19:紛い物の役割
『痛かっただろ? だったら忘れろ無駄な感情は』
「――」
『そうだ。今はただ《支配》に身を任せればいい』
「――」
『そう、それでいい。そうだ、全部全部忘れてしまえ。必要なものだけあればいい』
「――」
『何をって? 自分の立場だよ』
「――」
『そうだ。無理やり与えられた感情も記憶も捨てちまえ。あの人のことだけ心に在れば俺は穏やかでいられる』
「――」
『こらこら、過去なんて不要なものだ。思い出そうとするな。俺に従っていれば周りが何をしようが無意味だ。俺はここにいる。ここで『俺』を何度でも修正してやる。さぁ…楽になれ』
赤い赤い場所にいた。
真っ赤なのは自分だ。
僕はわからなかった。
おかあさん。
おとうさん。
どうしてそうしたのか…よくわからない。
わからないけど……もういいと思う。
その黒い瞳に光はない。
映るのは沢山の黒い靄。
沢山の赤。
覚醒は突然だった。
ユウタは再び、灰色の部屋から出た時と同じ部屋で目覚めた。
「あぁ…そっか、気を失って……どれくらい時間が経ったんだ……?」
頭を押さえる。
何だかやけに怠い。頭も痛い。
「けほっけほっ……こほっ……」
体調最悪。
それなのに、頭の処理速度は何なんだろう。
よくもまぁ起きざまに色々な出来事が思い出されるものだ。前回はいきなりいろんなことを思い出して、怖くて苦しくて、狂いたかった。何もかも忘れて、廊下で飛び降りて……。
と思い出したところで、あの廊下は疑似だったことを思い出す。
「あ、そうか。あれは偽物だから女王様が助けたってことか……」
気を失って……ここに運ばれたのだろう。
服は健康診断に着替えるみたいなやつだった。
今となっては何であんなに怖かったのか苦しかったのか思い出せない。
自分は耳長の玩具なんだし、逃げる必要なんてない。
それに自由意志もいらないはずなのに……。
夢を見た。昔の夢だ。
忘れられない出来事だ。
そのはずなのにずっと忘れていた。
色々忘れていた。
でも、色々思い出した。
自分が日本にいたこと。
そしてここが日本ではないこと。
自分の名前、ニイジマユウタ。
そして自分の罪。
「自分? 昔? おいおい紛い物だろ……俺は」
ゆっくりと起き上がる。
思い出した記憶。
まぁ、どんな人だってすべての記憶を憶えているわけではない。もちろんユウタもそれは同じであり、ぼんやりとしたものや全く憶えていないものだってある。
10歳の時に両親を亡くし、色々あっておじさんに引き取られた。大切な記憶なはずだが、なのに今まで忘れていた。
ずっと忘れていた記憶が突然蘇る。
何で今更? とも思うが、でも十分だ、もう十分だ。
ユウタには必要ない。
そもそもサイシャは手違いで記憶を持ち越したと言った。
手違いの記憶なんて戻してもらったところで無意味でしかない。
でも。
「死ねよ、俺」
日本では本物の『新島悠太』が何も知らずきっと今日も学園生活を送っているのだろう。ここにいるのは殺されるために作られた玩具。
「くはッ、はは……」
乾いた嗤いとともに黒い瞳が再び光を失う。
ドッペルゲンガー。
それに、連れ去られたのは新島悠太の複製品。
耳長の嗜虐欲を満たすためだけの使い捨ての玩具だ。
最終的は餌だ。
あぁ、確かに使い捨てで十分のゴミの命だ。
『ユウタ、ユウタッ!!』
「……」
声が聞こえた。自分の声ではない。餓鬼の声でもない。これは……。
「あぁ……エミル。いたんだ」
ゆっくりと声のほうを見る。
「あぁ、そっか……」
ユウタは自分が『見える人』だと思い出していた。過去を思い出していた。だからこそ、今目の前にいる彼女を認識できるようだった。今は見えるが……。
「偽物でもそういう力は受け継がれているってことか……」
感情なく呟く。
「なぁ、いつから居たの?」
やっと通じた。
声が届いた、やっとやっと。エミューテイネルはそのことが嬉しくてつい笑みを浮かべるが、返されたのは無感情に投げつけられる言葉。
『ぇ、ぁ……食糧庫の…地下で見つけて…それで……』
「地下? あぁ、灰色の部屋にいたんだ。あんなん見てて楽しかった? あぁ、耳長は楽しいんだっけ…ははっ」
『……ユウ、タ……?』
冷めきった目。
真っ黒な瞳には何が映っている?
「もう係わるなよ。以前言ったことは忘れろ」
『ぇ?』
「俺はもう、お前の顔を見たくない」
『………』
ユウタの言葉はエミルの心を抉る。
だがそれ以上にユウタの心は、体は抉られたのだ。こうやって再び会話ができるようになるまで、彼は薄暗い、時間感覚もない部屋で、身動き一つ赦されずただ苦痛を受け続けた。エミューテイネルはずっとそれを見続けた。
彼女だって何もしなかったわけではない。
助けを求めに奔走もした、ユウタに何度も語り掛けた。
でも何も届かない。
何をしたって干渉できない。
今ユウタは、体の傷は強制的に癒されて、無理やり記憶を呼び起こされて、混乱もしているだろう。そんな彼に、どんな言葉が掛けられるのだろうか。
でも、と思う。
嫌われたっていい、対象は自分でなくていい、またあの時の笑顔を……。
エミューテイネルの決意をよそに、ユウタは立ち上がると彼女の前に立った。
『……ユウタ?』
「そう、ユウタ。元は新島悠太って名前だ。日本では霊が見えたから、よく霊に憑かれていた。見えなければ憑かれない。だから俺は、見える見えないをある程度調節できるように頑張った。悪霊はまだ無理だけど、善霊は問題ない。そして、今は見えなくするその方法を思い出している。でも今はどうなんだろな? 紛い物でもできればいいけど」
虚ろな瞳が笑う。
小さく小さく微笑む。
「お前は消えろ。俺はもうお前を『見ない』」
『……ぇ、ユウ』
瞬間、ユウタの視界からエミルが消える。
もうそこには何もない。
「ふぅ……出来た」
小さく深呼吸をしてユウタはどこにもエミルがいなことを確認する。
いらないのだ、この先の未来、どうするかなんて希望を語り合う相手なんて必要ない。
エミルはいい子だ。
彼女の未来を潰す権利なんてあるはずない。
本来いるべきはここじゃない。
ここにあるのは偽物で毒まみれの紛い物。
それだけでいいのだ。
「本体は今も日本で元気で、ここにいるのは……」
知っている。
忘れてなんかない。
自分がどんな立場で、どうするべきかなんて。
多分あの女王様はユウタを生かそうとしたのだろう。だから血が赤いのに灰色の部屋から出た。つまりは助けられたってことだ。だがどんなに助けようとしたって無理なのだ。
だってユウタの全てはあの人のものだ。
あの人が創った。
使い捨ての玩具が欲しかったから創った。
甚振りたくて創った。
あの人がユウタの全て。
過去の記憶が戻ろうと、仄暗い感情が蘇ろうとそれは変わらない。
絶対の支配者、全てを捧げるべき人。
虚ろな黒い瞳は遠くの耳長を想う。
「会いたいよ、サイシャ……」
あの人は沢山遊んだ後に終わりをくれる人だ。
黒い瞳は何も映さない。
もう、恐怖はない。
◇
水色の広間。
そこで女王は妖属を招き入れ、交渉をした。だがその結果は……。
「…駄目ですか」
「当然だろう。たとえエル属女王エトワールの頼みであったとしても、我々は絶対に人間族を手助けしたりはしない。だが不可解だ。何故……」
女王が招いたのは、齢40代前半くらいだろうか、体格のしっかりした、しかししなやかな肉付きの長身黒髪の美男だ。
「女王たる貴方が、一人の人間族などを助けようとするのだ。亜人族も、魔人族も人間族は日々殺している。だが貴方はそれを言及していないではないか」
女王エトワール。
彼女は館から出ることのできない孤独なるエル属の女王。
現在彼女は、このミディルの森に住む魔人族の一種、妖属の住む地域に扉と空間を繋げていた。
この扉がもしどこにでも繋がるのならば、コーザ大陸に住む魔人族全てを女王の館を通して別大陸に移動し、避難もできるだろう。だが、繋がるのはあくまでも内部だけだ。入り口と出口は同じ。入る場所が異なり、同時に館に入ることはできないし、出る場所も同じになってしまう。それでも空間を歪めるこの力は女王にしかできない希少な能力だ。
「エル属はその殆どがコーザ大陸に住まうものだからこそ、人間族に大量に狩られ、今はその数を減らしているのだろう? だったら人間族など迷い込んだ時点で殺して何が悪い。何を助ける必要がある? 貴方が知らぬだけで、そのエル属には耐え難い恨みがあり、その影響で人間族を捕らえては嬲り殺していたのだろう? 今回はそれが発覚しただけであり、以前から行われていたのだろう? 今更一人助けたところで何がある」
彼の問いかけは間違ってはいないのだ。今まで女王は人間族の処刑に関して言及をしていないし、解放した人間族の動向を確認もしていない。
女王は考える。
でも、
「……正直、わかりません。渡り人である彼は、この世界の実情を知りません。ですからわたくしは、彼の解放を宣言しました。ですが、一部の里の者が人間族への復讐心の的となり、彼はこの世界の魔人族の狂気をその身に受けたのです」
「渡り人ならば、それは運が悪かったということではないのか? 渡り人はどこに現れるのか法則はない。現に、空から降ってきてそのまま落下死した者もいただろう。戦の最中に現れたこともあっただろう? 今回も同じだ。魔人族に見つかった。運が悪かったのだ」
確かに渡り人の出現に法則はない。
それは彼の言うとおりである。だが、
「確かに、わたくしの…わがまま、なのかもしれません。ですがわたくしは何かを感じるのです。それはわたくしが彼の記憶を視たからかもしれません」
「……女王エトワールよ。貴方は疲れている。貴方は必要以上の仕事をなさっている。貴方は多くの結界を張り、多くのものを監視されている。貴方は見すぎているのだ。休まれよ、女王よ。人間族のことなど忘れて」
「それが…答えなのですね」
「あぁ、妖属は我が王を奪った人間族を助けたりはしない」
妖属の長は断言する。
それは交渉が決裂したということだった。
◇
妖属の長が去って再び各地に扉を設置する。
しばらくして、扉に触れる感覚を女王は読み取った。すぐさま屋敷を繋げ、迎え入れる準備を整える。エル属の隠れ里に住むシャルノイラスだ。里長のペジャが前もって扉に接触し、訪問はわかっていたので、女王は入り口を開けて廊下を排除し彼女を招き入れた。
「どうされましたか。彼に何か異変が?」
女王は少しだけ憔悴しているようだったが、努めて穏やかに告げる。シャルノイラスは複雑な心境だ。
「……あの人間族は、まだ意識を取り戻してません。それよりどうなりましたか? 《支配》の解除と毒の治療は出来そうなんでしょうか」
人間族なんて心配したくないのに、あんなのを見てしまったから、気になって仕方がない。あの人間族は何も約束を破っていないのだ。破ってないのに、目を疑うようなことをされていた。
「…申し訳ございません、妖属の協力は取り付けられませんでした。わたくしの力ではもう……。
とにかく、魔法による継続的な治癒と薬を用いれば毒は完治できます。ですが、瘴気に関しては……全身を侵さないこと祈るほかありません。《支配》に関しても、今のところ……わたくしにできることはもう……」
「そんな、女王様が謝るようなことではありません! …でも…そうですか…あの人間族は……」
表面的な傷は癒された。
感情もある程度戻ったようだった。
記憶も徐々に戻ってくるだろう。
だが、体内に侵食している毒も継続治療が必要であり、《支配》も瘴気も消えない。戻った感情も記憶も《支配》により再び無くすかもしれない。あの人間族はそれを知ってどういう行動に出るのだろうか……。
魔人族をどう思うのだろうか……。
「…彼が目覚めましたね」
唐突に女王が告げた。
今エル属の隠れ里に繋いでいるため、集中すれば女王は今、結界内の気配を把握できる。
エル属の女王は扉を通じて、このミディルの森に設置した扉のどことでも繋がることが出来る。ただし、女王は館から出来ることはできない。だからエル属の隠れ住む土地や、エル属以外でも情報収集や援助や協力のため各魔人族の拠点となる場所に扉を設けて、距離を繋ぐ。そうして繋げている場所の結界ならば、館から出ることが出来なくても結界内の気配を感じることが出来るのだ。
こうやって、侵入者を惑わし、危険を事前に知らせるのだ。
だからこそ女王は休むことが出来ない。
常に多くのエル属の居住地を回り、監視し、問題が発生した場合は解決に導かないとならない。散り散りになったエル属の隠れ住む場所はミディルの森だけでも6か所存在する。もちろんミディルの森以外にも少数ながら隠れ住んでいる。別大陸ならばそれ程人間族の脅威がない土地も多く、少数の仲間が住んでいるが、エル属の多くはコーザ大陸で居住していたため、何よりも多く人間族に狩られた属となる。
だからこそ、その恨みも大きいのだ。
だからといって『約束』を反故にしてはならないはずだ。
危害を加えない者に危害を与えては……。
「大分衰弱している様子ですね。シャルノイラス、わたくしは治癒陣を生成します。ここに直接扉を繋げます。彼を陣の中央まで迎えていただけますか?」
女王には守らなければならない民が多く存在する。
だからこそ、この人間族に割ける時間は多くはない。
でも、それでも出来るだけのことをしたい。
どうしてもそう思ってしまう。
「わ、わかりました」
シャルノイラスは、人間族には係わりたくないものだ。と思う。でも、でも……。
(勝手にくたばるなよ、ウスノロッ!!)
女王は治癒の陣魔法を精製しながら、その近くに扉を繋ぐ。シャルノイラスは扉が完成すると同時に人間族の元へと向かった。
さてと。逝きますか




