3:霧の森
この世界に『人』は3種存在する。『人間族』と『亜人族』そして『魔人族』だ。
そして、このコーザ大陸で最も規模が大きく、最も人間族の権威あるのがミレニア帝国。人間族と魔人族は敵対関係にある。故に、このミレニア帝国領での魔人族の地位は低下の一途を辿るのみだった。
だから次第に魔人族は人間族を恐れ、憎み、離れて、人間族から隠れて暮らすようになっていた。
「ま、待ってよシャル!! 一人で乗り込んだって無駄死にするだけ…だよッ!!」
短く切り揃えられた青空色の髪を靡かせて少女は叫ぶ。
ミレニア帝国領の北西部には人の侵入を拒むように広大で鬱蒼とした森がある。
『ミディルの森』と呼ばれるこの森には魔人族の中でも比較的高い魔力を有する一属、エル属が多く存在していた。エル属は基本的に温厚で、襲われない限り『約束』を遵守し、人間族を攻撃するようなことはなしない。しかし人間族はお構いなしに魔人族を、エル属を襲う。
そんな状況なのだから本来は温厚であるエル属も今は……。
「うるさいっ! やっと準備が出来たんだ。僕はそのために3年も頑張ってきた。無駄死に? そんなの関係ない。僕は信じない、姉様は生きてる、そして今も助けを待ってるんだ……もう待つのは嫌なんだッ!!」
早朝。そのミディルの森で少女の前を早歩きし、怒鳴っているのは少年のようだった。少女にしろ少年にしろ10代前半…12,13歳くらいだろうか。まだ幼さが顔に残る。
「いかないでっ!」
追いついた少女はシャルと呼んだ少年の手首をぐっと掴んだ。何をするんだ、とでも言いたげにシャルは細く滑らかな、肩まで伸びた若草色の髪を振り、深い森色の瞳で少女を睨みつけると、少女は唇をぎゅっとかみ締めたまま瞳をうるうるとさせていた。
「お願いだよぉ…シャルまでいなくなっちゃったら…私……」
泣き虫ユノカ…里でもそう言われ、何をするにも怯えて前に出たがらない彼女は、シャルの手首を力強く握り締めたまま離そうとしない。もっともその握る手も幾分か震えているようだが……。
いつもだったらこの泣き虫を貶しながらもシャルは守っていた、庇っていた。彼女は確かに弱気であるが弱虫ではない。その辺の違いはかなり微妙なのかもしれないが、それは彼女の誇るべきことだと思うから。でも今は……。
「ユノカは里へ戻れ。この辺りの森の生き物だったら僕たちだって勝てるけど、森を出たらその常識は通用しないんだ。人間族を傷つけることさえ恐れているお前には、僕のあとを着いてくる資格なんてない。というか、はっきり言って足手まといだ、迷惑だ」
まっすぐと睨みつけシャルは突き放す言葉を告げる。
「シャル……」
ぐすん、と嗚咽を漏らしユノカは涙を一粒零す。しかしそれはシャルに酷いことを言われたからではない、本当に付いていっても迷惑なのだと悟ってしまったから…だ。
「わ、わかったら戻れ! もうすぐ森の結界外だからな、結界から出ずに帰るんだ。じゃあな、ユノカ。女王様に身勝手な行動申し訳ありませんでしたって報告しといてくれよ」
シャルはそういい残し、その場を離れようとする。
「い、嫌ッ!」
ユノカは叫んだ。でも、もうシャルは振り返らない。
「シャルが自分で言うんだよ、エミューテイネル様と一緒に帰ってきて、そしてちゃんと謝って、ほ、報告するのっ!」
シャルはその場で立ち止まり、ユノカの精一杯の見送りの言葉に対し笑みを零した。しかし決して振り返ることなく身に着けている青の縁どりの白いローブのフードを被り、その余韻をしっかり刻みつけ再び走り出す。
(大丈夫、僕はやる、やれる。姉様を見つけて、必ず一緒に帰る…その為だったらなんだってしてや……!?)
「うぎゃッ!!」
「シャル!!?」
格好よくユノカの元を去るつもりだったのシャルは何かに躓き豪快にコケた。しかもちょっぴり余韻に浸っていたため受身を取ることを怠り顔面から豪快に。
「痛つつっ……」
顔を覆いながらゆっくり起きあがりシャルは何に躓いたのかを確認する。
「シャル、大丈夫!!」
案の定ユノカもシャルの心配をして駆け寄ってきた。先ほど、物語の主人公的な別れをしたというのに…旅立ちの決意をしたというのにしょっぱなから出端を挫かれてしまい、シャルは紅潮する。
「大丈夫だよ、心配すんな。それより……」
シャルの元気そうな言葉にほっと胸を撫で下ろしたユノカはシャルの視線の先に目を合わせた。瞬間、
「キャッ!」
と、短い悲鳴をあげ
「…もしかして…死んでる…とか…?」
森の落ち葉に覆われ、そこには人が横たわっていた。シャルはそれを憎しみの目で睨みつけ、そして憎悪の言葉を吐き出す。
「いや、気絶しているだけのようだな。近づくなよユノカ、こいつは人間族だ。前回といい今回といい、最近侵入者が多い……そのうち本当に『魔狩り』が始まるかもしれないな」
「でも、あの人……と一緒…………かも、しれないよ?」
「さぁな。人間族なんて嘘つきな生き物だから…僕は信用出来ないんだよ。いかにも真実だとでも言うように平気で嘘をつく、本当に歪んだ生き物だ」
立ち上がると、シャルは横たわった黒髪の人間族を見た。落ち葉に覆われていた顔は、シャルが転んだおかげで払われ露になっている。今この地は寒さとは無縁にも関わらず、近くに厚手の上着が落ちているのは妙に気になるが、気配は人間族のものと見て相違ないだろう。
あれだけの衝撃をあたえたのにまだ昏々と眠り続けている。それは何かの罠か? とも思ったが視線を木の根元へ移すと、そこには茶色のきのこが群生していた。
「多分森の結界に惑わされて食料尽きてゴル茸食べたんだな」
「そ、そうだとすると…かなりの日にちが経つか、強い衝撃がないと…起きないね」
ユノカはほっとしたような声でそう呟いた。
この人間族は恐らく近くにあるゴル茸…いわゆる眠り茸を食べたのだろう。微動だにしないが、しかしその鼓動は確実なものだ。
何もなかったかのように安らかに眠るその姿はシャルを激情させるに十分であり……。
「ちッ、一人じゃ何も出来ない小心者のクセに…同族同士で争うような愚か者のクセにッ!!」
シャルは勢い良く人間を蹴り上げる。それはわき腹に当たりごろんと半回転してうつ伏せの状態になった。
「う……」
この時初めて人間族は声を上げる。とても弱々しい声だ。
「シャル!!」
近くでユノカの心配する声が聞こえる。シャルは何かを思いついたのかニタリと歪んだ笑みを浮かべた。
「大丈夫、これくらいで起きたりはしないさ。ユノカ、一旦里に戻ることにするよ。もし、こいつが『魔狩り』の関係者だったら里の危機だ。だから女王様に報告する」
「か、関係者じゃなかったら?」
「……女王様が決める」
「……シャル?」
怯えたままユノカはシャルの表情を読み取ろうとする。基本的に自分たちエル属は無益な殺しを好まない。しかし、森に隠れて住まなければならないシャルたちは人間族に対して穏やかではいられない。
シャルは人間族に近づくと、風を起こし、その風の中に人間族を包み込む。ふわふわと柔らかな風に包まれる人間族は眠っているから、されるがままだった。
◇
夢を見た……。
「えっと……何がなんだか…ん??」
気がついたとき薄霧の森の中にいた。それ自体が意味不明で理解不能だったが、それはそれと置いといて、とりあえず冷静に冷静にと、その場に座り込んで考える。
360度が森。森。森。同じ光景であり、方向感覚なんてものはない。
「……暑い……ぞ……」
確か冬だったはずだ。だがこの暑さは一体なんだろうか…それに日は暮れていたはずだが……まだ陽は登ってる??
夢? 夢だから季節感覚がないのか。あ、でも夢って感覚がないはずだよなぁ…味覚とか触覚とか気温とかいろいろいと…。
近くの針葉樹をポンポン叩いて、触覚を確かめる。掌に触れる感覚はまさに木。
ちょっと感覚がリアルだけど、状況考えてこれは夢。
「決定」
で済ませて、取り敢えずコートを脱ぐと腕に掛ける。
別に真夏のような暑さではないので、コートを脱いだだけで大分涼しくなっていた。
「となると、次はどうするか…だけど…」
目を瞑り精神統一するように答えを導きだそうと心掛ける。
そして、閃いた。
以前何度か試したことがあるのだ。夢を夢と理解した瞬間、その夢はある程度自分の思うとおりに操作できるのだと発見した。つまり今は夢を見ているわけだから目覚めたいと思えば目覚めることが出来る、というわけだ。
「うっし、まずはイメージだな」
目を閉じ大きな扉を心の中に思い描く。白く、繊細な彫刻の施されたこの場にそぐわぬ異界への…現実への扉。
これは何度か試した中で最も有効な方法だ。夢から覚めたい。現実へと戻る…それは扉を心の中でイメージしてその先に自分の部屋を用意する。思いは扉を潜り自分の部屋へと辿り着くと…そこで眠っている自分と同化する……。
「……………あ、れ?」
変化はない。扉もなければ部屋も見えない。
「おかしい…これでいいはずだ…」
もう一度チャレンジしてみた。
「……だめだ…帰れない……」
夢から覚めることが出来ないなんて今までなかった。ってかあるはずない。
この時試しに針葉樹を思いっきり叩いてみた。
「痛ッ!!」
はっきりとした痛みが右の拳を襲い、それと同時に不安が全身を覆った。
「マジですか…これ夢じゃないのか……なら、あいつらにいつの間にか憑かれて、幻影の世界に迷い込んだ? ……割には空気が綺麗……」
だったらここはどこなのだろうか…少年はその場に座り込み頭を整理することにする。
「落ち着けー俺、ここでパニクッったらあとが大変だぞ。そりゃもうきっといろいろ大変だぞ。だから落ち着けー俺」
ぼそぼそと暗示をかけるように呟き、自分を落ち着かせていく。
(新島ッ!!……)
突然親友の叫びがフラッシュバックする。瞬間全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。震えが……止まらない。
「あ…あぁ、そうだった…俺…神社で……」
ドッペルゲンガーに会ったんだ……。
そう言ったのは言葉ではなく心の声。そのことを思い出すと、次には別の疑問が浮かぶ。
「……だったらここは何だ? 悪霊の夢? もしかして死後の世界?」
改めて延々と変化のない森を見た。右も左も前も後ろもわからない。自分以外の人もなく、ただただ一人だった。
「俺……死んだ、の…か?」
だからそんな言葉が自然に口から出ていた。
「ぁ…にしん!!? 西はいないよな??」
叫んだ。でも状況は変わらない。反響さえもしない。只々ぼんやりと森が見えるだけだ。
「……良かった。巻き込んではない、みたいだな」
悠太は心底安堵する。この状況は確かに異様なのだ。
ここは森の中…霧で視界がぼんやりとしている…不気味だ。
「こんな所に無関係な西を連れ込むなんて馬鹿しなくて良かった……」
それにしても…と思う。
「やっぱ死んだのか、俺は。まぁ、天国はないだろうし、そうなると地獄なのか……でも地獄ってこんなイメージじゃないんだよなぁ」
独り言を言ったって何も反応するものはない……。
「違う違う。安易に考えるな、諦めるな。もっともっとよく考えろ」
無理やり最悪の想像を振り払い、気合を入れるように両の頬をパンパンと叩く。
やっぱり鈍い痛みがある。胸に手を当ててみる。そこには確かな鼓動がある。
「悪霊の幻ってことも考えられるけど、その割に空気は綺麗なんだよなぁ。死んだわけじゃない、悪霊の幻でもない。タイムリープ? 非現実的だよな。だからって答えが出るわけでもねぇし……。まぁ、現状わからんことだらけだが、一応…まだ生きてはいる…と思っていんだよな。よし、その線で考えよう」
そして大きく深呼吸して自分を落ち着かせる。
「こういう時は冷静になるのが大切だ」
いつの間にか少しずつ暗くなる森を見上げ呟いた。今は冬であり、森の中で一晩過ごしたら凍死するかもしれない。しかしこの森は春のような気温であり、時間経過した今でも気温に変化はない。コートを再度着てみたけれど、やはり暑いと感じるくらいの気温だった。
それはつまり現代日本ではないということになる。
「ぐるるるるるぅ……」
突然腹の虫がなる。
「…無理…」
絶望的な状況。項垂れぼそりと呟く。
「可能性ってあるのか? ここから抜け出して鈴音町に帰れる……」
無理、と心で即答する。それはこの気温が物語る。今は冬なのに森の奥深くでこの気温はないだろう。
「まぁ、なるようになるだろ」
なんてポジティブ発言が出来るのだから結構余裕があるように見えるかもしれない。しかし本心違っていた。
現時点で自宅帰宅は難しい。だから今は現状打破のみに集中する。希望や恐怖、そういった喜怒哀楽をできるだけ無視して、感情論より思考加速を優先。だから彼はこんな状況にありながらも冷静でいられた。余裕を持てた。
こういうのは慣れているのだ。状況を判断し、生まれた感情を消していく。こういったことは……。
「腹減ったなぁ…」
片手でお腹を押さえ、とあるものにチラチラと視線を移す。見えてはいたが…食べていいのか考えるものがある。
「一番、手ごろなんだけど…ってか、きのこって生で食えるのか?」
きのこの群れ。見た目は椎茸だが…きのこは素人が見た目で判断できるようなものではない。
「……」
じっと謎のきのこを見つめる。しかし答えは出ない。
「…いや、まぁ、まだ耐えられるな……」
判断し、きのこを諦めた時、
ガサ、ガサッ…
この森に来て初めて、自分以外の音を聞いたのだった。
◇
「……」
ガサ、ガサ……ガサ、ガサ……
音は次第に近づいてくる。
悠太は音の原因が何かは分からない状態なので、とりあえずこのままでは危険と判断し、たくさんある針葉樹のうちの一つ、人が隠れることができる太さの木に身を隠した。
しばらくもしないでこの場所に音の主が現れる。
「!!?」
人だった。
年のころは…30代半ばといったところだろうか。
鍛え上げられた筋肉が衣服の上からでも感じられる、そんな細マッチョなイメージだった。
やっと出会えた自分以外の人。
色々この状況の打開方法をお伺いしたいところだが、今、悠太は声を押し殺していた。バクバクと煩い心臓の音が聞こえないか、不安で不安で仕方ない。
男は軽装気味ではあるが、どう考えても鎧を着ていた。西洋を舞台にした映画やゲームに出てきそうなそれを着用し、腰にはこれも定番の剣が携えられている。
そしてうまく言えないが、気配が凄い、オーラとでもいうべきか、覇気とでもいうべきか。
(やばいだろ、コレ…)
兎に角通り過ぎてくれることを願い、悠太は只々微動だにせず一切の音を立てないことだけに集中した。せっかく消し去ったと思った不安や恐怖の感情が戻っていてしまっている。落ち着け、と自分に何度も命令する。集中。物凄く集中した。
男は通り過ぎた……。
「……」
危険は去った。
と、思った。だがそれは甘い考えなのだと気づく。
男は悠太の隠れている針葉樹をガシッと掴むと、にょろりと顔を見せたのだった。
「…ぇ…ぁ、や俺…ま、、、、迷…、、、あ…ああ…」
何をどう説明するべきか、頭が回らない。呼吸も荒く、声が言葉にならないことももどかしい。今にも叫びそうにもなる。
「ふぅぐッ!!???」
しかしそれは男の手に塞がれ阻止される。
怖い、怖い、怖い怖い……
悠太は恐怖を感じ震えが止まらないが、男はそれを感じたのか、にこりと笑って反対の手で口元に人差し指をあてる。
「………」
その仕草で悠太は悟った。騒がないでと言いたいのだと。
だから、冷や汗を垂らしながらもどうにか首をこくこくと頷くような仕草を見せる。
考えが間違っていなかったのだろう、男は口を塞いでいた手を放してくれた。
そしてよくやった、とでも言いたげに少年の髪をくしゃくしゃする。
この人は多分敵ではない…悠太がそう判断した瞬間だった。
ル、ルビってこうやってつけるのか…ふむふむ…