③
2006年12月上旬
12月に入ると一気にクリスマスムードになった。聞いていた通りこの町はそこまで極寒にはならず、雪もあまり降らなかった。
いつものように現代社会の授業を終えると、オリヴィアが振り返って話しかけてきた。
「ねぇリサ。次の休みにみんなでクリスマスのプレゼントを買いに行くんだけど、あなたもどう?」
「え?」私は教科書をリュックに入れたところで動きを止めた。
「繁華街まで行くの。どうする?」オリヴィアは長い髪を払った。
プレゼントはひとりで買いに行こうかと考えていたけど迷子になるのがオチだし、ママやマークにも案内を頼めない。
「うん。行く」と答えてリュックのファスナーを閉めた。
「よかった。あたしの彼氏と、他の友達も行くから。大勢の方がいいでしょ?」
「そうだね」私は頷いた。「あ、アレックスも誘っていい?」
オリヴィアは驚いて目を丸くした。「アレックス?」
「うん」どうしたんだろう?
「アレックスは来ない」彼女は鼻で笑って断言した。
どうしてなのか知りたかったけど、オリヴィアはプレゼントを買いに行く日のことをしゃべりだして聞けなかった。
翌日、念のため私はお昼休みにカフェテリアでアレックスに尋ねてみた。
「ねぇ、アレックス。次の休みにクリスマスのプレゼントを買いに行くんだけど、」この2か月ちょっとでだいぶ彼女とも打ち解けて、自分から進んで話せるようになった。
「へぇ!」アレックスは飲んでいた飲み物をテーブルに置いて笑顔になった。
「昨日、オリヴィアに誘われたの。あなたも一緒にどうかなって」と聞くと、アレックスは急に顔を曇らせた。
「そう…。悪いけど私はいいや。あなたは楽しんできて」声は沈んでいた。
「うん…。わかった」
オリヴィアの言った通りだった。転入してから薄々感じてはいたけれど、今のアレックスの反応を見ると、やっぱり彼女とオリヴィアはあんまり仲が良くないんだ。何かあったのかな?ケンカでもしてる?
そこから何となく気まずい雰囲気でランチを終えた。アレックスは普通に振る舞っていたけど、どこか元気が無いように見えた。
次の休みはすぐに来た。朝、ママに遊びに行ってくると言うと「行ってきなさい!」と喜んでいた。私がずっと家に籠って遊びに行かないのを気にしてたみたい。
いつものようにTシャツとジーンズを着て、ママから貰った黒いバッグを持って車に乗るとオリヴィアの家に向かった。
「やっと来たわねリサ」オリヴィアが言った。
「ごめんなさい」私は集合時間ギリギリにオリヴィアの家に着いた。
ここに来るのは初めてだから早めに家を出たんだけど、道を間違えて私が一番最後に到着してしまった。大きな家だからわかりやすいのに…。
今日一緒に行くメンバーは、オリヴィアとその彼氏。オリヴィアと仲のいいジュリアという女の子とその彼氏、あの訛りの強い男の子だ。そして美術と現代社会の授業で一緒のコニーという女の子もいた。みんな私のことをジロジロと見ている。
「行きましょ」オリヴィアは彼氏が運転する車の助手席に座った。車の台数を減らすため私とコニーがその後ろに乗り、ジュリアと彼氏は別の車に乗ってついてくることになった。
「街に行くのは初めて?」車が走り出してすぐ、隣にいるコニーが話しかけてくれた。
「うん」私はコニーの薄い緑の目を見た。彼女は私と同じくらいの身長で、目の下や鼻にそばかすが広がっている。私はそれが星空みたいで可愛いと思ってるけど、本人は気にしているみたい。そのせいかいつも重たい雰囲気を纏っていた。声も小さくて控えめな子だったから私は勝手に親近感を抱いてた。
「学校にはもう慣れた?」コニーは聞いた。
「うん」私たちが短い会話を交わしていると、オリヴィアが振り向いた。
「2人とも、あたしたちに気を使わずおしゃべりしていいから」とオリヴィアは運転している彼氏の太ももに手を置いた。
「ありがと、オリヴィア」コニーが返事をして、私に向かって小さく微笑んだ。それがやれやれまったくって感じだったから、私もコニーに微笑み返した。
道中で軽く昼食を食べて、さらに車を走らせると街の中心部に着いた。みんなで色々なお店を見て回る。オリヴィアは高そうなバッグを彼氏にねだり、コニーは両親や友達に渡すと言って、お菓子を作るための材料を買っていた。
私もママとマークにおそろいの手袋を買って、オリヴィアたちにも渡せるようにとお菓子を選んだ。そしてアレックスへのプレゼントは、彼女の瞳の色に合いそうな青い蝶のネックレスにした。これを見つけた瞬間、パッと彼女の顔が思い浮かんだから。
おもちゃ屋の前を通り過ぎた時、小さなテディベアが目に留まった。私がそれを見つめてしばらく悩んでいると、コニーが気づいて話しかけてきた。
「可愛いね、そのテディベア。誰かにあげるの?」
「うん。妹か弟が生まれる予定なんだけど、2月の末だからまだ早いかなって」私は少し肩をすくめた。
「そうなんだ。あなたの親が再婚したのは聞いてたけど、子供が生まれるんだね。良かったじゃない?」コニーは首を傾げる。「家族が増えるんだから。私は一人っ子だからうらやましいなぁ。買ってあげたら?」
「そうだね」私はテディベアを手に取った。家族が増えるのは良いことなんだもん。何よりママが喜ぶ。コニーの後押しもあって、私はそのテディベアを買った。
「さっきのネックレスは誰に?」買い物を終えてみんなで車に戻っていると、隣を歩いていたコニーが聞いた。
「アレックスだよ」と答えると、コニーは眉をしかめた。
「ホントに?」
「うん」もしかしてコニーもアレックスと仲良くないの?
「彼女とは仲良くしない方がいいよ」コニーは首を振る。
「どうして?」
「その…。なんでもない。ただ…」彼女は鼻をすすった。「ほら!私たち気が合うじゃない?似た者同士って言うか、リサと仲良くできたら嬉しいなって。あなたいつもあの子と一緒にいるから」
「あぁ…」なんだかはぐらかされた気がする。確かにコニーとは気が合うし仲良くしたいけど、それならコニーとアレックスも仲良くできるんじゃない?コニーみたいな子がオリヴィアと仲がいいのも気になるけど…。
「うん…。そうだね。私も仲良くできたらいいな」私は微笑んだ。友達が増えるのは良いことなのに、どこか歯車がかみ合ってない感じがする。
「よかった。嬉しい」コニーは安堵したように微笑んだ。
来た時と同じ場所に座り、時間をかけて町に戻った。オリヴィアの家に到着してそれぞれの車に荷物を乗せていると、オリヴィアが私のところに来た。
「リサ」
「なに?」
「今日はどうだった?コニーとずっと一緒にいたみたいだけど」
「うん、楽しかったよ。誘ってくれてありがとう」
「そう」オリヴィアは腕を組んだ。「それなら、これからはあたしたちと一緒にいれば?アレックスなんかと一緒にいてもつまらないでしょ?」
まただ。なんでそんなこと言うの?「アレックスとケンカでもしてるの?」と思い切って聞いてみた。
オリヴィアはフンと鼻を鳴らしてコニーの方を見た。コニーはジュリアと話をしてる。
「別に。あなたは知らない方がいい」
なにそれ?と聞き返そうとしたけど、オリヴィアは「また学校で」と言って彼氏と一緒に家の中へ入ってしまった。
意味が分からない。どういうこと?
煮え切らないまま、私はコニーたちに別れの挨拶をしてから自分の車に乗り家まで運転した。けれど彼女たちの間に何があったのか考えていたら、また道を間違えてしまい帰りが少し遅くなった。
休み明け、美術の授業が終わって廊下を歩いているとコニーが話しかけてきた。
「さっきのあなたの絵、すごくよかった」コニーは褒めてくれた。
「そうかな?」
今日の美術は教室にあるものをスケッチするという内容だった。スケッチのために教室内を好きに移動できて、他の子は机や椅子、胸像や小道具なんかを描いていた。私も席を移動してスケッチをしているコニーを描いた。
「私を描いてくれてありがとう」コニーは少し照れながら言った。
「こちらこそ、モデルになってくれてありがとう」私たちは一緒に歩きながらカフェテリアに向かった。
階段を一番下まで降りると、アレックスと鉢合った。
「リサ!」アレックスは私の顔を見たあと、隣にいる人物を見て表情を固めた。
私は不思議に思いながらもコニーを見た。彼女の方も同じように顔を強張らせている。
「あ…。ハイ。コニー」アレックスはぎこちなく挨拶した。
「じゃあリサ、現代社会でね」コニーはアレックスを無視して、冷たい声で私に言うと、1人でカフェテリアに行ってしまった。
「あ…」私は戸惑った。「大丈夫、アレックス?」と尋ねる。アレックスの瞳は暗く、沈んだ表情をしていた。
「うん。なんでもないよ。行こう」彼女は作り笑顔で答えた。
一瞬であんな張り詰めた空気になるなんて。そんなに酷いことがあったのかな?聞いてみたいけれど、アレックスを傷つける気がして怖かった。
カフェテリアに入ってテーブルにつくと、私はアレックスにバレないようコニーを探した。彼女はオリヴィアたちがいる席にいて、向こうもこっちを見て何やらヒソヒソと話してる。
「お買い物はどうだった?」アレックスが言った。
私はアレックスに注意を戻す。彼女はいつも通りに話しているけど、さっきの出来事を気にしてるみたい。
「色々買えたよ」アレックスにあのネックレスを渡すのが楽しみ。きっと喜んでくれるはず。
「そう。よかったね」
「あなたは週末どうだった?」私は尋ねた。
「私は友達と出かけてたの。遠くに住んでる友達」アレックスは思い返して少しだけ笑った。
「へぇ」よっぽど仲の良い友達なんだろうな。
そこからお互いに身の入ってない会話がいくつか続いた。
「そういえば、」アレックスは飲み物に挿してあるストローを上げたり下げたりしながら言った。「今月から補習が数学に変わったんだけど、」
「うん」私はアレックスの表情を観察した。
「担当するはずの先生が急に辞めちゃったの。なにか事情があったみたい。それで代わりにターナー先生っていう先生が入ってね」
「…へぇ」不意にターナー先生の名前が出てきたから、私は驚いて返事をするのが遅れた。「それで?」と慌てて何食わぬ顔を繕う。
「そのターナー先生ってすっごく素っ気ないの。なんだか生徒を1歩引いて見てるっていうか。他の先生と比べると親しみが全然ないんだよね。きっと冷静で頭がいいからそうしてるんだと思う。でも教え方は抜群に上手いの。去年、彼の数学を取ったことがあるんだけど、彼のおかげで成績が上がったんだ。
今やってる補習は辞めちゃった先生が作ったプリントをやるだけで、ターナー先生のいつもの授業とはやり方が違うんだけど、それでも解らないところがあればすごく解りやすく教えてくれる」
「そうなんだ」私は彼の授業がどんなものか気になった。
「彼のことを冷たいだとか、不愛想だとか、嫌いだって言ってる子もいるけど、影のある雰囲気だから一部の女子には人気なの。背が高くて体格もよくて、よく見ると結構かっこいいし。結婚とかしてるのかな?」
「さぁ?」私はアレックスから目を逸らして、コニーのいる場所を見た。彼女もこっちを見てる。
「あ、私は別にターナー先生に興味ないんだけどね。彼もまったく生徒を相手にしてないし。まぁ、教師なら当たり前だけど。きっと彼女か奥さんがいるんだと思う」アレックスは早口でまくし立てた。
私はアレックスに視線を戻す。「そうだね」
ターナー先生についてはマークの友達ということしか知らない。奥さんや彼女がいたっておかしくはないはず。でも結婚式の時は1人で来ていたし、結婚指環もしてなかったはず。つけないタイプなのかも。
「リサは数学取ってないんだよね?」アレックスはイスに深く凭れた。
「うん。一切取ってない」私はテーブルに肘をついて前のめりになった。
「嫌いなの?」彼女は手を伸ばして飲み物を取った。
「うん。必要な単位は前の学校で取ったから、もういいかなって」
「へぇ~。頭がいいんだね」と飲み物をひとくち飲む。
「え、全然!嫌いだから最初にたくさん取っただけ」慌てて身を起こして否定した。
「そうなの?じゃあ今日の補習、見学しに来ない?ターナー先生の授業なら数学が好きになれるかもよ?私が頼んでみる」今度はアレックスが背筋をピンと伸ばして前のめりになった。
「いいよ。そんなの」
「大丈夫だって!補習なんだから、リサがいても平気だよ」さっきと打って変わって、アレックスは表情を明るくしてどんどん乗り気になっていった。
私は止めるために仕方なく、ターナー先生とは親の結婚式で知り合って、ちょっとした知り合いだから気まずいと説明した。
「え?知り合いだったの?じゃあいいじゃん!」アレックスはパっと顔を輝かせた。諦めてくれるかと思ったけど、逆だったみたい。
「いやでも…」このままだと乗せられてしまうから、私は話を変えることにした。「それより、アレックスの方が頭が良さそうなのに、どうして補習を受けてるの?」
前からずっと気になってはいたものの、この質問はするべきじゃなかった。アレックスが答えにくそうに顔をゆがめてしまったから。
「卒業するのに必要な単位が足りないから」それでも彼女は説明してくれた。「補習をして、テストに合格すれば貰えるの。私、一時期学校を休んでいたことがあって」
「あぁ…。そうなんだ。病気とか?」気まずい空気に戻ってしまって、私は戸惑った。「ごめんなさい。言いたくなければ、」
「いいの。病気…みたいなものだったし」アレックスは悲しそうに微笑んだ。そして何事もなかったように明るくおしゃべりを続ける。
私は罪悪感でいっぱいになりながらアレックスの話を聞いた。
お昼休みが終わる前に私はカフェテリアを出て体育館へ向かった。アレックスとコニー、それにオリヴィア。よくわからないけどこの3人に何かがあった。けれどそれを聞く権利は私にない。アレックスに失礼なことを聞いちゃったな…。
暗い気持ちで体育を受けたあと、現代社会の教室に行って席に着くとすぐにオリヴィアが話しかけてきた。
「アレックスは何か言ってた?」
「え?」急にそんなこと聞かれても…。
「昼休みのとき見てたの。あなたとアレックスとコニーが一緒にいるところ。あのあとアレックスは何か言ってなかったかって聞いてるの」オリヴィアは足を組んだ。
「何も言ってなかったけど…。なんなの?」オリヴィアの高慢で鼻にかかった聞き方に、私はイラついて強めに言い返した。何かあったのか知らないけど、アレックスを貶すような言い方はしてほしくない。
オリヴィアは一番前の席に座っているコニーを見た。コニーはまっすぐ前を見ていてこっちに気付いてない。
「アレックスとコニーは特に仲が悪いの」オリヴィアは声を潜めて私に言った。「ま、事情を知らないのはあなたくらいだけど」と皮肉る。
だから何なのそれ?オリヴィアの見下した態度にますます腹が立ってきた。ここにも、もちろんどこへ行っても彼女のような意地悪な子はいる。落ち着いてリサ。
「そうだね」私も皮肉を込めて言い返した。
オリヴィアは私の返しが気に入らなかったようで、フンと鼻を鳴らして髪を払った。「アレックスには気を付けることね」
転校初日にも言われた。まったく意味が解らない。アレックスと一緒にいて何か起こるとは思えないのに。
「どういう意味なの?具体的に言って」私は勇気を振り絞って聞いた。オリヴィアの言ったことは気にしないって決めていたけど、これじゃ何もできない。
「今度教えてあげる」先生が教室に入ってきて来てオリヴィアは前を向いた。
アレックスに何があるって言うの?誤解しているなら失礼じゃない?彼女はいい子なのに。
モヤモヤしながら授業が終わると、オリヴィアはさっと立ち上がってコニーの元へ行ってしまった。私は彼女たちを見ながら教室を出る。今度っていつよ、とそんなことにまで腹を立てながら帰ろうと廊下を歩いていると、すぐアレックスに捕まった。
「リサ!」アレックスはニコニコしていた。
彼女がお昼休みのときより元気になっているようで私は安心した。「どうしたの?」
「どうしたの?じゃないよ!補習の見学に行くんでしょ?」
しまった。すっかり忘れてた。
「ほら、行こう?」とアレックス私と腕を組む。
私はヒヤッとした。自分の腕を掴むことは少なくなったとはいえ、何か気付かれてしまうんじゃないかと思った。
「え、行かないよ」と顔を逸らして言う。
「行こうよ。今日だけ。ね?」アレックスはとびきり可愛い顔で首を傾げた。
「うーん…」アレックスに失礼なこと聞いちゃったし、元気のない彼女を思い出すと心苦しく感じる。「じゃあ…。今日だけね」と降参する。お詫びに付き合うことにした。それにこれだけ頼まれたら断れない。
「やった!じゃあ行こう」彼女はニコッと笑顔になった。
私はアレックスに連れられて補習の教室に向かった。アレックスが先に教室の中に入り、一番前にある教師用のデスクに座っていたターナー先生のところへ飛んで行った。
「先生!今日、私の友達を見学させたいんですけど、いいですか?」
ターナー先生はデスクから顔を上げてアレックスを見た。結婚式の時や、私の転校初日の時とは違って、固く冷たい表情をしてる。アレックスがお昼休みに言ってた素っ気ないとか、無愛想って言うのは本当だったみたい。私はそんな印象を持たなかったんだけど、もしかして仕事の時は別なのかも。今日のターナー先生は黒のセーターに緑がかったジーンズを履いてる。
「なに?」声が低くてハッキリしないけど、たぶん彼はそう言ったと思う。
アレックスがもう一度説明して私のことを指さした。
先生は教室の壁に張り付いて固まっている私を見つけると、少し目を見張ってから椅子に座り直した。そしてまた低い声でアレックスと話す。
数秒後、彼女は私のところへ戻って来た。「いいって」
「あ、そう」心の片隅でダメだと言ってほしい気持ちがあったから、私はちょっとガッカリした。
補習の授業を受けているのは3人で、アレックスの他に男の子が2人。全員一番前の席で、1席ずつ間を開けて座っていた。私は真ん中の列に座っているアレックスの2つ後ろの席に座ることにした。こんなに人数の少ない授業を受けるのは初めてで緊張する。
ターナー先生は持っていたファイルの中からプリントを取り出して全員に配った。
「前回教えたことの復習だ。分からなければ教科書を見てもいい。いつものように、終わったら呼んでくれ。採点をして終了だ」と言うと、彼はデスクに戻った。椅子に座ると大きく首を回し、ひと息ついてから教科書を開いて何かを書き始める。表情は依然として冷たいままで、だいぶ疲れているように見えた。
そういえばアレックスが「数学の先生は2人しかいないの。そのうちの1人が急に辞めちゃったから、新しい先生が来るまで数学の授業は全部ターナー先生が担当してるんだって」と言ってた。それに加えて補習もやってるから忙しそう。
私はプリントに目を落とした。うっ…。
先生が前に立って授業するものだと思ってたから当てられる心配はなくなったけど、もちろん私は前回の授業に参加してないし、この数式を習ったのは結構前でうろ覚え。しかも教科書も持ってない。先生を呼んで教科書を借りようかな。でも私は見学の身だからやめておこう。質問もしない方がいいな。他の3人が優先。仕方なく、記憶を手繰り寄せながら解いていった。
20分ほど経って頭が痛くなってきたころ、アレックスの右側に座っていた男の子が先生を呼んで採点を始めた。採点が終わると、その男の子は荷物をまとめて席を立った。もう終わったの?私は焦りながら自分のプリントを見た。まだ半分しか進んでない。
男の子が教室を出て行ったとき、アレックスが先生を呼んだ。彼女も終わったのかと思ったけど、質問をしただけだった。
ターナー先生はアレックスの質問に答えると、彼女の左側に座っているもう1人の男の子の隣に座って教え始めた。
急がなくちゃ。集中して解き続けていると、最後の問題で詰まってしまった。解き方を思い出せない。何個か数式を当てはめてみたけどどれも違う。書き込み過ぎてよくわからなくなってきた。
いちから解き直すために、書き込んだものを消しゴムで消してカスを払うと、手に消しゴムが当たって飛んで行ってしまった。
まったくもう…。小さくため息をつく。消しゴムを拾うために身を屈めて手を伸ばすと、私より先に大きな手がそれを掴んだ。
私は驚いて顔を上げる。ターナー先生が私を見降ろしていた。
「あ」私はすぐイスに座り直して先生を見上げた。「あ、ありがとうございます」とオロオロしながら小声で言うと、彼は消しゴムを手渡してくれた。私の冷たい手のひらに、ターナー先生のあたたかい指先が触れる。
彼は少し眉根を寄せた。不快に感じたのかな?
「どう?」ターナー先生は何事もなかったかのように私のプリントを覗き込んだ。内心落ち着かない私とは反対に、彼は冷静に問題のチェックを始める。
「苦手だって言ってた割に、よく出来てるじゃないか」ひと通りプリントに目を通すと彼は静かな声で褒めてくれた。でも間違っているところをいくつか指摘した。
私がその間違いを直したあと、彼は最後の問題の解き方を教えてくれた。
「ここは補数を使うんだ」
アレックスの言ってた通り、ターナー先生の教え方は的確で解り易く、あんなに時間をかけていたのにすぐ解くことができた。
「正解。飛び入りしたのによく頑張ったね」私が机から顔を上げると、ターナー先生は言った。さっきの固い表情とは違って、小さく微笑んでいるように見える。
彼はすぐ背を向けてアレックスの左側に座っている男の子の方へ行ってしまったので、私はお礼を言い逃した。
そのあとアレックスの採点も終わって、私はターナー先生にお礼を言ってから彼女と教室を出た。
「やっぱり頭がいいんだね、リサ。すぐにできてたじゃん」アレックスは言った。
「そんなことないよ」私たちは駐車場に行きながらおしゃべりした。「結構手こずってた」
「本当?そうは見えなかったけど?」彼女は首を傾げた。「それにしてもターナー先生、珍しかったな」と不思議そうに声をひねる。
「どういうこと?」
「私が彼の足元にペンを落としても拾ってくれなかったのに。しかも呼んでもないのに生徒のところに行くなんて、びっくり」彼女は肩をすくめる。
「そうなの?」私は普通にいい先生だと思ったんだけど…。
「そうだよ」と頷く。
「私が飛び入り参加だったから、先生も良くしてくれたんじゃないかな?それにアレックスの左側に座ってたあの男の子のところにも行ってたじゃん」
「あの男の子はいつも一番最後なの」声を抑えて言った。「だから先生が隣についてる。早く終わらせたいんじゃないかな?」
「へぇ…。そうなんだ」どうしてなんだろう?私だけ特別扱いするとは思えない。何度か彼の授業を受ければ対応が変わったりするのかな?
「私の右側に座ってた男の子は確か、怪我をしてしばらく入院してたから補習を受けてるはず。頭が良くて、彼がいつも最初に終わるの。で、どうだった?数学を受けてみたいと思ったんじゃない?」アレックスは明るい声で言った。よかった。すっかりいつものアレックスに戻ってる。
「うん」私は頷いた。「考えてみる」あんなに毛嫌いして取らないと決めていた数学だけど、ターナー先生の授業なら受けてもいいかも。
「ほんと?じゃあよかったら次の授業組む時に、ターナー先生の数学を選ぼうよ」彼女はにっこり笑った。「リサと同じ授業が増えたらいいなぁ」
「そうだね」と私も微笑んだ。
駐車場で彼女と別れて、家に帰りながら今日の出来事を振り返った。コニーとアレックスのあの空気。オリヴィアに言われたこと。補習を受けたこと。
やっぱり、アレックスたちの間に何があったのかがいちばん気になる。どうしてアレックスを悪者扱いするのか、明日オリヴィアと話をしてみよう。