花の宮にて
船が出航することを伝える法螺貝の音が、王宮の中にいる自分にとっても聞こえるほどに響き渡る。どうせ外へ行っても死に戻るだけで意味はないというのに、なぜそうやって国の外に出ることを求めるのだろう。勇敢でもなんでもない、ただの自殺願望者にしか見えない。それでもただ茫然と、水平線の彼方へと進む船を見続ける。不思議と頭が言う―あれに乗れば、再びあの人に…?
気づけば、窓枠に寄りかかり、半分寝てしまっていた。誰かに肩をこづかれ、驚いて目が覚める。
ため息をつき、窓から離れた。船はもうだいぶ小さくなっている。蒸気機関を搭載した船、だそうだが、いったいそれにいくらしたのやら…予算書にはいつも船については書かれない。ただ、大金がかかっていることは確かだ。まったく、そんなことに国民の血税をたんまり使うとはまさに愚の骨頂である。やはり旅に出るなど無駄なことだ。
「そんなに暗い顔するなよっ。幸せが逃げるぞ」
隣で陽気な顔をしているのは同僚のムーニーである。この呑気な野郎は、もう見えなくなった船があった方角を見つめニコリと笑う。不気味な奴め、あんなものの何が面白いのだ。
「船になんか乗って島を出たからと言って、犬死にするわけじゃねえってさ」
そう言って、手にしていたトマトを一つ、押し付けてきた。収穫してからかなり時間が経ったのだろうか、腐っているのだろうか、全体的に固い。まるで偽物だ。
「誰がそんなことを仰っていたのです?」
「あの奇抜なお姫様だよ。説明会ン時に同行したんだが、出発する男どもの妻子にそう言い聞かせてたんだ。見事なこった」
ムーニーはまた窓の外を見つめ、腰袋に入れていたトマトを取り出し、かぶりついた。
「意外といけるな」
ムーニーはこれまた呑気なことを言いながら、長い廊下の奥の方へと歩いて行った。
さて、気になるのはこの固いトマトだ。とりあえず、かぶりついてみる。
「かったっ!」
通行人がいなくてよかった。もしこれが聞かれていたら、どんな顔で聞いたやつと接すれば良いのかがわからない。
「食べ物ではないとすれば…?」
今度は手で握ってみる。すると、パカっとトマトが二つに割れた。入れ物になっていたのだ。中には小さな紙切れが入っていた。
『トルキー・トミルソン 花の宮に来ること』
下に小さく姫の名が書いてある。
花の宮とは、王妃と皇太子妃、王子妃を除いた王族の女性全員が住まう宮だ。国母であるミルトナ皇太后をはじめとし、皇太子の妹君である姫たちや、皇太子の姉である姫様、つまり手紙をよこした姫が生活している。そんなところに、王宮に仕え始めてから一年もたたない自分が来いと言われるのだ。全く意図が読めないし、嫌な予感しかしない。最悪だ。だが、呼ばれた以上行かなくてはならない。
長い長い廊下を歩き、花の宮へ向かう。初めて行くところであるが、王宮の地図は王立学生寮にいる時に叩き込まれるのから迷わずに行ける。
豪勢な扉の前に選び抜かれた兵士が二十人。最上位の身分のものたちが住んでいるのだから当然だが。とりあえず、いちばん手前にいる兵士に声をかけることにする。
「何用でありますか?」
甲冑の中から怪訝な顔を覗かせた兵士が言った。
「下六位、トルキー・トミルソンです。テルナート姫に謁見したく、参りました」
「王族に謁見したくば一週間前には申し入れよとの国王陛下のお達しをお忘れですか?」
「今、私の元に姫様からのお達しが届きまして」
先ほど固いトマトから出てきた姫からの伝言を兵士に手渡す。兵士は驚いたようで、近くにいた上司であろう人物にそれを見せる。行きたくはないから、ここで止められた方が内心嬉しいと思ってしまう。
兵士たちが審議していると、大きな音を立てて重たい扉が開く。中から出てきたのは…姫だ。
「お勤めご苦労様!あら、何かあったの?」
「姫様、トルキー・トミルソンなるものが姫様にお会いしたいと」
「トルキー・トミルソン!ちょうど今から探しに行こうと思ってたのよ!それで、本人はどこにいるの?」
姫が辺りを見渡す。兵士たちは慌てて道を開ける。開かれた道を見て、もう行くしかないと心を決める。
「私です…」
「よかった。入ってちょうだい」
手招きされ、花の宮に入る。盛大な音を立て、大きな扉が閉まる。もう出ることはできないと思うと、変な汗が出てきた。
「ねえ、あなたいくつ?」
「十七歳です」
「私の方が年上ね」
姫はにっこり笑うと、どこかに向かって歩き出した。
「着いてきなさい」
「承知いたしました」
姫の四歩ほど後ろを歩く。下級貴族の歩くべき位置だ。
「話しづらいわ。もっと近くを歩いてくれる?」
「ですが…」
「王女命令よ」
強い口調とは裏腹に花が咲いたような笑みを浮かべて姫が言う。命令とあらば、と一歩後ろを歩くとこにする。
「どこに向かってるかわかる?」
「わかりません」
花の宮は複雑だ。小高い塔の中に部屋が詰まっている。中央部は吹き抜け構造で、一階は中庭となっている。姫と私が今いるのは三階だ。上にあと二階ある。
「私の部屋よ」
螺旋階段を登り、五階に出る。姫はいちばん大きな部屋の前で止まった。
「ここが…」
「ええ。一位王女だから」
扉の前には四人の兵士が立っている。体が大きく、並大抵の者では勝つことは困難だろう。
「帰ってきたわ。開けてくださる?」
「了解致しました」
兵士二人で、両開きの扉を開く。金の装飾が目一杯に施された扉は非常に重たそうだ。
「さあ、入って」
姫の後に続き、部屋の中に入る。
さすがは一国の王位継承順位二位の王女の部屋だ。天井いっぱいに描かれた絵画。刺繍の入った壁紙。天蓋付きのベッド。大きな鏡の化粧台。片隅に飾られた、宝石の散りばめられた正装用のドレス。たとえ上級貴族であっても手に入れられない空間が、そこにはある。
「さあ、本題に入りましょう」
姫は天蓋付きのベッドに足を組んで座り、先ほどとは打って変わって真剣な表情でこちらを見た。
「改めて自己紹介ね。私はテルナート、今年で十八歳。王族だから姓はないわ。皇太子の姉。好きな食べ物はミレットよ。あなたは?」
「下六位のトルキー・トミルソンと申します」
姫が、ニヤリと笑って立ち上がりこちらに近づいて来る。
「聞いていた通り、かなりドライな人ね。でもあなた、立身出世に興味がないなんて戯言は言わないわよね?」
私の周りをぐるぐると周りながら姫は言う。丁寧に結われた髪がゆらゆらと揺れる。
「ええ、もちろんです、殿下」
姫は私の前で立ち止まり、指をバチンと鳴らして近くに置いてあったソファに腰掛ける。
「やっぱり、ムーニーが言っただけあるわね」
にっと笑って足を組む。
「私の旅についてきてほしいの。そうしたら、あなたにとびっきりの地位をプレゼントするわ」
トマトと同じくらい真っ赤な瞳が、私の目を見据えた。