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第4話 悪魔との対峙



 しんと静まり返った放課後の図書館。

 その奥まった一角で、にわかに空気が質量を増したかのように淀み始めた。古びた書架の間に漂うカビと紙の匂いに、焦げ付くような異臭が混じる。

 

 パチパチ、と天井の蛍光灯が不規則に明滅を繰り返した。その光が途切れる瞬間、世界の彩度が僅かに落ちるような錯覚に陥る。

 再び灯った光はどこか青白く、不気味な陰影を床に落とした。

 遥斗は、知らず知らずのうちに息を詰めていた。空気が粘つくように重く感じられ、呼吸すらままならない。

 恐怖とは少し違う。本能的な警戒感だった。

 

 本棚と本棚の間の、普段はただの影だまりにしか見えない空間。その闇のさらに奥底から、じわりと黒い靄が滲み出すように現れた。

 最初は薄っすらとした煙のようだったものは、みるみるうちに濃度を増し、明確な輪郭を帯び始める。

 それは“人”の形をしていた。いや、“人”であったのかもしれない何かの残滓――と表現する方が適切だろうか。

 異常に長い手足が、ありえない角度に折れ曲がりながら蠢いている。

 全身を覆う影は、まるで自ら意思を持っているかのように揺らめき、その実体を曖昧にしていた。

 だが、その顔があったであろう場所には、大きく、醜悪に裂けた口元だけが、歪な三日月を描いて笑っていた。目はなかった。しかし、その存在全体が放つ強烈な指向性が、遥斗の全身を射抜くように感じられた。

 間違いなく、自分を見据えている。

 

「ひっ……」

 

 遥斗の喉から、か細い悲鳴が漏れた。足が床に縫い付けられたように動かない。

 その時、遥斗の内側に、澄んだテノールのような声が直接響いた。それは思考に割り込むように、しかし決して不快ではない不思議な感覚だった。

 

『見えたかね? あれが悪魔だ。物語の呪いが、現実の法則を歪めて顕現した姿。……初めて見るには、少々悪趣味なやつが選ばれたな。やれやれ”英雄”の運命と言うのは、いつも作り話以上にドラマティックなものだ』

 

 ロギュルの声には、どこか冷めたような響きがあった。

 

『恐れるな、と言うのは酷か。だが、君が私を選んだ。そして、君の中の“物語”が、あれを呼び寄せた。ならば、立ち向かうしかない』

 

「僕が……本当に、戦えるの……? こんな、化け物相手に……」

 

 声が震える。指先は氷のように冷え切り、心臓だけが早鐘のように鼓動を刻んでいた。今まで平凡な学生として生きてきた遥斗に、こんな異形の存在と対峙する力などあるはずがない。

 

『おや、君一人で戦えるわけがないだろう? もう忘れたのかね、我が器、そして我が肉体――受肉、開始だ』

 

 ロギュルの宣言と共に、遥斗の身体に力の奔流が流れ込んできた。背骨を起点として、冷たい液体が血管を逆流して駆け巡るような感覚だった。

 最初は微かな痺れだったものが、瞬く間に全身へと広がり、指の一本一本、髪の毛の先までが、得体の知れない力で満たされていく。

 視界の色調が劇的に変化した。色彩はより鮮烈に、輪郭は鋭利な刃物のようにくっきりと浮かび上がり、今まで見ていた世界が霞んで見えるほど、研ぎ澄まされた知覚が流れ込んでくる。

 図書館の隅に積まれた埃の一つ一つ、古書の背表紙の微細な傷までが、手に取るように認識できた。

 

 遥斗の意識の最も深い場所に、もう一つの確かで強靭な意志――ロギュルの精神が、パズルのピースがはまるように、ぴたりと重なった。それは乗っ取られるという感覚ではなく、自分自身が拡張され、より大きな存在と一体になったような、不思議な高揚感を伴っていた。

 

『大丈夫だ、遥斗くん。君は戦う意識だけ持てばいい。その恐怖を手放すな。恐怖こそが君を慎重にし、生き残るための最大の武器となる。ただ、前だけを見据えろ』

 

 ロギュルの声は、先程よりもずっと近く、まるで自分自身の思考のように感じられた。

 その言葉を合図としたかのように、悪魔がゆっくりと動き出す。長い脚が無音で床を滑り、距離を詰めてくる。靴音一つ立てないその動きが、逆に不気味さを際立たせていた。

 唐突に長い腕が鞭のようにしなり、遥斗の頭上めがけて振り下ろされた。鋭い爪のようなものが、蛍光灯の光を鈍く反射する。

 

「くっ――!」

 

 思考するよりも早く、遥斗の身体が反応した。まるで精密な機械のように、傍にあった学習机の天板を強く蹴り、後方へと大きく跳躍する。

 自分の身体でありながら、自分の意志とは異なる次元で動いているような、奇妙な乖離感。

 ガシャァン!という轟音と共に、先程まで遥斗がいた場所に悪魔の腕が叩きつけられ、木製の机が無残に砕け散った。木の破片が宙を舞い、教科書やノートが派手に崩れ落ちる。もし反応がコンマ一秒でも遅れていたら、今頃自分の頭蓋が砕かれていたかもしれない。背筋を冷たい汗が伝った。

 

『次が来るぞ! 左へ飛べ!』

 

 ロギュルの鋭い指示が脳内に響く。遥斗は床を転がるようにして悪魔の追撃をかわすと、偶然にも手に触れた、倒れたスチール製の本棚の支柱を掴み取った。ずしりとした金属の感触が、不思議と手に馴染む。

 悪魔が巨体を捻り、再び攻撃を仕掛けようとする。その懐が、一瞬がら空きになった。

 

「だあああっ!」

 

 無意識の雄叫びと共に、遥斗は悪魔の懐へと踏み込み、手に持った支柱を渾身の力で横薙ぎに叩きつけた。

 キィィン!という甲高い金属音が鳴り響き、硬質な手応えが悪魔の身体から伝わってくる。悪魔の巨体がぐらりとのけぞり、数歩後退する。

 しかし、悪魔は倒れない。裂けた口が、先程よりもさらに大きく、嘲笑うかのように歪む。その姿は、まるでダメージなど微塵も感じていないかのようだった。

 

『怯むな! 悪魔は人を騙すぞ。英雄としての第一歩を踏み外す愚か者になるか、やりきるか、自分で決めるんだ』

 

 ロギュルの言葉が、遥斗の心の奥底に眠っていた何かを揺り動かす。そうだ、自分は変わりたかった。誰かの役に立てる、強い自分に。こんなところで、恐怖に負けているわけにはいかない。

 

「うおおおっ!」

 

 遥斗は再び叫び、今度は支柱を頭上から力任せに振り下ろした。悪魔の長い腕が、それを防ごうと遅れて振り下ろされる。衝突の瞬間、ロギュルの力が遥斗の身体をふわりと引き上げるように作用し、悪魔の爪が頬を掠める紙一重のところで回避する。ヒリヒリとした熱感と共に、数本の髪が散った。

 

 その刹那、視界の端で、自分の背中から漆黒の翼が生えているような錯覚を覚えた。それはロギュルの力の具現化なのか、それとも単なる幻視なのか。だが、その翼は確かに自分に力を与えてくれているように感じられた。

 

『もう、やるべきことは見えているだろう? さあ、チェックメイトだ』

 

 ロギュルの声が雷鳴のように脳天を貫く。遥斗は悪魔の腕をかいくぐり、そのがら空きになった頭部と思しき部位――裂けた口のちょうど真上あたり――めがけて、ありったけの力を込めてスチールの支柱を叩きつけた。

 ズシン、と肉を貫き骨を砕くような、鈍く重い手応えが両腕に伝わる。

 

 悪魔は、今までとは比較にならないほど激しく身をくねらせた。声にならない絶叫が、図書館の空気をビリビリと震わせる。その巨体が激しく痙攣し、まるで陽炎のように揺らぎ始めたかと思うと、徐々にその輪郭が曖昧になっていく。黒い靄が霧散するように薄れ、やがて影そのものに溶け込むようにして、跡形もなく消え失せた。

 

 後に残されたのは、破壊された机の残骸と、床に散らばった本、そして不気味なまでの静寂だけだった。

 蛍光灯の明滅も止まり、安定した光が室内を照らしている。

 遥斗は、その場に膝から崩れ落ち、肩で大きく息をした。全身の筋肉が、まるで限界まで酷使されたかのように細かく震えている。だが、不思議なことに、あれほど魂を締め付けていた恐怖は、いつの間にか薄らいでいた。代わりに、経験したことのないような疲労感と、それを上回る確かな達成感が全身を包んでいた。

 

『――お見事。素晴らしい戦いぶりだった。これが君の最初の勝利だ、ちいさな英雄くん』

 

 ロギュルの声には、微かな称賛と、どこか満足げな響きが混じっていた。

 

「これが……僕の、力……本当に、僕がやったのか……」

 

 遥斗は、まだ震えの残る自分の拳をじっと見つめた。信じられないという思いと同時に、異質な高揚感が胸の奥から込み上げてくる。そして、その感覚はどこか懐かしく、満たされるような充足感を伴っていた。自分が本当に“何者か”になれたような、そんな確かな手応えがあった。

 ロギュルは、遥斗の内側で静かに、そして優しく微笑んでいる気配がした。

 

『ああ、君の力だ。だが、お忘れなく。私と君の――バディとして最初の共同作業の成果だ。……あの程度の悪魔は、いわば尖兵に過ぎない。奴らはまだ、この世界の至る所に巣食っている。この調子で頼むよ、ちいさな英雄くん』

 

 その言葉は厳しく、しかし絶望を感じさせるものではなかった。むしろ、遥斗の中の闘志を静かに燃え上がらせるような力があった。

 

『これは期待しても良さそうだ』


 ロギュルはまた、耳まで裂けた口を愉しそうに歪ませた。

 

 図書館の大きな窓の外では、いつの間にか夜の帳が静かに降り始めていた。街の灯りが遠くで瞬き、世界は何も変わらない日常を続けているかのように見える。

 しかし、遥斗にとって、そしておそらくこの世界にとっても、何かが決定的に変わってしまったのだ。

 新たな戦いの始まりを告げるように、深い藍色の空がどこまでも広がっていた。

 

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