172:”知灰泥の王”
苦笑は嘲りにもとられかねなかったが、自身の実力を鑑みれば、それは仕方のない事だった。
アリシニレユ・ウユーイ・バオガネーシュ・ソニア・ニヒジェケスは腰に佩いた剣を抜き、コインを片手に青年カークを真っ直ぐに見据える。
――あまりにも見劣りする相手だ
超越者たる自分には似つかわしくなく、先ほどの申し出の時点で切り捨てるべきだっただろう。
周囲の雑音の中、ニヒジェケスはそう考えてほほ笑む。
だが、ニヒジェケスは勇敢な人物は嫌いではなかった。
命をかけて戦うというのであれば、それがなにがしかの時間稼ぎの方便だとしても乗るべきだ。
戦場にて一騎打ちを申し込まれ、それを無視するなど名前に傷がつく。
この名に傷がつくということは、ひいては円王国の、円王にして主人の名誉を傷つける。
であれば余裕をもって、相手して然るべきだ。
そうしてコインを弾いた。
コインが土についたその瞬間、カークは大音声で叫ぶ。
「【時虹公のこぶし】っ!!」
不可視の攻撃が到底目では負えない速度で駆けるニヒジェケスを襲う。
「ぐぁっ!?」
常人では不可能な速度が災いした彼女は魔法をまともに喰らい、大きく吹き飛ばされるが直ぐに体勢を立て直す。
しかし、腕が折れ曲がり口からは血が零れる。
驚愕し息の荒い彼女を見る間もなくカークは魔量回復剤を貪り、次を叫ぶ。
だが、彼女はそれを許さなかった。ナイフを投擲し、阻止したのだ。
「【じこ・・・・・・】っ!?」
「まさかエイボンの手先か!?」
ニヒジェケスはそう怒鳴り、再度突進してくる。
その速度は先ほどよりも速くまた鋭い。
舌を縺れさせながらカークは叫ぼうと口を開き、しかし、出て来たのは望んだ声ではなかった。
「ご、ふ」
心臓に一突き。
ニヒジェケスの剣が刺さり、カークは血を吐き出した。
灼熱の血が溢れ出し、極寒を味わう。
「・・・・・・がぁ、あ【じ、こぅ・・・・・・こ】」
剣が体から引き抜かれるとともにカークは猛烈な疲労感に襲われ、膝を折る。
違う違う違う。駄目だ。倒れちゃだめだ。守らなければ。
涙を零し血を吐いて力が入らない体に活を入れて何度も立ち上がろうとした。
口を開こうと、何度も動かそうとした。だが、口から出るのは意味のない呻き声ばかりだった。
「――――――」
声にならない声が息をする度、零れ落ちる。
「さようなら、カーク。何故その魔法を使えるのか聞きたいけど、まあ、いいでしょう」
彼女の言葉が脳にやけに間延びした声で響く。
自分の血で出来た血だまりにそのまま横たわると濁った目で空を見た。
真っ白な部屋、真っ白な長机、真っ白な椅子
天井だけが青く、こちらを覗いているようだった。
何かを思い出せなくて、カークはぼんやりとその天井を見上げる。
不意に目の前の椅子に満面の笑みを浮かべる美しい青年が座った。
「“地哭の君”」
「やあ、カーク。僕の助けが必要じゃないか?」
彼は笑みを崩さず楽しそうにそう言った。
――ああ、あれ?なんで助けが必要なんだ
――何か大切なことがあった気がするのだけど
カークは悩み、首を傾げた。
「そうでしょうか?今必要だとは思いません」
「ん?」
心底不思議そうに“地哭の君”はカークを覗き込み、彼もまた首を傾げた。
「おかしいな。壊れるにはまだ早いだろう」
「はい?」
“地哭の君”の言葉にカークは言い知れぬ恐怖や焦燥感を覚える。
――何か、何か、何かを忘れている
忘れていることは思い出せた。けれどもそれが何なのかが分からない。
自分の中に何かぽっかりと穴が開いたようだった。
穴の存在は分かるのに、そこに何があったかが分からない。
――“壊れる”?なんだったっけ?
悩むカークをよそに“地哭の君”はつまらなそうにため息を吐く。
「泥の神性が深まっているせいか。ちょっと厄介なことになったな」
カークは瞬き、“地哭の君”から視線を外すと両の掌を見た。
「・・・・・・?」
何がこの手にあったのだろうか?
頭が鈍くうまく働かない。
ただ、じわじわとした怒りに似た感情が湧き上がる。
それは毎秒強くなりカークは戸惑った。
何も怒る事など無いだろう。
何も焦る事など無いだろう。
何が、トリガーか分からないまま、自分の掌を見つめ、ぽつりと灰色の液体が落ちるのを見る。
「?」
「あ」
“地哭の君”が何か反応を見せたのでそちらを見ると、自分の目から涙のような物が零れていると気づいた。
しかしながら、それは涙などではなかった。
灰色の液体は次から次へと目から涙の様に零れ、カークの服を汚し、床を汚していく。
机に手をつくと滲む様にそこから机が汚れていく。
「は?」
「あーあ。折角面白くなりそうだったのに。いや、これはこれで面白いか?」
“地哭の君”の呑気な声にカークは突然怒鳴る。
「殺してやるぞっ!■ャル■■ホて■」
瞬間、憤怒が全身を駆け巡り憎悪が手を伸ばす。
襟ぐりを机越しに捕まれた“地哭の君”は大して動揺もせず、冷笑を浮かべた。
「だから言っているだろう。そんな小さいなりじゃあ何も出来やしない」
“カー■”は嘲笑した。
「醜く吠える姿を晒せ」
頭が冷たく冴えわたる。
殺さなくては。
沢山、沢山、沢山。
あのころのように、おおきく、おおきく、おおきくなるために。
“■ーく”は憤怒を抱えて笑う。
“地哭の君”は無表情にこちらを覗き込み、冷徹に笑う。
「僕に勝てると?」
どろどろと“■ー■”の手が灰色の液体に包まれて行き、そうして“地哭の君”の首を絞めようとしていた。
しかし“地哭の君”は気にした風もなく淡々と言う。
「諦めなよ。そこからは出られないし、出られたとしても小さいままだ」
“知灰泥の王”は体を手に入れても体が耐えられない。
器がすぐに壊れてしまう。
けれど、少しずつなら、少しずつ器を大きくしていけば、不可能は可能になる。
それを知っていた。けれど、“地哭の君”は知らない。
だから、“知灰泥の王”は憤怒を抑えて待ち続けた。
獲物が罠にかかるのを。
「ほざけ」
“■■■”の手がぎりぎりと“地哭の君”の首を締め上げる。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
殺さなくては。
ぱちん、と指の鳴る音がすると同時に“■■■”は吹き飛ばされ真白い壁の黒いしみになり下がった。
“地哭の君”はそのシミを見て嘲笑をひとつ浮かべただけだった。




