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『華やかなひととき』

 晶の隣に腰を下ろすと、不意に視界が陰った。頭上を日傘が覆っていた。

「……何やってるの」

「見ての通りだな」

 晶が日傘をくるくると回した。意味はないのだろう。

 その視線が日傘に釘付けになっているので、なんとなく私もそれに倣ってしまう。

 素朴な白さの傘布をあしらう二重のフリルに、裏のフレーム全体を覆い隠すパーティードレスにでも使えそうなチュールレース。晶はお前ほど白い日傘が似合うやつのほうが逆に珍しいと思うぞと怪訝な顔をしていたけれど、やっぱり私みたいな子どもが差すにはキメ過ぎだとも思う。

「好きだね。日傘」

「おう、まあ、どうだろうな」

 歯切れの悪い返事とは裏腹にどこか弾んだ目に、悪いとは思いつつ笑ってしまう。

 もともとこの日傘はまこ姉さんのおさがりだから、私が必要としないときなら誰に貸しても別に構わない。

 それなのに、晶は私が日傘を差しているとやたらと中に入りたがる。

 そこに何か私への気遣いとは別の意図があることくらいは、なんとなくわかる。

 だから一度、貸そうか、と提案したことがあるけど、晶は大げさにかぶりを振ったあと、捲し立てるように言った。

 何言ってんだユキンコ。私がそういうキャラじゃないことくらいわかってるだろ。ほら、いきなり頼りになるかっこいい晶お姉ちゃんのイメージ崩しちゃったりしたら、皆混乱するだろ? ……なに? こういう日傘こそ今しか楽しめないファッションの一つなんじゃないか? それと、その左右で袖の長さが違う柄シャツの方がよっぽど恥ずかしい? ……あー、物事には色々あってだな。あれだ。ケースバイケース? あと、ユキンコ。今さりげに私の服馬鹿にしただろ? んなぁっ! ちげーよ! この縫い目はねじれてんじゃなくて、ねじってんの! っていうかだれだ? そんな今しか楽しめないだの何だのテキトー抜かしたやつは? ……うん。私だな。でもほれ。実際見てみろ。……いや、さっさと見ろよ恥ずかしいんだからっ! 私なんかが一人でこんな乙女チックなもの使ってたら、気色悪いだろ。

 とどのつまり、晶は私の存在を、日傘を差す言い訳に使っている。

 ……気色悪い、か。

「──そんなこと、ないと思うけど」

「は? 何か言った?」

 予期せぬ反応に一瞬、びくりと身を硬くした。まさか聞き取られるとは思わなかった。

「ううん、そういえば服汚れるなー、と思って」

「おいおい、今更過ぎだろ」

 晶が笑うとも、呆れるともつかぬ声で言った。

「おっ、でも言われてみりゃそうだよな。私のはともかくユキンコの着てるヤツとか白じゃん。大丈夫なのか、それ?」

「──まこ姉さんに怒られる時は二人一緒だね」

「とか言いつつ私のせいにする気満々だろユキンコ」

「…………」

「いや、マジなのかよ」

 信じられない、とばかりに晶が目を見開く。どうやら私の沈黙の意味を汲み取ったらしい。もちろん本気で晶のせいにしようだなんて思ってはいない。晶だってそのことは承知の上だ。

「末恐ろしい奴だなホント」

「いいじゃない。晶だって私のこと……言い訳に使ってる」

 つい口を吐いて出た小言を、耳聡く聞き取った晶は、「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げる。……しまった。

「ちょっと待てよ。私がいつユキンコを言い訳に使ったって?」

「い、いつって──」

 たった今。そう言いかけて、呑み込んだ。

 それはさっきまで日傘を見つめていた、晶の楽しげに弾んだ目を思い出したから。

 私の不用意な発言で、晶を傷付けてしまうのは嫌だった。

 たとえ晶と言い争いになったとしても、晶の〈女の子の部分〉だけは中傷しないのが、誰が決めたわけでもない私自身のルールだった。

 そうだ。せっかくだから今、訊いてみよう。

「……おい、ユキンコ?」

「あっ、あのね、晶」

「ん?」

「日傘。もしあったらさ、……欲しい?」

 ……我ながらちょっと唐突過ぎた。晶はというときょとんとしている。無理もない。

「また脈絡ねぇなオイ。いきなりどうした?」

「どうしたも何も、単なるもしもの話だよ。どう? 欲しい? 欲しくない?」

「じゃあ欲しくない」

 うっ、即答された。

「理由は二つ。まず一つ目。私には日傘が似合わない。これについてはユキンコの前でほぼ毎日証明済みだな。でもって二つ目。私の誕生日は四月じゃなくて五月だ。つまりユキンコがわざわざ大枚(はた)いてまで私にプレゼントする理由がないってこと」

「……大枚叩かなきゃいいってこと?」

「万引きかよオイ。万引きは窃盗だぞ? でもってそれを弱みに脅迫されて何かエロいこととかされる」

「そ、そうじゃなくて! ……第一、私まだ晶にプレゼントするなんて言ってない」

「は? そういう流れの話だろ」

 ……その通りだけどさ。

 くしゃり、とややがさつに頭を撫でられる。私は目を瞑った。これ結構好き。

「ま、可愛い義妹の厚意だけは受け取っとくさ」

 晶がこうしてくれるのは決まって私が落ち込んでいるとき。

 ……そんなに私、凹んでるように見えたんだろうか。断られたとき、ちょっと傷ついたのは確かだけど。

「しっかし、何でまたチョイスが日傘なんだよ。私プラス日傘でこれがホントのキモカワイイとか、そんな一発ネタでもやらす気か? ……あれ? 想像しただけでちょっと目頭熱くなってきたんだけど。それじゃ、私とんだピエロだよ?」

「──だって、……ええっと」

 ……不味い。これ以上の発言は間違いなく私が自身に定めたルールに反する。

「……いいよ、続けな。晶さんってば懐のデカさで有名なんだぞ?」

 ここまでされたら、言わない方が逆に悪い気がしてきた。うん、ここは思い切って言ってしまおう。

「晶、……いつも楽しそうだから」

「楽しそう?」

「う、うん。私と相合傘してるときとか、その、何か楽しそうって言うか、顔赤いっていうか……」

「……へ、へぇー」

「酷いときなんて、何かにやにやしてるときあるし……」

 だからもしかして、本当はこういう可愛い感じのやつとか、それこそ日傘とか好きなのかなぁ、と思って──なんて続けようとしたところで、

「待った」

 顔の前にずいっと掌を付き出された。

「あ~、いやぁ、その、なんでぃ」

 ……江戸っ子?

「──なに? その、今までさ、そんな嬉しそうにさ、その…………見えてた?」

「見えてた」

「……じ、じゃあさ、…………にやにやとか、してたの? マジで」

 マジで。私は頷いた。

 晶の目が大きく見開かれた。なんとなく赤かっただけの頬に、徐々にだけれど明らかな紅が差していく。

 恐る恐るその様子を見守っていると、ぷいっと顔を背けられた。

 ……やっぱり触れちゃ不味かったんだろうか。私が謝罪の言葉を選んでいたところで、

 

「ココお姉ちゃーん!」


 名前を呼ばれた。声の主にしては思いのほか大きな声だったので、正直少し驚いた。

 見ると女の子が二人、こちらに向かって来るところだった。

 女の子は一人が今にも玉砂利に足を取られそうな危なっかしい駆け足で、続くもう一人は悠然とした足取りだ。

 紙袋を胸に抱えて走っているのがヒナちゃんで、本を一冊小脇に抱えて歩いているのが鏡花さん。

 ヒナちゃんはサクランボ柄のワンピース。鏡花さんは黒のタートルネックに、濃い茶色のロングスカート。

 先に木陰に入ったヒナちゃんは私の前で立ち止まった。そこで慌てたように紙袋を背中に隠す。

 肩で小さく息をするヒナちゃんの頬はほんのり果実色だ。

「こんにちはヒナちゃん」

「よお」

「えへへ。こんにちはココお姉ちゃん、晶お姉ちゃん」

 ヒナちゃんが一歩退いて、礼儀正しくぺこりと一礼する。ただしその両手は背中に隠されたままだ。

 晶がにやりと笑った。

「おやおやぁ? お嬢ちゃんいいもの持ってるね。どれ、晶お姉さんに見せてごらん」

「? 食べものじゃないですよ?」

「ちょっと待てぃ。私のイメージって食いしん坊キャラなのか?」

 ヒナちゃんはてへへと笑って、私を一瞥した。助け船を求める目だった。

 ヒナちゃんには日頃から色々と──主に私の脆い心の支えとして──お世話になっているし、何より可愛い義妹の頼みだ。断る理由はない。

「晶のイメージはそんな感じだよ。……ヒナちゃん、おいで」

 私はできるだけ優しく微笑んで、軽く両手を広げる。

 ヒナちゃんは紙袋を胸に抱え直した。それから、とおっ、と消え入るような掛け声とともに私の腕の中へと身を寄せてくる。ここで思い切り飛び込んでこないところが、ヒナちゃんらしい。

 とはいえ、たかが四歳児されど四歳児、いざ受け止めることを考えるとヒナちゃんがそうしなかったことに内心安堵する。

 飴色のボブカットから、この年代の子特有なのかミルクのような匂いがふわりと香る。

 目が合うとちんまりとした口が照れくさそうに、にへっ、と笑った。

 とろけるようなそれについ頬が綻ぶ。

 こうしているとき、ヒナちゃんが私にやや顔の左側を見せているのは、右耳に障碍しょうがいを持っていて音を聞き取り辛いためだ。

 ヒナちゃんはもう癖になってるから、というけど私にはヒナちゃんがまだ幼いこともあって、その姿がより健気に見える。

「今日も仲睦まじいこと」

 続いて木陰に足を踏み入れた鏡花さんが、挨拶ではなく感想を述べた。

 一瞬私とヒナちゃんのことを言っているのかと思ったけど、眼鏡の奥にある黒曜石みたいなその瞳は、晶を見ていた。

 そこで、私はようやく晶と相合傘をしていることを思い出した。

 晶と顔を見合わせる。思っていたよりも二人の距離は近かった。

「まあ、悪くはないよな」

 相合傘しておいて不仲を主張するのも変なので、私は頷いておいた。

「長年連れ添った夫婦みたいな落ち着きね」

 私が晶を見ると、晶の顔にも私と同じような苦い笑みが浮かんでいた。

 私の膝に座っているヒナちゃんは、きょとんとした顔で私と晶を交互に見ている。

 その頭を晶がわしゃわしゃと撫でてから、

「羨ましいなら鏡花も入るか?」

 と冗談めかして訊いた。

 この場合は木陰ではなく、どう見ても定員オーバーな日傘のことだろう。

「ココの膝の上には先客がいることだし、私は晶の膝の上に座ればいいのかしら?」

「応よ。それでもいいなら、どんとこい」

 鏡花さんは肩をすくめると、「失礼」と私の隣──日傘の外に腰を下ろした。

 そのとき鏡花さんの持っている本が視界に入った。タイトルは『親子で楽しむ草花遊び』。

 さすがに日傘は邪魔かな、と思い私が晶を見ると、そう促すよりも早く晶は日傘を畳んで私に差し出してきた。

 私はそれを受け取ると、背もたれに使っている幹に立てかけた。

「そういえば、お前ら何処にいたんだ? 家の中にはいなかったよな」

「ええ。ちょっとお花畑にお花を摘みに。ああ、隠語のほうじゃないわよ?詳しくはヒナに聞けばわかるんじゃない」

 ……えっと、隠語云々はさておき、自然と私たちの好奇の視線はヒナちゃんに集まった。

 その視線に身をすくませるヒナちゃんは、胸に大事そうに紙袋を抱いている。当然中身はわからない。

「その袋、どうしたのかな?」

「え、ええっとね……」

 ヒナちゃんが話してくれるのを待つ間、私は晶に目配せした。

 ヒナちゃんへの対応において経験と上達が結びつかない私は、たとえ助け船を求めるようなときでなくとも、ついそんな仕草をしてしまう。

 晶の瞳から読み取った感情を言葉に変換するなら「まあ、せいぜい頑張れ」といった具合だ。

 晶がこういう目をするときは駄目そうになるとフォローしてくれるので、とりあえず安心する。

「これ」

 玉の入っていない鈴みたいな声と共に、紙袋から取り出されたのは花の輪っかだった。

 シロツメクサを編んで作ったそれは、大きさからして冠のようだ。

「へぇ。シロツメクサの冠か。懐かしいな」

「うん。……晶おねえちゃんも作ったことあるの?」

「まーな。私なんかこれでなわとび作ったことあるぞ」

「なわとび!? ほんとう?」

「ああ。出来るよなユキンコ」

 そこで話を振ってこられても、私は曖昧な笑みを返すしかない。

 今ヒナちゃんが持っている花冠だってどうやってできているかわからないのに、なわとびができるかなんてわかるわけない。

 けれど、いくらこれを長く繋げてなわとびができたとして、それってなわとびとして使えるの……?

「あのね、ココお姉ちゃん」

「なあに?」

「ココお姉ちゃん、お花は好きですか?」

「……うん。好きだよ」

 これが晶相手なら「まぁ嫌いじゃないかな」とか答えるところだけど、さすがの私にもこれくらいの空気は読める。

「じゃあこれっ、ココおねえちゃんにあげます」

 そう言ってヒナちゃんは立ち上がると、持っている花の冠を私の頭に被せた。

 正しくは乗せたというべきか。どうやら冠のサイズは、私ではなく自分の頭を参考にしたらしい。

 ヒナちゃんから、「わあっ」と感嘆の声があがった。

「ココお姉ちゃんおひめさまみたい……」

「お、お姫様って……」

 さすがに予想していなかった言葉に、私は頬にじんわりとした熱さを感じながら目を伏せた。

 ヒナちゃんの言ったことだとわかっていても、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 私の場合は肌が白い分、紅潮するとそれこそ熟れた林檎のようだから尚更だ。

「本当。シロツメクサの冠によって、より一層儚げになったわ。まるで白昼夢のよう」

「おお……。シロツメクサがここまで似合うやつもそうそういないだろうな。こりゃあ今年のベストシロツメニストは頂きだな!」

 鏡花さんと晶の褒めているのかいないのか、よくわからない意見は聞こえなかったことにする。

「……ありがとう。ヒナちゃん」

 私は僅かな躊躇いの後ヒナちゃんの頭を撫でる。

 ヒナちゃんの髪はヒヨコのようなふわふわとした手触りだった。

 しかし、身内とはいえ他人の髪に触るのは中々どうして緊張する。手汗とか大丈夫かな?

 そんな私のぎこちない手つきでも、ヒナちゃんは目を細めて受け入れてくれる。

 そっと手を離すと、えへへ、とはにかんだ笑顔を見せた。それだけで私は救われた気持ちになる。

 ふと地面に置かれた紙袋に視線を落とすと、シロツメクサが一輪顔を覗かせていた。ヒナちゃんが繋ぎ忘れたのだろうか。

 手に取ってみると、少しだけいいことを思い付いた。

「ヒナちゃん」

「なあに?」

「ここ。もう一回座って」

 私がぽんぽんと膝を叩くと、ヒナちゃんは頷いてその上に横を向いて座った。身体ごと左側を向けた私の声を聞き取りやすい体勢だ。

「じっとしててね」

 私は持っていたシロツメクサを、髪飾りのつもりでヒナちゃんの頭に挿した。

「ほら。これでヒナちゃんもお姫様」

「ヒナが……おひめさま?」

「そう。私と同じ。……お揃いだね」

 私は、ヒナちゃんに笑いかけた。

 もちろんヒナちゃんが頭を動かしたりしたら髪飾りもどきは落っこちるわけだけど、そこは私が押さえていればいいことだし、どのみちごっこ遊びなんだからこんなもので充分だろう、とお返しに花の冠を作ってやることすらできない自分に言い聞かせる。

 ヒナちゃんはどことなくぼうっとした表情で、「ココおねえちゃんとおそろい……」と呟いている。

 この娘の中ではお姫様よりも、私とお揃いの方が上位なんだろうか。

 まあ少なくとも不機嫌には見えないのでほっとしていると、不意にヒナちゃんが激しくかぶりを振った。

 髪飾りもどきはあっけなく、一輪のシロツメクサに戻った。

「だ、ダメだよ。ココお姉ちゃん!」

 ヒナちゃんには珍しい語気の強さに、私もそうだけど何より当の本人が、言った後で目を点にしていた。

 ここまではっきりとヒナちゃんに拒絶されたのは、多分これが初めてだった。

「えっと、……何が駄目なの?」

 ヒナちゃんははっとして地面に落ちたシロツメクサを拾った。

 俯いてそのシロツメクサを両手で握ると、上目遣いにこちらを見てくる。その目にはうっすらと涙が滲んでいた。

「ごめんなさい……」

「うっ、ううん。私のほうこそごめんね。その……、気に入らなかった?」

 ヒナちゃんは慌てたように強くかぶりを振った。

「ちっ、ちがうの! そんなことないの! だって……、だって、おひめさまは」

「お姫様?」

 ヒナちゃんは顔を上げて、小さく頷いた。


「おひめさまは……、独りじゃなきゃダメなんだもん……」

 

 春風が吹きつけた。

 私たちの頭上で若葉が一斉にざわついた。

 ふと鳥居の方に目を向けると、まこ姉さんがこちらに向かって手を振っていた。 


 ヒナちゃんと手を繋いだまこ姉さんを先頭に大野木家へと帰る。

 稲荷神社から大野木家までは、せいぜい徒歩十分くらい。溜まり場にするにはまあ程良い距離だと思う。

 ヒナちゃんは早速まこ姉さんにさっきの出来事を報告しているようだった。あの様子だとこの花冠を被った私がお姫様みたいだった、とかそんなことを伝えてるんだろうな。そう思うと照れ臭くなってきたので、私は正面に持っていた花冠を背後に隠すように持ち直してからは、わざと二人の話を聞かないよう努めていた。

 ──そういえば、花冠のお返しどうしようか?

「ねぇ、晶」

「うーん?」

「花冠の作り方って知ってる、よね?」

「あー、多分今でもできるとは思うけど。ってか何? ユキンコ作れねーの?」

 私は素直に頷いた。

「おいおい草花遊びつったら女の子の遊びの定番だぞ?お前一体どんなお子様時代を──っと……」

 晶が言葉に詰まった。悪い、と頬を掻きながら、申し訳なさそうに言う。

 私は別にいいよ、と微笑んだ。

 私は何故か、七歳より前の記憶がはっきりしない。この村にきてこの家の義娘となる前は誰とどこでどんな生活をしていたのか、その詳細を憶えていない。

 憶えていることといえば、和風のお屋敷で年の近い女の子たちと暮らしていたということくらい。

 偶に夢で見る過去の私は着物姿だったりする。でもそのときの私は〈黒髪〉のおかっぱだったりもするから、結局夢と記憶の境界はあやふやのままだ。

 自分の記憶の一部があまりにも辛いものだったとき、自己防衛のためにその記憶の一部が抑圧されることがある、という説を心理学の本で読んだことがある。もしそれが本当だったとしたら、多分思い出せないに越したことはないのだろう。

「花冠の作り方、良かったら今度教えてよ。ヒナちゃんへのお返し、作りたいんだ」

「応。なら、任しとけ。そりゃもう見事ななわとびを錬成してやるよ」

「花冠でいいってば」

 笑いながら、その笑顔の裏で考える。そう、思い出せないのがきっと最善。

 でも、今日みたいに──自分には六年間の空白があるっていう事実を思い知らされるような状況に直面したら、やっぱり嫌でも気になってしまう。

 もしかしたら六歳の頃の私は花冠くらい作れたかもしれないなぁ、なんて無意味なことを考える。いっそまっさらなら良かっただろうに、ぼんやりとだけど記憶がある分どうにも歯がゆい。

「ほんとうに? やったぁ!」

 と、ヒナちゃんの嬉しそうな声が聞こえてきた。

「どした?」

玲一(れいいち)さん。明日帰ってくるのよ」

 晶の問いに、肩口に振りむいたまこ姉さんが答える。

「京都に取材旅行だったな。……今回ばかりは土産をどうにかしてほしいもんだなぁ」

「晶のお土産、『よーじや』の油とり紙だったもんね」

「ああ、……はははっ、あれはさすがに凹んだな」

「でも、玲一兄さんなりに頑張って選んでくれたんだなぁ、ってことは伝わってきて、良かったと思うな。普通は……こんなに女の子がいたら、お菓子だけ買って無難に済ませちゃうよ」

「まあなー、そういえばユキンコは何もらったんだ?」

「…………お手玉」

「……悪ぃ。てっきり上に立つものの余裕から綺麗事言ったんだと思ってた」

「うん、まあ、飾っておくと、綺麗なんだよ? ……色とりどりで」

 ちなみに玩具として使ったことはないし、使う技術もない。本当に〈飾っている〉だけだ。

「鏡花は何もらったんだっけ?」

「さあ、何だったかしら」

「匂い袋だろ。兎の柄が入ったやつ」

「……憶えてるんじゃない」

「おまえもな」

 鏡花さんが晶を睨みつけた。晶はそれに怯む様子もなく、にやりと笑ってみせる。

「いやはや、やっぱり未来の第二夫人ともなると、土産物からして早くも差が出ますな~」

「あらあら、そういえば私にはライバルがいることすっかり忘れてたわ。第一夫人の座にいるからって油断してられないわねぇ」

 止せばいいのに、大人げなくもまこ姉さんが便乗した。

 不思議そうな顔で、ヒナちゃんが私を見つめてくる。

 私は視線だけでまだよくわからなくていいお話だよと伝えてから、彼女に優しく前を向くよう促した。

 鏡花さんは幽かに頬を染めながら、意地悪く笑う義母と義姉を尻目に溜息をついた。


 そう、鏡花さんは私たちのお義父(とう)さん──玲一兄さんのことが好きなのだ。


 その「好き」っていう感情がどの類でどの程度の「好き」なのかは、鏡花さん本人にしかわからない。

 ただ私たちにわかるのは、伝説地を訪れて妖怪を紹介するライターをしている玲一兄さんのあとを追いかけるように、いくつも本を読み漁って妖怪について研究したり、基本髪型はいじらないのに玲一兄さんと出掛ける時にはツーテールにしたり、可愛いヘアピンを使ったり、明るめの色合いで女の子らしい服を着たりするくらいには、鏡花さんが玲一兄さんのことを好いているということだけ。

 晶たちの気持ちもわからなくはないけど、やっぱり私は鏡花さんをからかうような気持にはなれない。

 そこは鏡花さんの〈女の子の部分〉だから。

「えっと、ねぇ鏡花さん」

「……何?」

「さっき神社で見たとき思ったんだけど、雲雀ってどうして枝に止まって鳴かないのかな?大抵の鳥は枝に止まって鳴くよね」

 話題を逸らすというのが目的だったけれど、答えが気になっていたのも事実だった。

 ちなみに晶はオスからメスへの求愛行動だって言ってたんだけど、とついでだから付け足しておく。

 晶の引きつった顔が見えたような気がしたけど、気のせいだろう、うん。

「どうして、と訊かれても──飛びながらさえずるのは雲雀の習性だから。ただ──」

「ただ?」

「晶の答え、ある意味では正解かもね」

 ……えっ?

 晶が小さくガッツポーズをとっていた。……ああ、どうか晶のぬか喜びで終わりますように。

「オスの雲雀が空を飛びながら鳴く理由には、縄張り行動だとする説があるの」

「……縄張り行動と求愛行動は一緒ってこと?」

「見ようによってはそう見えるんじゃない?って話。実際オスの雲雀が飛びながら囀るのは繁殖期だけね。縄張り行動は外敵を遠ざけ生活の安全を確保する一方で、メスの雲雀に『自分はこの程度の縄張りを所有していますよ』というアピールにもなっている──とも考えられる。だから晶の答えでもある意味正解なんじゃないの」

「ん? それがアピールになるってことはあれか。やっぱ縄張りはデカいほうが魅力的ってことか」

「晶やココだって、結婚してからの夢のマイホームは大きい方がいいでしょ?」

「…………」

「……そもそも生物学は守備範囲外なの。文学的シンボルとしての『雲雀』になら、それなりに精通しているつもりなのだけれど」

 そう言って、鏡花さんは前を向いてしまった。

 私は、晶と顔を見合せて苦く笑う。何だか有耶無耶のまま終わってしまった。

 噂をすれば影とは言うけど、空に雲雀の姿はない。鳴き声も聞こえない。ただ青空には、綿を解して広げたような朧雲おぼろぐもが浮かんでいるだけ。

 ──やっぱり……落ち着かない。何でだろう。

「そういえば鏡花さん」

「何?」

「文学的な雲雀ってどういうこと?」

「文学的シンボルとしての、ね。雲雀は幸福のシンボルとして扱われているのよ。『春告げ鳥』にして『朝告げ鳥』だからね。同じ『春告げ鳥』でも『小夜鳴き鳥』として明暗のイメージを併せ持つナイチンゲールと違って、雲雀は『明るい』イメージ一色だから」

 ──幸福の、シンボルか……。

 さあ、もう充分でしょう、と再び鏡花さんは前を向く。鏡花さんは私だけならともかく、多勢の人の前で知識を披露することを嫌う。もし私に鏡花さん並みの知識が備わっていたとしたら、もっと他人に教えることに飢えそうな気がするけど。

 過去に一度、そのことについて訊ねたことがある。返ってきたのは、私推理小説に出てくる探偵って嫌いなのよ、という鏡花さんにしてはどこか子どもっぽくて、よくわからない答えだった。

 以前に私が嫌われてるだけなのかも。……いや、そんなんじゃない、と思う。

 そもそも嫌いな相手というか、身内以外には質問すらまともに受け付けないし。

 部屋に行ったらちゃんと迎えてくれるし、そう、その帰りにお菓子だってくれるし。

 ……私、鏡花さんに愛玩動物か何かだと思われてるんだろうか?

 そんなことを考えながら、鏡花さんの背中を見ていると。

 ──ん?

 鏡花さんの胸辺りに一瞬、真っ黒く凝固まっている影が見えた、と思う。

 ……気のせいかな。

 しんぞう、と〈彼ら〉の内の誰かが言った。──意味不明だった。

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