に「異端の書」がひとりでにページをめくった。風もないのに、紙が擦れる音が図書館全体に響き渡る。遥斗は本能的な緊張と共に、本に手を伸ばす。


 


『よくやった、ちいさな英雄くん。気配を感じ取ったな。次の“招待状”だよ』


 


 ロギュルの声は、どこか楽しそうだった。声には、遙斗の不安を煽るような、しかし同時に、微かな期待を抱かせるような響きがあった。


 


「……また、来るのか」


 


 遥斗の声は、僅かに震えていた。しかし、恐怖だけではない、ある種の決意が宿っていた。


 


『ああ。だが、今回は“昨日と同じやり方”では通用しない。悪魔は学び、成長する。君もまた、強くなれ』


 


 ロギュルの言葉は、遥斗の心に深く響いた。確かに、昨日の悪魔は、子供のように純粋な悪意だった。次に現れるものは、もっと狡猾で、もっと強力な存在かもしれない。


 


 遥斗は大きく息を吸い込み、背筋を伸ばした。自分の中の恐怖と向き合う。それがロギュルの言う「強さ」の本質なのだと、昨日の戦いで痛感したばかりだ。図書館の窓から差し込む夕日が、遥斗の顔を照らす。その光の中で、彼の瞳には、怯えだけではない、確かな光が宿っていた。


 


「分かった。……やるよ。僕も、もっと強くなる。もう逃げたくない」


 


 遥斗の言葉には、迷いがなかった。自分自身への誓いであり、ロギュルへの返答でもあった。


 図書館の奥、闇の中で、ページがまた一枚捲れる音が響く。遥斗の中で何かを決定的に変える合図のように思えた。それは、彼が「日常」から「物語」へと足を踏み入れた瞬間を告げる音でもあった。


 まるで遥斗の心臓の鼓動と共鳴しているかのように、大きく、深く響いた。図書館の静寂は、もはや恐怖の源ではなく、新たな戦いの始まりを告げる序曲のように感じられた。


 窓の外では、さっきまで隠れていた太陽が雲間から顔を覗かせている。だが、その陽射しでさえ、図書館の一隅に沈む“影”だけは、決して拭えなかった。


 


 影は、遥斗の足元にも伸びていた。遥斗の存在そのものが、この世界の“ひび”から滲み出した物語の一部となっていくことを暗示しているかのようだった。遥斗は、影をじっと見つめる。そして、ゆっくりと、中へと足を踏み入れた。


 彼の前には、未知なる物語が広がっている。そして、その中心には、彼自身が立っていた。


 

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