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第5話 変わりゆくもの

第5話


 悪魔を討った夜が明けても、遥斗の身体の奥深くには、経験したことのない種類の高揚と、ずっしりとした鉛のような疲労が奇妙なバランスで同居していた。

 アラームのけたたましい音で強制的に意識が浮上したとき、まず感じたのは全身の筋肉が軋むような痛みだった。

 特に、スチールの支柱を握りしめていた右腕は、まるで自分の意志とは無関係に痙攣しているかのようだ。

 昨夜の悪魔の断末魔が、まだ耳の奥で微かに反響しているような気さえする。

 

 だが日常は、そんな彼の内面の変化などお構いなしに、容赦なく彼をその流れに飲み込んでいく。カーテンを開ければ、窓の外にはいつもと何ら変わらない、鈍色の雲に覆われた空と、朝練に励む運動部員たちの掛け声が響く校庭が広がっていた。


 食卓では、眠そうな妹と新聞に目を落とす父、そして忙しなく朝食の準備をする母の姿。昨日までの自分なら当たり前だと感じていた光景が、まるで薄い膜を一枚隔てた向こう側の出来事のように、どこか現実感を欠いて見えた。

 

「遥斗、顔色が悪いわよ。ちゃんと寝たの?」

 

 母の心配そうな声に、遥斗は曖昧に頷くことしかできない。「うん、大丈夫」と絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 昨夜の激闘と、それに続くロギュルとの会話。それが全て夢だったのではないかという淡い期待と、指先に残る金属の冷たい感触や、心の奥底に刻まれた恐怖と高揚が、あれは紛れもない現実だったのだという確信。

 二つの相反する感覚が、奇妙な静けさの中でゆらゆらと混じり合っていた。

 

 重い足取りで登校し、騒がしい教室で自分の席に着いても、昨日の出来事の残滓は生々しく彼の中に在り続けた。

 友人たちは、週末の予定や昨日のテレビ番組について、いつもと変わらないトーンで談笑している。

 朗々と響く教師の声も、教科書の文字も、まるで頭の上を滑っていくように、少しも内容が吸収できない。

 自分だけが、この平和な空間から切り離された異物になってしまったような、そんな息苦しい疎外感が、じわじわと遥斗の胸を締め付けていた。窓の外を流れる雲を見つめながら、彼は何度も自問自答を繰り返す。

 

(僕は……本当に、昨日のことを乗り越えられたと言えるのだろうか? あれはロギュルの力に助けられただけで、僕自身の力じゃない。もし次もあんな化け物が現れたら? ――僕は、また恐怖に立ち向かえるのか?)

 

 授業が終わるチャイムが鳴っても、遥斗の心は鉛のように重く沈んだまま、一向に落ち着きを取り戻せなかった。友人たちからの昼食の誘いも曖昧な返事でやり過ごし、一人、机に突っ伏す。鞄の中、教科書の間に挟んで忍ばせた“異端の書”が、ひんやりとした石のような重みを持ってそこにあることを、彼は意識せずにはいられなかった。


 ページをめくれば、またあの声が聞こえるのだろうか。“いつでも呼んでくれ”――昨夜、別れ際にロギュルは確かにそう言った。

 その言葉は、一筋の光明であると同時に、底なしの闇への誘いでもあるように感じられた。

 

 昼休み。喧騒から逃れるように、遥斗は人影のまばらになった図書館へと足を運んだ。あの奥まった書架のコーナー。昨夜、死闘を繰り広げたはずの場所は、しかし、何の痕跡も残さずに元通りになっていた。砕け散ったはずの机はどこにもなく、乱雑に崩れ落ちた本の山も綺麗に整理整頓されている。


 まるで、最初から何もなかったかのように、埃っぽい古書の匂いと、均一な蛍光灯の光が静かに満ちているだけだった。一体誰が? それとも、これもあの異質な力のなせる業なのだろうか。そのあまりの日常性に、遥斗はかえって現実感が揺らぐのを感じた。

 

「本当に……本当に、現実だったのかな……」

 

 誰に言うともなく呟きながら、遥斗は鞄から“異端の書”を取り出した。黒ずんだ革の表紙は、手に吸い付くような奇妙な感触がある。

 

 その瞬間、まるで彼の呼びかけに応えるかのように、耳の奥に、あの落ち着いたロギュルの声が柔らかく響いた。それは昨日よりも少しだけ親密さを増したような、温かみのある音色だった。

 

『おはよう、ちいさな英雄くん。存外、タフなようだね。よく眠れたかい?』

 

「ロギュル……!」


 遥斗は安堵と緊張が入り混じった表情で、書物の表紙に手を重ねる。


「昨日のこと……あれは全部、本当にあったことなんだよな? 僕の、ただの悪夢じゃないんだよな?」

 

『もちろんだとも。君が見た異形の姿、肌で感じた痛みや恐怖、そして胸に刻まれた誇り――その全てが紛れもない現実だ。……ただし、少し認識を改めてもらう必要があるかもしれないな。これからは、そういった出来事が君にとっての“日常”になる、ということだ』

 

 ロギュルの言葉に、遥斗は小さく息を呑んだ。

 日常、という言葉の響きが、昨日までとは全く異なる意味合いを帯びて聞こえる。

 彼は少しだけ肩の力を抜き、本のページをそっと開いた。そこには、見慣れない文字や図形が、まるで生きているかのように蠢いて見えた。

 

「僕……本当に、これからも戦えるのかな。昨日は、ただ無我夢中だっただけで……」

 

 声が震える。昨夜の恐怖が、生々しく蘇ってくるようだった。

 

『英雄というものはね、遥斗、常に迷い、悩みながら、それでもなお前に進む者のことを言うのさ。君が昨日、あの圧倒的な恐怖を前にしながらも、震える足で一歩を踏み出した――その事実が、他の何よりも雄弁な証左だよ。怖いなら、怖いという感情を抱きしめたまま進めばいい。恐怖は決して悪ではない。むしろ、君を油断から守り、より鋭敏にしてくれるはずだ。ただし、一つだけ……“二度と同じ自分には戻れない”ということだけは、覚悟しておくといい』

 

 ロギュルの静かな、しかし有無を言わせぬ力強さを秘めた言葉が、遥斗の心に深く突き刺さる。ページを繰っていた手が、わずかに震えた。昨日の戦いの光景が鮮明に脳裏を過る。

 悪魔の裂けた口、叩きつけた支柱の異様な手応え、そして一瞬だけ感じた、背中に生えたはずの黒い“翼”の力強い感覚。あれは、もう失われた平凡な日常との決別を意味していたのかもしれない。

 

『さて、感傷に浸るのはそこまでだ。ここからが本番だよ、遥斗くん。君が討った悪魔は、いわば氷山の一角に過ぎない。この世界には、まだ数多の物語が呑み込まれ、呪詛に歪められたままの“呪い”が溢れている。それらは人々の無意識の奥底に潜み、時に現実世界へとその牙を剥く』

 

 ロギュルの声に、期待とも挑発とも取れる響きが加わる。

 

『君の手で、君だけのやり方で、それらを討ち、物語を解放するのだ。ちいさな英雄くん――これは、紛れもなく、君自身の物語なのだから』

 

 その声には、昨日よりもはっきりとした信頼と、そして遥斗という存在に対する純粋な期待のようなものが滲んでいた。それは遥斗にとって、重圧であると同時に、背中を押してくれる力強い追い風のようにも感じられた。彼はゆっくりと顔を上げ、誰もいないはずの空間を見据える。

 

「……分かった。僕はやるよ。ロギュル。それが僕の選んだ道なら」

 

 心の奥底で、何かがカチリと音を立てて切り替わるのを感じた。

 

「――もう、後戻りはできないし、するつもりもないから」

 

 その決意の言葉に応えるように、遥斗の内側で、ロギュルが満足げに口元を吊り上げる気配がした。それは、共に困難に立ち向かう者同士が分かち合う、静かな共鳴にも似ていた。

 

『それでこそ、私が選び選ばれただだけのことはある。私のバディだ。さあ、今日もまた、新たな物語の幕が上がる。用心するんだ、遥斗くん。敵は、君が思っている以上に巧妙に、“日常”のすぐ隣に潜んでいる――』

 

 遥斗は、図書館の静寂の中で静かに目を閉じた。胸の鼓動が、先程よりも少しだけ力強くなっているのを感じる。手にした“異端の書”のページが、ひとりでに、風もないのにぱらぱらと乾いた音を立ててめくれていく。まるで、次なる戦いの始まりを告げるように。

 

 窓の外では、朝から空を覆っていた分厚い雲がゆっくりと動き始め、その切れ間から、弱々しいながらも確かな陽の光が差し込んできていた。

 平凡だったはずの日常の裏側で、世界の見えない幕がまたひとつ、静かに、しかし確実に上がろうとしていた。その先にあるものが何なのか、今の遥斗にはまだ知る由もなかった。

 

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