透明人間の幽霊
『おい、おい……』
「う、ん……?」
とある夜。電気を消し、ベッドで今まさに眠ろうとした青年は突然聞こえた声に瞼を擦った。
今のは夢だろうか……いや、まだ眠る前だった気が……いや、多分中間だったのだろう……まあ、そういうこともあるか……。
と、彼が一人、納得しかけたその時であった。
『おい、え、おい。今聞こえたよな?』
聞き間違いじゃない。どこか戸惑いが混じるその声に彼はむくりと起き上がった。
「え、あの」
『おお、やっぱり聞こえてたか。波長が合うってやつかな。他の奴は駄目だったのに』
「え、あの。波長? テレパシーか何かでしょうか? ああいや、でもそんなこと……あぁ脳の病気かな……うわぁ、まいったな……」
手で顔を覆う彼に、その声の主は陽気に笑った。
『違う違う。俺は幽霊さ』
「ゆ、幽霊」
脳の病気や悪魔よりはマシな答えだが彼は震え上がった。と、そもそも一人きりの部屋で声が聞こえた時点でマシなことなどあるか、と短く乾いた笑いが出る。
『そう、透明人間の幽霊さ』
「ああ、それで姿が……ん?」
『なんだ?』
「いや、え? 透明人間?」
『の、幽霊な』
「おー……いや、なんかそれ……いります?」
『ん? いるって?』
「いや、その設定」
『その設定というか、ただの事実だが……』
「あー、そうですか……じゃあ、さよなら」
『いやいやいやいや、おいおい。露骨に冷めるなよ』
今にも恐ろしい幽霊の姿が目の前に現れるのではないかと身構えていただけに、彼はどこか安堵。それを越えて拍子抜けした気分になっていた。
「いや、良いところを打ち消し合ってしまったといいますか。見られないし、そちら側から触れないと」
『まあ、そうなんだが聞いてくれ』
その幽霊はとある科学者の孫であった。遺品整理の最中、今は亡き祖父が秘密裏に開発していた透明薬を発見。すぐさま飲み、そして内から噴き上がるような欲望に胸を躍らせ、そのまま外に出て踊り浮かれていると酸欠になり
「車に撥ねられた、と……」
『そういうわけなんだよ』
「今、完全に怖さが消えました。七光りに馬鹿とは」
『おい、言いすぎだぞ』
「それはすみません。で、まだ何か用があるんですか?」
『まあ、未練を晴らしてほしいってやつだな』
「おお、幽霊らしいですね。で、未練とは?」
『女の悲鳴が聞きたいんだ。喘ぎ声もな。へへへへ、裸は見れるがどうも味気なくてな』
「そこは透明人間らしいですね……」
『だろう。もし言うとおりにしてくれなければ毎晩、枕元で奇声を上げ続けてやる』
「そこは幽霊らしい……。え、でも無理ですよ。彼女もいませんし……」
『ははは、必要ないさ。その辺の女を手当たり次第襲ってほしいんだ。あ、もちろん美人をな』
「透明人間らしい……いやいや無理ですって。捕まるじゃないですか。毎晩電気つけっぱなしのほうがまだマシだ」
『それはやめてくれ。透明人間だから瞼が役に立たないんだ。光をもろに受けてしまう』
「死後は益々、透明人間のメリットがないですね……」
『まあ、それはいいんだ。でな、俺が死んだのはつい、そうだな一週間くらい前だ。働いてもないし、親しくしている友人も特にいないから多分、死んだことにも気づかれていない。実家は遠いしな。で、祖父の家の鍵も開いたままのはず。夜に案内するから透明薬を飲み――』
と、説得された青年は言われた通り、夜、その家に行った。乗り気ではなかったが透明薬を手に入れるとさすがに気分が高揚した。透明人間というのはやはりロマンがある。
「で、これを飲めばいいんですね? 全部?」
『いや、三口ぐらいでいい。まあ、まだ瓶はあるし、べつに構わないよ。ああ、これでこの悔しい思いも消えるなぁ』
「今度は幽霊っぽいなぁ。では――うっ、あ、ははは、おぉ、本当に、あぁ……」
青年の身体は見る見るうちに透明になっていった。そして込み上げる全能感。高まる気持ち。そして……
『あー……その、驚いたな』
『ええ。まさか死ぬとは思いませんでしたよ……。でも考えてみれば、ですよね。全身が急速に透明に変化するんです。きっと心臓や脳の負担も半端なものじゃない』
『いやー、そうかそうか俺は調子に乗って死んだんじゃなかったか、はははははは! はぁ……すまん』
『いいんですよ。これも悪い気はしてませんし、それに声をかけられて嬉しかったんです。僕は友達もいないし、顔もよくない。就職も何もかもうまく行かなくて、ははは、死のうとか思ってたんで……』
『透明人間かつ幽霊っぽいなぁ……』
二人は笑った。ふわりと浮かび、お互いの位置を確かめ合うように笑いながら夜を漂った。そして、その笑い声はきっと新たな仲間を見つける呼び鈴となるだろう。
ほら、夜道を歩く今。どこからか楽しげな声が聴こえる……。