46:ギル
里の北側。
その奥には瘴気の沼があり、そのさらに先には瘴気の漂う妖族の居住地がある。瘴気は人にとっての毒。そんな立地だからこそ、里の北側には警備のエル属も殆ど巡回をしていない。だから、長老から人間族の話を聞き、同行者として指名された時は耳を疑った。
ユウタの同行者エリットは、長老に彼の話が真実か否か見定めて来いと命を受けている。
この人間族はエル属からただただ肉体と精神を蝕む暴行を受け、瘴気を体内に長期間溜め込んでいられるように、耐性を付けるために体内組織を変化させる毒を与えられ続けていた。一度は解放され癒され、瘴気も消滅したが、今度は自分たちが拘束し、思考を狂わす薬を与え続け、さらに深く傷つけたのだ。エル属を恨まないはずがない。
長老はこの人間族が嘘をついていると思っているようだ。
だが精霊に関しては本当だった。
実際《可視化の陣》を引いた瞬間、精霊が数体現れたときは本当に驚いた。それに、闇の精霊に関しては契約の有無は不明だが協力関係にあるのは間違いないようだ。
つまり、非力だったこの人間族は渡り人であるがために魔石無しでも魔力を魔法として扱うことが出来、その能力を用いて精霊魔法という攻撃手段を手に入れたのだ。
ギルの餌になる?
耳を疑う。
それにあの人間族は近々『魔狩り』が来ると宣言したらしい。あれは警告などではなく宣戦布告なのではないか?
この里を出るのは間違いないのだろう、だが、あの人間族の言葉が正しいものなのか真意を確かめる必要がある。だからその真意を確かめてこいと、命令されている。
故に現在、エリットはユウタに気付かれることなく状況が確認できる程度に離れたところで見張っていた。そしてその異様な光景を見ている。
まず、報告すべきはこの人間族は間違いなく『餌』になりに来たということだ。
瘴気の気配が近づいたら闇の精霊を排除した。
そして一人先に進み、瘴気の沼に辿り着いた時何百というギルに囲まれながら迎え入れるような仕草をして見せた。ただの狂人だ。
だが、ギルの反応がないことを知ると、攻撃意志はないことを態度で示すためか瘴気の溶けた沼の水を飲み干しその意思を再度告げる。それでも反応がないから自ら沼に沈んだ。
そしてようやく動き出したギルに引きずり出され、今は…恐らく希望通りに餌になったのだろう。
人間族のいるだろう場所には無数のギルが山なりになっている。人間族の声は聞こえない程に距離は離れているのだが、ギルのガサガサペチャクチャと不快な擬音が響く。
「……哀れな狂人よ」
自分たちが招いた種とはいえ、こんな結末しか選べなくしてしまったことにエリットは少しだけ後悔する。エリットもまた『研究所』から救い出された者なのだ。人間族の非道は身をもって体験している。だからこそ、その恨みは深く、サイシャたちの行った行為も、もし自分が誘われていたのならその誘いに乗ってしまうほどには憎んでいる。
だが、自分たちを苦しめた者と、この人間族が無関係だということも知っている。知っているからこそ、助けられた時に無関心を貫いていたが、魔王様の情報を持っていることを知ると無関心をやめた。自分を絶望の淵から救ってくれた魔王アシリッド様は人間族の裏切りで3年前亡くなったとされている。その亡くなったはずの魔王様の情報……。引き出したいと思った。引き出すべきだと思った。
だからこそ、この人間族を『人』として扱うことを拒絶した。
それでもこの人間族は足掻き、女王様までも味方につけて自身の自由を取り戻した。絶望などという言葉では生温いほどの…そんな経験の果てに得た、自由。その先にあるものが目の前の光景だ。この人間族は何のために自由を得たのだろうか…生きることを渇望したのだろうか……。
「……《支配》を抜けても、心はもう手遅れだったのだな……」
魔法の影響で死を渇望していた。だが、魔法の影響が消えても、彼に起こった様々な経験は死を求めるに値したのだろう。甘美なものになったのだろう。
「……せめて安らかに…」
瘴気を中和する薬をエリットは服用している。だからこそ、この場にいても影響を受けていないがあまり長居したい場所ではない。人間族の最期も確認した。ならば報告をしよう。今見た、あるがままの全てを。
エリットは傍らの精霊に話しかける。
「私の任務はここまでだ。貴方はどうするのだ? 瘴気が貴方にどう作用するのかはわからないが、あの人間族はもう終わりだ。あの塊が出来てそれなりに経つ。恐らく跡形も残らないだろう」
クロはずっとギルの塊を見ている。その中にいるだろうユウタを見ている。
「……私…ここいる。ずっとユウタの……」
「そうか……」
あえてこれ以上は告げず、エリットは里へと戻っていった。
「……ユウタぁ……」
小さなその瞳には涙。せっかく精霊になれたのに、一緒になれたのに、離れ離れになるなんて……。
自分に力がないのがもどかしい。
与えられる魔法は付与。それが自然なら《闇》《無音》。それが生物なら《強化・弱体》《夢》《呪》《混乱》《毒・麻痺》
他の精霊たちのようにそんなに役に立てない。
ユウタを助ける手段がない。
それに…ユウタが助かることを望まない。
「一緒が…いい……」
「もぅ、一人は……嫌だよぉ……」
クロは泣くことしかできない。
◇
ガサガサゴソゴソ
ガサガサゴソゴソ
『イイカゲンオキテ』
『オキローー』
『ヒッパタイテヤル』
『ムシスンナシー』
「……」
何か聞こえる。
『ア、イマハンノウシタ?』
『コキュウハセイジョウネ』
『ケツゴウモンダイナシ』
「……」
やはり聞こえる。
ガサガサゴソゴソ
ガサガサゴソゴソ
何が聞こえる?
何で聞こえる?
何してたんだっけ?
どうしたんだっけ?
あぁ、何も考えられない。
あぁ、何も考えたくない。
『ア、ジジダ。ジジガキタ』
『アトハジジニマカセヨウ』
『ジジナラオハナシデキル』
『ジジノオハナシヒツヨウ』
沢山の声が聞こえる。
でもいらない。もう…何も聞きたくない。
『もう、意識は戻っておろう、お主はいつまでそうしておるつもりじゃ』
今度ははっきり聞こえた。
この感覚を知っている。
頭に直接話しかけてくる、たとえ耳を塞いだって伝わるそんな異世界の伝達法…《念想》
気づいてしまったら仕方がない。
ユウタはまだ自分が生きていることに落胆しながらゆっくりと目を開けた。
「……これは…何の冗談だかね……」
視界に現れたのは無数のギル。
どうやらユウタは大量のギルに腰掛けているという、異様な光景の中にいるようだ。
さながら蠢く座椅子とでもいうのだろうか…変に弾力のあるこのギル座椅子は瘴気の沼の近くで蠢きながらもユウタをしっかりと捕らえ、そして支えている。
「…さっきから話しかけてたのはお前か?」
そんなグロテスクで得体の知れない状況で有りつつもユウタは平然と、目の前にぽつんと佇む他のギルより少し色の濃い日焼けしたような色黒ギルに問う。
『ほほぉ、この状況に何の恐怖も疑問も感じぬとな……』
「生憎、恐怖の感情は少し前に失くしたんだ。疑問はないことはないさ。お前らの餌宣言をして、瘴気の沼の水を大量摂取して、どうしてまだ生きてるんだか。どうしてまだどこも喰われてないのか……。確かになんか吸われたり、注入されたりした感覚はあったんだけどな」
自分のことなのに、さも興味なさそうに目の前のギルに告げる。
実際このギル座椅子はユウタをどこかへ逃がそうという気はないのだろう。両腕と両足はギルに覆われて立つことは出来ないし、腰回りにだって蠢いているし、頭にも乗っかている。
ユウタは別にいつ喰われてもいいと思っているのでそこまで悲壮感はない。
ただ、出来れば早いほうがいいから、聞かれたことはきちんと答えようと思う。そこにどんな意図があるのかは知らないが、そもそも魔物最弱と言われているギルに《念想》を使う個体がいてしかも会話を仕掛けてくるとは予想外だった。まぁ、言語理解能力があるのなら、きちんと自分は『餌』だと伝えられるんだから間違いはないだろう。好きなように殺せ、と思う。
『成程のぉ…確かに重症じゃのぉ……』
「お前俺の話が理解できるんだろ? だったらこいつらにも言ってやってくれよ。お前らがどんなに最弱って言われていたとしても俺はそれ以下のゴミ。お前らを傷つけたりしなし、それ以前にそんな力もない。だから無抵抗で餌になるってさ」
ユウタは笑う。
ニコニコニコニコ。
灰色の部屋を思い出す。結局《支配》があろうがなかろうが結果は同じ。
「餌の価値もなきゃ玩具でもいいぜ。慣れてんだ。好きなだけ遊んで飽きたら沼に捨てればいい」
『……お主…歪んでいるのぉ…。それに少し勘違いをしておるようじゃから一つ訂正せんとな』
ジジと呼ばれた色黒ギルは、のそのそにゅるにゅると少しずつユウタに近づいてくる。
『人は我らを最弱と言うが我らはただの最弱ではない。戦わぬのじゃよ。我が種は戦う術をもっておらん』
「……だから最弱って言われてんだろ?」
『そうではない。我が種はそれぞれ個でありながら全種を個ともする』
「…………は?」
質問の返しになっていない。
理解を超えた。
この魔物は頭も弱いのだろうか……ユウタはもうこのギルにまともに対応しなくてもいいかなと思いはじめる。
『つまり儂は儂としての『個』を持つが、お主の頭に乗ってる同種も儂という『個』の一部でもある、その逆もまたしかり…ということじゃ』
「ごめん、まったく意味が理解できない。ってかそれを説明する意味ある?」
『まぁ、理解せいとは言わんよ。しかし意味はあるかのぉ…』
「何の意味?」
『儂らギルがどういった魔物であるかを知ってもらう意味じゃの。それを理解したうえで儂らの求めるものを理解してもらえると、色々助かるんじゃよ』
「ふーん。ま、いいけど。で何?」
『ふぉっふぉ、本当に無関心じゃの……まったく治療のし甲斐がないわい』
「……………治療…って言った?」
『そうじゃ。言うたじゃろう。儂らには戦う力はない。儂らにあるのは治療術じゃよ。治療することが儂らの生きる意味なんじゃ』
「……」
『言葉もないかの? そりゃそうじゃのぉ、お主は死に場所としてここを選んだんじゃからのぉ』
ギルはどこに目鼻口があるのか分からない。
そもそも存在しているのかも謎だ。
だが、この色黒ギルは明らかに笑うように語りかけていた。小馬鹿にされた気分だ。何だか少し気分が悪い。
「なるほどね。つまりお前らには攻撃の意思はない。しかも瘴気の沼に沈むような馬鹿は治療の対象ってことか」
『簡単に言えばそういうことじゃのぉ』
「つまり俺は選択を間違えたってわけだ。はぁ……わかった。降参。大人しくするからこいつらどかして」
『馬鹿かお主は。いや、馬鹿だお主は。儂らの所に来て尚、考えが改まらぬ者を帰すわけなかろうが』
殺してくれないのだったらここにいる意味ない。治療なんて不要だ。ユウタは考える。どうすればここから解放されるのか、自由になれるのかを……。
色黒ギル…日焼けした?




