173:怒り狂うソレ
剣を振り血を払う。
倒れ伏した敵などもう眼中にない。
騒音の中で次に切り込むべき場所をぐるりと見渡して探したところで、違和感に囚われた。
――なんだ?
血に沈む青年の体。
それを見ると肌が泡立つようだった。ぞわりぞわりと何か“見ていけない物”を見させられている気分になる。
実際、ニヒジェケスは目が離せなくなり、異常に気付いて剣を構えなおした。
ごぽ、と彼の血が煮え立った。
それは灰色の飛沫を飛ばし、そこから黒い何かを飛散させる。
何度も繰り返し、彼の死体は黒く染まり、突然起き上がった。
「・・・・・・っエルデン・グライプか!?」
不滅者であるのかと問うものの答えは返ってこない。
彼は、それは、血の気の無い黒く汚れた顔でこちらを見ると満面の笑みを浮かべた。
美しく、醜悪に。何もかもを赦し愉快そうで、心底憎悪を写した顔で此方を見たのだ。
「――――――」
何かを、言ったようだった。
言ったようだったというのは、ニヒジェケスにはそれが言葉として聞き取れず、悲鳴のようにも哄笑のようにも取れたからだし、一度灯った“恐怖”という感情が彼女に思考の余地を残さない。
「ひっ」
自分は誉れ高き円王の片腕だ。それを誇りに決して驕らず研鑽を積み、生きて来た。
なのに、どうして今この場で恐怖で震えているのだろうか。
泥のような黒いそれに汚れた彼は一歩踏み出す。
それと同時にニヒジェケスは喉をぐびりと鳴らした。
――逃げてはいけない。自分は、円王国の名誉を背負っているのだから
誇りを胸に切っ先を彼に向ける。
彼は気にした風は無かった。酷く不器用に歩く彼は、真っ直ぐにニヒジェケスに向かってくる。
ニヒジェケスは戦場に立つ恐怖を久しぶりに思い出した。
生死がかかった戦いになるだろうと予感した。
だからこそ、彼が何かをする前に――斬りかかったのだ。
「はあっ!!」
疾駆し目にもとまらぬ速さで首を落とし、息をつく。
――ああ、この程度だったかと
「杞憂だった・・・・・・?」
ごろりと落ちた首に彼の足が伸びる。
違う。彼の足の影から何か、得体のしれない泥のような物が伸びて“喰った”。
震える肩をそのままに青ざめた唇を噛み締め、ニヒジェケスは“カーク”を見た。
彼は、元に戻った頭の目の白目を黒く染め上げ、瞳を黄金色に輝かせると一瞥もくれず満面の笑みのまま通り過ぎて行ったのだ。
じりじりと髪が黒く染まって行く彼の背中に何度も剣を突き刺した。
突き刺した傷口から灰色の液体が零れるだけでその歩を止められない。
到底褒められるべきではない。逃げる相手を追うのは得策じゃない。
けど違う。
これは、
“これ”は逃げていない。
「止まれ!止まれ!!止まれ!!」
悲鳴じみた声に彼は反応を返さない。
いいや。次の瞬間に自分の体が吹き飛んだのがよく分かった。
「ご、が」
カークの背中から伸びた2本の黒い触腕は煩わし気にニヒジェケスを軽くあしらい、歩を進める。
そちらの方面は――円王国の陣地だ。
血を吐き、あちこちの骨が折れても、必死に立ち上がろうとその背を睨む。
今も兵士たちがこちらへと次々に向かってきている。
だから――ニヒジェケスは咄嗟に叫んだ。
「撤退!!」
誰も意味が分からなかっただろう。
ニヒジェケスにとっても訳が分からなかった。“これ”は相手にしてはいけないと本能が叫ぶだけで、明確な理由がある訳じゃない。
今撤退すれば、デメリットも多い。だが、撤退すべきだ。こいつから逃げなくては。
ああ、けど、けども
――遅かった
手近な兵士が、最初に喰われた。
悲鳴を上げる間もなく、触腕に囚われ影に喰われていく。
次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、
それが何度も繰り返され、影が広がり、泥のようなスライム状のモノが膨れ上がる。
流石に悲鳴が上がり、円王国の兵士の誰もが撤退していくなかで果敢に挑むものが現れても意味はなかった。
簡単に何人も影へと喰われて行き、先へと進む。
ニヒジェケスは魔法を使い自身を癒すと剣を手に再びカークの首を落とす。
どさりと落ちる首。満面の笑み。
意味は無いだろうと感じてもやらざるを得ない。一瞬でも足止めが出来るのであれば、それに越したことは無いのだ。
それが数度続くと、彼はきっととうとう煩わしくなったに違いなかった。
彼の影が膨れ上がり泥のような何かがニヒジェケスを遠く、カノカノス側が用意した塹壕へと放り出した。
――なぜ自分は喰われないのか
へばりつくような恐怖と戦いながら、ニヒジェケスは、驚き恐れ遠くへと逃げていくカノカノスの兵士たちを無視して自分を癒しながら駆けだした。
そして、自軍の円王国の兵士たちが次々に喰われていく様を目の当たりにして、怒りではなく恐怖を感じた。怒りがまるで喰われてしまったかのようだった。
触腕は自在に伸縮し遠く数百m向こうの相手でも簡単に捕らえてしまう。
底引き網のように触腕は獲物を捕らえて満足気だ。
こんなことは想定していなかった。
この僅か数分でどれだけの兵士が喰われただろうか。
数百か、数千か。
膨れ上がった彼の影は今や溢れ出し、泥を吐き出しながら先へと進む。
より獲物のいる方へと。
「あぁぁああぁあああああぁああああああ!!!」
止められない。
自軍が千々に逃げても幾百の触腕が伸びて影へと引きずり込んで行った。
犠牲者が増えれば増えるほどに触腕も増え、泥も増えた。
見れば下半身は最早泥かスライムのようであり、上半身は辛うじてヒトガタを保っていた。
獲物を求めて彷徨うバケモノを前に恐怖と困惑でニヒジェケスは震える。
どうすればいいのか全く分からない。止められないバケモノの背にそれでも剣を振るう。
剣は彼の背には届かない。もう泥がそこまでの道を阻み、足を踏み入れることを許さなかった。
しかし、跳躍し再度その背中に剣を突き立てると彼はとうとう振り返る。
冷たい双眸がこちらを見るとともにその黒い泥に覆われた手でニヒジェケスの首を締め上げた。
「――――超越者はまだ喰えん。邪魔だ」
それだけ言って無造作に放り出し、彼は獲物を求める。
――“まだ喰えない?”
何を言っているのか全く分からなかった。これが何なのかも分からない中で、ニヒジェケスはただ叫ぶ。
両軍の視線が集まる程の大音声で。
「撤退!!」
彼らはもう撤退している。戦意なんかない。魔法強化された兵士を簡単に葬れる存在にどうして勝てようか。
超越者として名を馳せ、名誉をほしいままにしてきた存在を無視できるものにどうして挑めようか。
だが、バケモノには関係ない。手当たり次第に木の実でも食べるような気軽さで兵士を喰いまくる。
「足りない、足りない、足りない、足りない、足りない。もっとだ」
満面の笑みを浮かべるソレはずるずると逃げ遅れた兵士を泥のようなものに引きずり込んで進み続ける。
カノカノスの兵士たちも恐怖で恐慌状態に陥り、当然逃走を始めている。
今は円王国の兵士を襲っているが、いつあちらに襲いかかっても可笑しくないからだと本能が察しているのだ。
混沌を極めた戦場で必死になってバケモノを止めようとしているのは皮肉にも引き金を引いたニヒジェケスだけだった。
クォーツは青ざめた顔で周囲を見渡す。
円王国の兵士は一気に士気が下がり、司令官であるニヒジェケスの指示もあって撤退を開始した。
だが、あれはなんだ?
あの“バケモノ”は?ニヒジェケスと相対していたはずのカークはどうした?
膨れ上がって行く泥のような物を見ながらどうしていいか分からずに呆然と立ち尽くす。
血の匂いで馬鹿になった鼻でも、死と憎悪それから憤怒の匂いを感じ取る。
――アレは、あのバケモノは怒り狂っている
それは分かった。嫌でも分かる。だが何に対しての怒りだ?
あのバケモノをどうにかしないと、いつこちらに降りかかってもおかしくない。
不意にシンジュが傍らに立っていた。
彼女は弓を片手に息をはく。
「まずい」
それだけを端的に言って、シンジュは歩を進めた。黒い泥を纏うバケモノの方へと。
その肩を掴み、留める。
「なんだ?何を言っている?行かせないぞ」
「行かざるを得ない、クォーツ。お前はルリ達を安全な所へ連れていけ。もうこの都市は駄目だ」
「は?」
シンジュはその黒い瞳に僅かな金の輝きを灯し瞬く。
「もう、遅い。あれの暴走を止めるにはあれと同等の神性が必要だ。このまま放置してはこの都市だけでは済まなくなる。この身を崩してでも今のうちに手を打たなければ」
彼女はそう言って、手を振り払い、歩き出した。
覚悟を決めた者の背に何を言うべき分からない。戸惑いと畏れを抱き、クォーツは叫ぶ。
「待て!」
彼女は珍しく疲れたように微笑んだ。
「・・・・・・駄目だ。今ならまだ何とかこの身ひとつで出来る。これ以上、供物があれば――あれはもっと巨大になる」
「何の話をしている?あれはなんだ?」
クォーツがそう焦りと共に問いただすと、ルリとオニキスが走り寄って来た。
「どうしたんですか?何が起こっているんですか?」
オニキスの不安げな声にシンジュは振り返り、いつもの無表情で言う。
「問題ない。カーク卿は無事に帰ってくる。安心しろ」
「え?あ、あれはカーク、なんですか」
今も悲鳴が響きわたっている。命の灯を消される者たちの悲鳴がこだまする。
その元凶たる黒いスライムのようなバケモノこそカークだという。
オニキスは信じられなくて震える。
「カーク?どういうことだ?シンジュ話せ」
「――・・・・・・“泥の神性”はそれだけ重い。持っているだけでその魂を蝕む」
「?」
シンジュは息を吐き、悲鳴がこだまする中で微笑んだ。
「あの暴走具合から見るにカークが持っているのは“知灰泥の王”の神性。あれを止めるには、少なからず犠牲が必要だ。だが私なら止められる」
「無事で帰ってこれるんだな?」
「不可能だ」
シンジュの言葉にクォーツは額に手を当てて何かを必死に考えたようだった。
「仕方のない犠牲だ」
「行かせると思うか?」
「だがこのままでは全員が死ぬ。カーク卿をひとりでニヒジェケスと戦わせたではないか。私一人の犠牲など、安いものだ」
決然とした声色に全員が言葉に詰まる。
「別に悲しむことは無い。私は眷属のひとつであり、消耗品の類だ。お前たちが罪悪感に囚われる必要はない」
「シンジュ・・・・・・」
なにからなにまで分からなくともシンジュが死地に向かうのは分かる。
あのバケモノは勢いを増していき、今も犠牲者を増やし続けているのだから。
「では」
彼女はそう言って、バケモノが猛威を振るう死地へと向かって行った。




