第1話 図書館の英雄譚
第1話
学校の図書館に、本をめくる微かな音が響いていた。
朝倉遥斗は今日も決まった席に腰掛け、背表紙の並ぶ景色に身を沈めている。午後の光は窓から斜めに差し込み、埃が金色の粒となって舞っていた。
ページを繰る指先だけが忙しく動き、他の全ては、息を潜めるように沈黙している。
――本の虫。
そんなあだ名をつけられてはいたが、遥斗自身、それを殊更に気に入っているわけでもなかった。現実の自分は何者にもなれず、ただ本の中でだけ、英雄になったり、世界を救ったりしていた。
心の奥底で渦巻いているのは、何者かになりたいという、ありふれた焦燥だ。多くの若者が思い描くように、遥斗もまた、どこか遠くで輝く誰かになれる気がしていた。だが、日常は静かに、そして容赦なく続いていく。クラスの隅で、誰の話題の中心にもなれず、友人と呼べる存在も少ない。
むしろ人付き合いは苦手な方だった。昼休みも、授業の合間も、こうして図書館で一人きりでいることが多かった。遥斗にとって決して苦痛ではなかったが、理想とは程遠い。しかし、本に囲まれていれば、現実の息苦しさも、未来への不安も、少しだけ遠ざけられる気がしていた。
図書館にこもる日々で得をしたことがあるとすれば、それは学校のアイドル――佐倉いおりと、ほんの少しだけ会話ができるということだった。
「おはよう、佐倉さん」
「朝倉くん、おはよう!」
変わらないやりとり。名前が似ているね、と言ったのが最初のきっかけで、もう一年もこの挨拶と短い雑談が続いている。それ以上に進展しないのが自分らしい、と遥斗は思っていた。
いおりは明るくて、人懐こくて、誰にでも優しい。彼女と並んで話すことを羨ましがる男子も多いが、遥斗は特別な感情を表に出すこともできず、ただ友人未満の距離感を守っていた。
「今日も新しい本?」
「うん、ちょっと気になるのがあって」
「へえ、また難しそうなやつ?」
いおりは遥斗の机に身を乗り出し、無造作に一冊の本を手に取った。
「“異端の書”……なんだか、タイトルがすごいね」
「うん、古い本みたいなんだ。誰が持ち込んだのかも分からないけど、最近になって棚に並んでた」
いおりは表紙をなぞり、興味深そうにページをめくった。パラパラと捲られるページは、所々擦り切れていて、端が黄ばんでいる。
「こういうのって、ちょっと怖くない? 夜に読むと、何か出てきそうだよ」
「そうかな……。でも、こういうのって物語の入口な気がして、僕は好きなんだ」
「朝倉くんって、本当に不思議な人だよね」
いおりが席を離れたあとも、遥斗はしばらくその古びた本を見つめていた。背表紙にはかすれた金文字が刻まれ、何語か分からない題名が記されている。
まるで誰かが、遥斗のためだけにそっと置いていったような本だった。
ページを開くと、乾いた紙の匂いがふわりと立ち昇る。無数の物語が始まり、終わり、また始まる――そんな予感が、遥斗の胸に静かに満ちていく。
ふと、図書館の片隅に冷たい風が流れた。窓は閉まっているはずなのに、どこからともなく空気がざわついたような気がする。遥斗は何気なく肩をすくめ、周囲を見回したが、そこには誰もいなかった。
このとき遥斗は、まだ知らなかった。
その一冊の本が、自分の人生を大きく変えることになる――そんなことを。
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