痴漢するおかしな子
一樹は混み合った電車の中、吊り広告の一つを一瞥してから手元のスマホに目を落とした。
その吊り広告には、『痴漢は犯罪です』と警告の文字。
大学三年生の一樹は一人険しい顔をしながら、帰宅ラッシュより少し遅めの人混み揉まれている。
「あ、一樹くんだぁ!」
電車の停止に合わせてドアが開き、乗客が乗り降りに動く。
ひとしきり人が入れ替わっても、人同士が密接する圧迫感はあまり変わらなかった。
一樹が居心地悪そうに腰を揺すった時、間抜けな声が彼の名前を呼んだ。
「一樹くん! 渡士 一樹くんみっけ!」
見覚えのある女が、人混みを掻き分けて一樹へと迫る。
大葉 加菜子。一樹と同じ大学のサークルに所属する、頭と股が緩い女だ。
加菜子はあざとくゆるふわにカールさせた髪を、周囲を気にせず振りながら一樹に近寄った。
「あ、加菜子ちゃん。ぐ、偶然だね……何かの帰り?」
「ううん、一樹くんちに行こうと思ってー」
「俺んち? ど、どうして?」
「だってこの間、クリスマスイブの夜暇?って聞いたら、『相手いないよ』って言ってたでしょ?」
「あ、あぁ……」
ヘラヘラと間抜けな笑顔を浮かべて愛想を振りまく加菜子に、一樹は苦笑いを浮かべる。
彼は週に三回コンビニのバイトをしていて、曜日固定のせいでクリスマスイブの今日もまたシフトが入っていた。
一樹の今日のスケジュールは空いていなかった。
「それに一樹くん、加菜子と付き合いたいって言ってたじゃん」
「あー、それはこの間のみの……」
「うん、サークル飲みの時の話! その後、シたしさ」
「あ、うん……」
一樹は確かに、先週のサークル飲みの時、加菜子に「君と突き合いたい」と言っていた。
酔っ払った彼のしょうもない下ネタだったけれど、加菜子の緩さもあり、二人はその後に一晩を過ごしている。
けれど加菜子は所詮、彼にとって一晩の女。よくてセフレに過ぎない。
「一樹くんこの間シた時、加菜子には好きが多いって言ってくれたでしょ? だから加菜子、一樹くんに加菜子の沢山の好きを全部あげようと思ってぇ」
「そ、そっか……ありがと」
隙が多い加菜子の密着に、一樹は身を小さく捩りながら短くお礼を言った。
その沢山の隙が全部彼女の貞操観念の緩さに繋がっていることを、誰も指摘はしないんだろう。
加菜子は一樹を上目遣いで見上げて媚を売る。
見た目は良いけれど頭の悪い加菜子は、とても一樹の好みとはいえないはず。
けれど抱けるものなら抱いておきたいとでも思っているのか、一樹は特に拒まなかった。
「ちょっと良いシャンパン買ってきちゃったんだぁ〜。一緒に飲もっ!」
「シャンパンかぁ、今日は景気が良いな」
「もちろんケーキも良いのをちゃんと買ってあるよ。ご飯の後に食べようね。加菜子が作ってあげるから」
人がひしめく電車の中で、加菜子は自慢げに手に持つ大荷物を見せつける。
周囲の人目を気にしながら、一樹は頷いた。
「何を作ってくれんの?」
「前に聞いた、一樹くんの大好物!」
「お、カレーか!」
「そう、カレイ。ちょっと時間かかるけど、美味しく煮込んであげる」
料理自慢で女子力アピールでもしたいのか、加菜子は意気揚々と言う。
けれど一樹の好物は子供じみたカレーであって、カレイの煮付けでアピールしても好感度が下がるだけ。
その後、行為に及ぶ雰囲気になるかどうかは怪しいところだ。
しかし、当の加菜子はその事実に気づくわけもなく、能天気な笑みを浮かべて一樹に言い寄っている。
気のいい一樹が振り払おうとしないのをいいことに、また車内の人混みをいいことに、体を更に近づける。
「そういえば、あの【おかしな子】、どうなった?」
「え、あぁ……相変わらず、かな」
「愛変わらず、かぁ。ホント【おかしな子】、やんなっちゃうよね。一樹くんは面識ないんでしょ? それでストーカーとかマジきもいよね」
「う、うん、ホント参るよ……」
歯切れの悪い相槌を打つ一樹をよそに、加菜子は不機嫌そうに眉を寄せた。
電車内にも関わらず、彼女の声は少し大きくなっていた。
「そろそろケリつけたいんだけどなぁ」
「加菜子が蹴りつけようか?」
「い、いいよ、危ないし……」
「良いの? あ、でもどこにいるかわからないなぁ」
加菜子は探りを入れようと身じろぐも、人混みの中で自由に身動きが取れないみたいだった。
首だけを少し動かして、腹立たしげに溜息をつく。
そんな彼女を、一樹は困ったように見下ろす。
「大丈夫だよ加菜子ちゃん。とり合わずに放っておけば。そこまで苦じゃないから。今のところは……」
一樹の言葉の途中で電車が大きく揺れた。
ガタンと一際うるさい音が響く。
「え!? 『加菜子ちゃんと会わずに放っておけば』!? やだよ加菜子、あんなやつのせいで一樹くんと会えなくなるの!」
「いや、そうじゃ……」
「嫌そうって、そりゃ嫌だよ! 当たり前じゃん。一樹くん、加菜子と付き合いたいって言ったじゃん!」
「えーーっと、確かにこの間は言ったけど。俺はまだ……」
「一回イっただけじゃまだもの足りない? ならいくらでもイっていいから、会わないなんて言わないで!」
「いや、あの、それはそれで……」
一方的に喚き立てる加菜子に一樹は呻く。
その要領を得ない態度に加菜子は顔を曇らせた。
「もしかして、加菜子にバレちゃまずいことでもあるの?」
「ないない。【おかしな子】 とは何もない!」
「……ふぅん。わざわざそう言うってことは、おかしなことがあったんだ。実はヤることはヤってたってこと」
「まってまって。何かおかしなことになって────」
「加菜子は【おかしな子】じゃない! 大葉 加菜子! お・お・ば・か・な・こ!」
人目を憚らない加菜子のヒステリックな叫びに、車内は一気に静まり返った。
突き刺さる注目の眼差しに慌てふためく一樹に対して、加菜子はお構いなしに喚き散らす。
「はぁーマジ最悪。他の女と間違えるとかほんっとありえないよ。アイツの名前が出ちゃうくらい、実は親密ってこと? 何回ヤったわけ?」
「加菜子ちゃん……ご、誤解してるよ」
「五回シてるの!? 加菜子はまだ一回しかシてないのに! へぇー!」
普段は無害な愛玩動物のように、ただ愛想を振りまいているだけの女の豹変に、一樹はたじたじだった。
見た目と軽さで騙しているだけで、やはり加菜子は碌でもない女。
ただの面倒臭いメンヘラだった。
「あぁもう病む。サイテー。【おかしな子】、絶対許さない。アイツさえいなければ、一樹くんは加菜子のものなのに。そうだよ、いなければいいんだよ。加菜子の一樹くんをたぶらかすやつなんて。顔突き合わせて蹴りつけてあげようかな。最低でも五回はね。それともケーキみたいに切り刻むのがいいかな。傷が開いてないところがないくらいに。そうしたらもう邪魔できないよね。いや、そうだなぁ、ちゃんと会わずに裏をかいた方が華麗かな? 状況を飲み込む前に逝った方が、慈悲深い? ねぇ一樹くん、どう思う?」
「………………」
一方的に言葉を浴びせられた一樹は、完全に引き腰になっていた。
そもそも加菜子に真剣な感情なんて抱いていない彼には、その歪な嫉妬と憎悪は重苦しい以外のなにものでもない。
今すぐ逃げ出したそうにしながら、しかし混雑した車内では離れることすら難しい。
そんな彼に加菜子は意味ありげに微笑みかける。一樹の下半身がぎゅっと縮こまった。
「そ、そうだ……俺、今日用事あったんだ……わ、悪いけど、加菜子ちゃん、今日は帰って欲しいな……」
「却って欲しい? アイツと遊んだからこそ、加菜子のこと欲しくなっちゃったの? それはいいけど、じゃあ邪魔者は排除して良いよね?」
「い、良いわけないだろ……とにかく、今日は……」
「言い訳ならあるよ。加菜子の一樹くんにちょっかいを出すのが悪いの」
「っ…………」
あどけない声で、けれど悪意と憎悪に満ちた言葉を連ねる加菜子に、一樹は呻く。
思い込んだら聞かない彼女から今すぐ逃げ出したいというように、狭い車内にチラチラと目を向ける。
「か、加菜子ちゃん……また連絡するからさ、今日は無しにしよう」
「今日話したいの? 【おかしな子】を始末する算段? いいよいいよ。ケーキ食べながら相談しようね」
「ああ、もう! そうじゃないのに……!」
「加菜子は妄想じゃないよぉ〜。ちゃんとここにいるよ。どこにいるかもわかんない、気持ち悪いあの【おかしな子】とは違ってね」
「ぃ…………」
一樹はか細い悲鳴を漏らして顔を引き攣らせた。
その恐怖が、けれど彼の決意を固めさせたようで、突然更に激しく周囲を確認し出す。
何も見つけられなかったことを確認してから、一樹はお尻を締めて気を引き締めた。けれど決して放さない。
「────加菜子ちゃん、ごめん。俺が悪かった」
そして唐突に、周囲を憚らずに加菜子を抱きしめた……!
「俺には加菜子ちゃん、君【鹿以内】よ」
「加菜子しかいない? 他の誰もどうでもいい?」
「【胴でも謂い】。だから加菜子ちゃんも、他のことは気にしないで。【折れ岳を満て】」
一樹は強く加菜子を引き寄せてまるで恋人同士のように熱い抱擁を交わしている。けれどそれは精神に異常をきたした加菜子を宥める一時的な処置であって決して一樹の本心ではない。加菜子の常軌を逸した思考回路は会話すら碌に成立せず体目当てに相手をするにしてもリスクが大きすぎることは一樹も十分に理解している。だからこれは飽くまで今の状況を脱するための手段であって決して彼が加菜子に好意を抱いているわけじゃないだから問題はない。何も何一つ万が一もありはしない。一樹に抱きしめられて嬉しそうに微笑む加菜子は勘違いのお門違いだ。
「そっか。そこまで言うなら。でも加菜子、一樹くんに『加菜子だけが好き』って言ってもらえないと、信じられないなぁ」
「…………!」
自分がその場凌ぎであしらわれているとも気付かず加菜子はおこがましい要求をするそれに一樹は────
「好きだよ、加菜子ちゃん。君だけが好きだ」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
ずっと触っていた一樹の尻に爪を立てて強く掴むと、周りを蹴散らして体を捩じ込む。
こちらを見てハッと目を見開いた【大葉 加菜子】のムカつく顔面を殴りつけてから、一樹の顔をまじまじと覗き込んだ。
「ねぇ一樹。【渡士 一樹】って、言ったわよね?」
『置換する岡 志奈子』【了】
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