⑧
2007年5月上旬
無事に単位を取れることも分かったし、あとは卒業を待つだけ。ようやくすべてが終わる。この町に来てからというもの、こんなに心が疲れることばかり起こるなんて想像してなかった。でもそれも終わる。
「大学の願書は?」ママは言った。
「自分でちゃんとやるからママ」
「そう?旅行にはいつ行くって言った?帰ってくるのは?」ママは寝室のクローゼットを漁って、私の卒業式の日に着ていく服を選んでいた。
「卒業式の次の日。帰ってくるのは…。分からない。1週間かもしれないし、1か月かもしれない。お金が底をついたら」私はベッドに腰掛けて、ママが服の山を作るのを見ていた。
「リサ、そんな曖昧でいいの?」
「具体的なことは決めないって決めたの」と足を組んで見せる。「のんびりしてていいでしょ?」
「そうだけど…。6月には帰ってくるでしょ?大学に受かったら引っ越しの準備とかもしなくちゃいけないし。6月中にマークのお母さんに会いに行く約束もしてるのよ?あなたも一緒に行かなきゃ、お母さんに怒られちゃうわ」
「大丈夫」私は立ちあがって、あちこちに飛んでいったママの服を畳んだ。
「あなたもうちょっとこだわりないの?」ママは口を尖らせた。
「ない」ぶっきら棒に返す。ないから終わらせるの。
「ねぇ、このドレスどうかしら?」ママはパッと話を変えて、薄いオレンジ色のドレスを体に当てた。「こっちの緑の方がいい?」と結婚式のあとに着ていたドレスを指さす。
「ブレンダ、リサの卒業式なんだから張り切りすぎちゃダメだよ」寝室の入り口にジゼルを抱っこしたマークが現れた。
「わかってるわよ」ママは不貞腐れたように言った。「ねぇマーク、どっちがいいと思う?」
私は畳んだ服をベッドに置いて、マークからジゼルを引き取った。そのまま寝室を出る。
「君ならどっちも似合うよ」マークの声を聞きながら、私はすっかりジゼル用に変わった向かいの部屋に入った。
窓際まで行って、ジゼルに外の景色を見せる。最近の彼女はこうして外を見るのに夢中になっていた。ママ譲りの青い目を輝かせ、小さな手を伸ばして空を掴もうとする。
ジゼルはしばらく手をばたつかせたあと、機嫌を悪くしてグズりだした。私は窓を少し開けて、ゆったりと体を揺らしながら、ママがよく歌っている子守唄を歌った。今日は暖かくて、たまに覗く日差しのおかげで心地よい気温になってる。そのおかげがジゼルはすぐウトウトし始めた。
彼女がお昼寝に入るまで、私はなにも考えず部屋の中を歩き回った。こうしてボーっとしているのが何より楽だった。まるで夢も見ずに寝ている気分。
やがてジゼルは寝息を立て始めた。起こさないようにベビーベッドに寝かせて、頭を撫でる。天使のような寝顔。彼女がこの家の太陽であり光。
「いい子でね。ジゼル」私は静かに囁いて、扉を開けたまま部屋を出た。
「ジゼル寝ちゃった」向かいの部屋に戻って服を片付けているママに言った。
「あら、よかった。ちょうどお昼寝の時間だったから助かったわ」ママは緑色のドレスをクローゼットの扉にかけた。あれを着ていくみたい。
「あなたも旅行の準備、早めにしておきなさいね」
「うん」
私はさっそく自分の部屋に行って準備を始めた。クローゼットから大きめのリュックを取り出して荷物を詰める。数日分の着替えに、旅行用のバスグッズ、タオル、お気に入りだった小説2冊、スケッチブックと鉛筆。形だけでも行くことをアピールしなくちゃ。それに沈むなら錘にもなる。
2007年5月中旬
卒業式当日、マークの運転する車で学校に行った。学校では黒いガウンと四角い帽子をかぶった生徒たちが学校生活の終わりを惜しんでいる。
式は時間通りに始まり、学長の長い話を聞き終えたあと生徒を代表してコニーがスピーチをした。彼女は素晴らしい高校生活が送れたこと、いい仲間に出会えたことに感謝して、これから始まる新しい生活に希望を持って歩んで行きますと雄弁した。
そのあと1人1人卒業証書を貰った。私もさっさと貰って、自分の席に戻ろうとしたとき、誰かに足を引っかけられそうになった。何とか転ばずにいたけど、周りからクスクス笑いが聞こえてくる。こんな惨めな思いをするのも今日で終わり。
顔を上げるとアレックスと目が合った。彼女も無事に卒業できてよかった。この学校で唯一できた友達。酷い別れ方だったけど一瞬でも友達になれてうれしかった。彼女は大学に行きたいと言っていたから、これから幸せになってほしいな。
感謝の気持ちを持って見つめ返すと、アレックスは驚いた顔をして目を逸らした。
式を終えたあとママたちと合流した。ママは結局、緑のドレスをやめてオレンジの方を着ていた。そして私に何度もパーティーに出なくていいのかって聞いてきた。私はそのたびに行かないと答える。式が終わればすぐ帰るつもりで、いつものTシャツにジーンズだったし、出ても楽しくないに決まってる。
マークが食事に行こうと誘ってくれたから、私は笑顔でオーケーした。最後くらい笑顔でいなくちゃ。これが最後の晩餐になる。
マークの車に向かっていると、誰かに名前を呼ばれた気がした。振り向いてみると、人ごみの中からターナー先生が現れた。彼は結婚式の時と同じ青みの強い黒のスーツで、髪をきっちりと固めていた。なんだか別人に見える。
「卒業おめでとうリサ」
「ありがとうございます」ママたちの方を見ると、私たちに気付かずに行ってしまっていた。
「ごめんね、呼び止めて」先生もママたちの方を見ていた。
「いいえ」
「最後に別れの挨拶くらいしようと思って」
「あぁ…」最後、それがどういう意味なのか彼と私で違ってくる。
「大学に行くの?」
「えぇ、まあ」
「そうか…」ターナー先生の表情は暗くて、眉間にシワが寄っていた。なんでそんな顔するの?また私から何か引き出そう探っている。「またどこかで会えたらいいね」彼は小さな声で言った。
「はい」私は作り笑顔で答える。別れなのは嘘じゃないから先生をまっすぐ見ることができた。
彼は前より疲労感がなくなっていたけど、どこか重たい色が表情に隠れていた。その色が彼の緑とグレーの混ざった瞳と絡み合って、私を引き寄せた。誰も見たことがない新しい色を見つけて、それを独り占めするみたいに、私は彼から目が離せなくなった。
「…今まで、ありがとうございました」私は絞り出すように言った。離れなくちゃ。
「あぁ。それじゃ」
ターナー先生がさっと手を差し出してきたから、お別れの握手だと思って私はその手を握った。私の頼りない手が包まれる。彼の大きな手はいつもあたたかかった。
軽く握って離すつもりだったのになぜか急に名残惜しさが湧いてきた。私が先生の手を見つめていると、彼は私の手を優しく引き寄せた。また袖を捲られるんじゃないかと思ったけど、違った。
ターナー先生は親指で私の手の甲から中指の出っ張った関節まですっと優しく一直線になぞった。まるで何かを刻み込むかのように、大切なものを撫でるかのように。
私の背中にも同じようになぞられた感覚が走る。恐怖じゃなくて、こそばゆくて筋肉が体の中心にギュッと集まるような不思議な感覚。
先生の目にはまだ強く吸引力が宿っていて、何かを言おうとしていた。けどそれが何だろうと聞きたくない。それは怖い。私は手を離した。
「さようなら」とつぶやいて、引きちぎるように視線をそらす。
歩き出そうとすると、「ねぇ」と呼ばれた。
私は背を向けたまま固まる。
「気を付けて」
<終わりよ!全部!もうたくさん!>
濃霧の中から聞こえる声を無視して、私は振り返った。謝罪と感謝を込めてターナー先生に微笑んで見せる。うまく行かなくて変に見えたかもしれないけど、それでも構わずに私は逃げた。
夕食はなるべく笑顔を絶やさずに食べて、家に帰ると、私の部屋に移動してきた古いパソコンを立ち上げてた。ホーム画面になるのを待つ間にシャワーを済ませて、部屋に戻ろうとするとリビングでママに呼び止められた。
「リサ、本当に明日出発するの?もう少しあとでいいんじゃない?」
「明日って決めたのママ。私には時間がないんだから」
「そんなこと言わないで」ママがここまで引き留めるなんて驚き。もしかしたら何かを感じ取っているのかも。
「まぁいいじゃないかブレンダ。リサ、楽しんでおいで」ママの隣にいたマークが言った。
「ありがとうマーク」迷子になったのに、彼は今回の旅行をすんなりとオーケーしてくれた。どういう風の吹きまわし?
「そうね…。ジゼルにハグして。明日は早いんでしょ?」ママは抱っこしていたジゼルを私に渡した。
「大丈夫よ。自由なのはママに似たんだから」私は寝ているジゼルを抱きしめる。「バイバイ、ジゼル」
「預かるよ」マークにジゼルを渡すと彼らは2階へ上がっていった。
「ママ」私はママと向き合った。「今までありがとう。おかげで私…」ママには何もしてあげられなかった。
「なによ改まって。やめてちょうだい」ママは顔をクシャっとさせた。
「うん。でも、」とうつむいて最期の言葉を探していると、マークが降りてきて、手に持っていた紙袋を差し出してきた。
「リサ。これ卒業祝いだよ」
「なに?」私はその紙袋をみつめた。「お祝いなんていいのに」
「いいから」マークは私の手にそれを押し付けた。
中を覗いて見ると箱が入っていて、そこに携帯電話会社のロゴがプリントされていた。
「マーク。自分で買うって言ったのに」私は呆れた。マークが旅行をオーケーしたのはこれがあったからね。
「持って行きなよ、ブレンダも安心する」
「そうよリサ。備えあれば憂いなしよ」とママは同意した。
「…ありがとう2人とも」私はため息を飲み込んで言った。
「私たちの番号は入れてあるからまめに電話するのよ?ちゃんと帰ってくる日を教えてね」ママは早口で言うと私を抱きしめた。「あなたが立派に育ってくれて嬉しいわ。卒業おめでとう。もう大人なんだからあなたの好きにしなさい。応援するわ」
「ありがとうママ。本当に、大好きよ」ママを抱きしめ返した。涙をこらえてマークにもハグをした。
「さ、もうお休み」
「うん。おやすみなさい」
私は自分の部屋に引き上げて、パソコンのメール画面を開いた。パパからもメールが来てる。
{リサ、卒業おめでとう}
パパらしい短いメール。
{ありがとうパパ。会いに行けなくてごめんなさい。ずっと大好きだよ}
私らしくないメール。本当は直接言えたらいいんだけど、でも会ったら何も言えなくなる。送信ボタンを押した。
わかってる。パパもママもマークも私のことを大事に想ってくれていることは。でもそれだけじゃダメだった。大事な人がいてもこの身は投げ出すことができる。いとも簡単に。それが私だから。
苦しいのも辛いのも誰かのせいにすることはできるけれど、自分ではどうしようもないことだってある。言葉では言い表せない孤独。常にナイフが心臓を突き刺そうとしているような緊張と圧迫感。なにより逃げられない自分という存在。
誰かのためじゃない。自分のためにこの身を捨てる。
ベッドに寝転がっても、一睡もできなかった。やっと自分と別れることができる。私の終わり。袖を捲って両腕を見た。茶色くなった傷跡がいくつもある。死ぬと決めてしまうと自分を傷つけることはなくなった。もう苦しまなくていいと安心感が湧いていたから。
ベッドから起き上がってママたちに手紙を書いた。
{ママ、マーク、ジゼルへ。ごめんなさい。今までありがとう。ずっと愛してる}
手紙を半分に折って、本棚にある時計の下に滑り込ませた。いつかこの手紙を見つけてくれますように。そのあと自分の部屋を綺麗に片づけた。今では古い壁紙もすっかり見慣れて、埃っぽさもなくなった部屋の中をぐるりと見回す。私の小さな研究室。小さな秘密基地。缶詰に宝物を詰め込んだみたいな部屋。もう帰ってくることはない。
最後に今まで貯めてきたお金を時計の隣に置いた。そしてもう1枚手紙を書いた。
{ママへ。ごめんなさい。朝一番に家を出たくて。バス停まで歩きます。行ってきます}
なんてことない文章にした。本当は車で駅まで送ってもらう予定だったんだけど、1人で出発したかった。
空が白み始めると、私はもらった携帯電話をリュックに入れて背負い、手紙をリビングにテーブルに置いて静かに家を出た。家の前に停まっている小さな愛車に別れを告げて、北へと歩き出す。この日のために地道に下調べを重ねてきた。地図に穴が開くほど見ていたから、迷わずに行けるはず。
私が森を彷徨って迷子になったとき、偶然海で見つけたあの淡いブルーの古い家の向こうに、高い岩場があるのが見えたから、そこへ行くつもりだった。岩場というより崖。
自らの命を絶つ方法はいくらでもある。私が選んだのは海に沈むこと。私は泳げないし、海ならどこか遠くへ運んでくれるはず。しかも苦しむ。それでいい。最期に苦しむだけ苦しめばいい。
もう1人の私は静かだった。生まれたてのジゼルみたいに、神聖で爽やかな気持ちで歩みを進めると、雲にかすんで朝日が顔を出し始めた。
下見した通りに進み、やがて道を外れて森の中へ入った。このまま真っすぐ進めば崖に出れるはず。
薄明るい森の中を突き進む。朝の色味と森の匂いが幻想的。歩いていると何度かつまずいたけど痛くなかった。
段々と森の匂いに潮の匂いが混ざり始める。焦る気持ちを抑えながら進んでいくと、開けた場所に出た。目的の崖の上。下の砂浜の方にはあの古い家が見える。なんだ。私だってやればできるじゃん。
雲の隙間から朝日が差し込んで海をキラキラと輝かせた。数分その景色を見つめてからもう一段高くなっている岩の上に登る。鼓動が少しずつ速くなってきた。
岩のギリギリに立って深呼吸をすると、肺一杯に潮と朝の香りが広がった。あとは飛ぶだけ。下を覗くと岩肌に波がぶつかり白い飛沫をあげている。いつか見た夢と同じだ。
終わらせるって決めたんだから。上手く行くか不安だけど、誰もこんな時間に助けになんて来ない。沖の方へ流されるか、もしくは海底に押しつぶされるかもしれない。だから行ける。
目を閉じて、お馴染みになった黒い霧に身を任せた。頭の中でもう1人の私が言葉にならない叫びをあげる。もう誰にも傷つけられず、傷つけることもない。迷惑をかけることもない。苦しみたくない。私にはなにもない。ただ自分から解放されたい。
もういいよ。好きにしてよ。
最期にいろんな人の顔を思い浮かべて1人1人にさよならした。目を開けて半歩前に進む。呼吸が震えてきて、鼻の奥が痛い。
<大丈夫>
大丈夫よ。
片足を宙に投げ出して、体重を前にかけた。もう片方の足で岩を蹴って飛び出す。
全身に風を感じ、重力に任せて落ちていく。一瞬のような、永遠のような時間、私はあたたかい朝の光に包まれたあと、海面に強くたたきつけられた。服とリュックと髪に海水が染み込み始める。
どこかで誰かが私を呼んでいる気がした。お願いだから、止めないで、自由にさせて。
痛さと冷たさを肌に感じ始めると、もう1人の私が波に攫われていくのが見えた。水圧で一気に肺の空気が抜けていく。吐き出した空気がたくさんの泡となって上へと昇って行った。なんて綺麗なの…。
体は自然と酸素を求め海上へもがくけれど、波にもまれて抑えつけられる。肺が空っぽになって苦しい。
やがて我慢できなくなって喘ぐと、大量の海水が胃と肺の奥へ入り込んだ。
私は浮き沈みを繰り返しむせる。
そしてまた海水を飲み込む。
気道が燃えて耳が痛い。苦しい。顔の周りに髪が張り付いてうっとおしい。結んでくればよかった。そんなことを思いながら、私は海の底深く私は落ちていく。苦しさと引き換えに、黒い霧が私からゆっくりと離れて行くのを感じた。
やっと自由になれる。私の体から、私の人生から。
ささやかな喜びを噛み締めると、意識が遠のいて、私は永遠の中へ沈んでいった。