第2話 ページの向こう
放課後の図書館は、昼よりもさらに静けさを増していた。
窓の向こうでは西陽が校舎の壁に赤い帯を描き、生徒たちの声も、すでに遠くへ退いている。
閲覧席の奥、背の高い本棚の影に、朝倉遥斗の姿があった。
机の上には“異端の書”――色褪せた布地に、かすかな金色の模様が残る古い本が、一冊。
遥斗は、その背表紙を何度も撫でるように指先でなぞりながら、ゆっくりとページを繰っていく。
内容は難解だった。どこかで読んだ神話のようでもあり、どこにも属さない物語の断片のようでもあった。
意味を追いかけるほど、文の端がぼやけていくような不安な感覚――遥斗は、意識を深く沈めて文字を追った。
ふいに、ページの間から一枚の古びたカードが落ちた。
はらり、と机に舞い落ちたそれは、擦り切れた縁に、奇妙な文様がいくつも刻まれている。
「……なんだ、これ」
思わず小さく呟いた自分の声が、図書館の静寂の中に吸い込まれて消えた。
カードには、見たこともない言語で何かが書かれている。
遥斗はしばらくそれを眺め、やがて不意の寒気に首筋をさすった。
そのとき――
ほんの一瞬だけ、視界の端に“何か”が揺らめいた。
黒い影。
いや、影というよりも、“誰か”が立っていたような――そんな錯覚。
遥斗はすぐに顔を上げ、辺りを見回す。
だが、図書館には他に誰もいない。
夕暮れの光が机の上を長く照らしているばかりだ。
落ち着かない気配のまま、カードを本の間に挟み直し、もう一度“異端の書”のページをめくった。
すると、奇妙なことに気がつく。
さっきまで普通に読めていた文字が、今は妙に曖昧で、滲んでいるように見える。
意味が、輪郭が、掴めない。
文字のあいだに、見知らぬ記号が滑り込んでくる。
それは、さっきカードにあった模様にも似ていた。
遥斗は、軽い眩暈を覚え、思わず目をこすった。
……まるで世界が、静かにずれていく様だった。
――カツン。
突如、図書館の奥で小さな靴音が響いた。
遥斗は思わずそちらを振り返る。
夕暮れの中、長い本棚の間を、誰かが歩いてくる。
薄暗い中、黒い髪――そして、ひどく細い影。
「……あの」
声をかけようとしたが、喉が渇いてうまく言葉にならなかった。
その人影は、遥斗の机のすぐ横で立ち止まる。
ふ、と黒い髪が揺れて、耳まで裂けた大きな口元が、ゆっくりと笑った。
「やあ、君。良い本を見つけたね」
その声は、どこか芝居じみていて、けれども乾いた木の皮がこすれるような、不吉な音色だった。
遥斗は言葉を失ったまま、ただその人物――人間とは言いがたい姿を見上げていた。
細い体、身体中を走る無数の縫い跡。
黒いウルフカットの長髪。
時代錯誤なデザインをしたスリーピースのスーツを着込んでいる。
異様な存在感に、遥斗は思わず椅子を引き、距離を取ろうとした。
だが、相手は一歩だけ近づき、身を屈めて遥斗の目の高さまで顔を寄せた。
「驚かせてしまったかな。だが、恐れることはない。私は――」
裂けた口が、不気味に笑みを深くした。
遥斗の体が強ばる。
「名を名乗るのが筋だろう? だが、私の名前は長くてね。覚えられないだろうから“ロギュル”でいい」
彼は、まるで舞台の俳優のような大げさな仕草で胸に手を当て、深く一礼する。
「本はいつも新たな出会いをつれてくるな。で、君の名は?」
「……あ、朝倉、遥斗……です」
「遥斗くん、か。良い名前だ」
ロギュルはどこか慈しむような、懐かしむような、そして底知れぬ空虚を孕んだ眼差しで遥斗を見つめる。
「“異端の書”を手に取った時点で、君はもう、物語の端役じゃいられない。君の世界は、今日から少しだけ、変わるだろう」
「な、何の話ですか」
遥斗の声は震えていた。
「さあ――まずは、ページをめくってごらん」
ロギュルはそう言い、まるで演技の合間のように、鮮やかな手付きで“異端の書”を遥斗の前に差し出す。
その時、図書館の外で、鐘の音が響いた。
遥斗は、逃げ出したい気持ちをどうにか押し殺し、もう一度だけ本の表紙に指をかけた。
――ページの向こう側に、何が待っているのかも知らないまま。
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