5,
年を越し、祖父はゆっくりと確実に死へ近づいて行った。体力がないためほぼずっと寝たきりになり、意識があやふやになることもあった。医者が言った余命よりも早くそのときがくるかもしれない。
僕は毎日ヒヤヒヤしながら生活した。仕事中は病院から連絡がくるのではないかと心配し、仕事が終わればすぐ病院へ飛んで行った。
起きている時の祖父はよく動く口で僕にたくさんの話をしてくれた。どれもこれも一度は聞いたことのある話だったが、彼自身が最期に人生を振り返ろうとしていたのかもしれない。
僕はひとつも漏らさぬよう耳を傾けた。だか彼は話している最中に咳き込んだり息切れを起こしたりする。苦しそうにしている彼を見て、もうしゃべらなくていいと止めても彼は話し続けた。「思っていることは言葉にするべきだ」と言って。
「ターナー先生」休暇が終わり、学校も始まった。授業後、1人の女子生徒が話しかけてきた。
「なんだ」僕はデスクの上を片付けながら言った。
「ちょっとわからないところがあって」女子生徒は先ほど配ったプリントを見せながら言った。「ここの答えがどうしても合わないんです」と指をさす。
「答えが書いてあるプリントも渡しただろう。それに途中式も書いてある」
「でも…」
いつもなら教えてやるところだが、今の僕は以前にも増して生徒への興味を失っていた。こんなことしてどうなる?僕は教師に向いていないのに。自分の存在意義さえ疑う。いつ独りになるんだ?いっそのこと教師を辞めて他の仕事を探すか?
「コニー!どうしたの?先に行っちゃうよ!」教室の入り口にいた女子生徒が大声で言った。
「ちょっと待って!ジュリア!」僕に質問してきた女子生徒が返事をする。
「あの子に教えてもらえ」僕は辛辣に答えた。「友達とやる方がいいだろ」
「先生なのに教える気がないんですか?」コニーと呼ばれた女子生徒は急に態度を変えて、トゲのある言い方をした。見た目は大人しそうなのにハッキリとしたものを言う。
「それに答えが書いてある。僕が説明したところで同じだ。それ以上、教えられることはない」酷い教師だな。もしこれが彼女だったら…。
「わかりました。もういいです」彼女はふいっと教室を出て行った。
見ろよ。嫌われたぞ。しかしなんとも思わない。僕が人や物に興味がないのは、そんな気が湧いてこないからだ。勉強嫌いが図書館へ行かないのと同じ。わざわざ興味のないことを知ろうとはしない。それに感性をシャットアウトしていれば感情が乱れることもない。
集中して見ていれば人の裏側というものはよく目につく。それを感じないようにこちらが無心でいれば疲れることもない。相手の挙動に振り回されることもなければ、相手がどう思ったのだろうとビクビクすることもない。
僕は荷物を持って席を立った。教室を出て人の多い廊下を歩いていると、前方に先ほど質問してきた女子生徒と、教室の入り口にいた生徒が並んで歩いていた。そのさらに前に、あの小さくて頑固な少女が1人で歩いている。
こうして見かけるだけでいい。なにもしてやることはない。
そう思った矢先、並んで歩いていた2人がリサの横を足早に通り過ぎた。するとリサの姿がパッと消えた。周りを歩いている生徒のせいで彼女がどうなったのか見えない。
急いで見に行くと、リサは床に這いつくばっていた。彼女の周りに文房具や教科書が広がっている。つまずいたのか?
リサは急いで落としたものを拾っている。誰も彼女を気にかけていない。誰も手伝おうとしない。
僕は屈んで、落ちていた消しゴムを拾い――まただな――リサに渡した。
彼女は顔を上げて僕を見る。煙に包まれた茶色の瞳には全く光が入っておらず、悲しみに満ちていた。この瞳と同じ瞳をどこかで見たような気がする。
彼女はこんなに小さかったか?触れれば今にも砂になってサラサラと崩れそうだ。形だけがあって、まるで抜け殻。僕を見ているのに見ていない。どうしたんだ?なにかあったのか?救ってやりたいのに何もできない。
リサが消しゴムを受け取ったとき、僕はその腕に注目した。長袖のせいで見えないが、あの傷は本当に美術のせいなのか?
僕の視線に気付いたリサは腕をさっと引っ込めて立ち上がった。そして少し頭を下げると去って行った。
僕の胸にあのナイフが染みる。今のは正解だったのか?声をかけてやればよかったのか?リサの裏側はどうだ?隠しているのか、複雑なのか、そもそもないのか、感じ取ることはできない。
おい、やめろ。諦めろよ。やめると決めただろう。やめろ。胸のナイフだってきっと勘違いだ。精神的に参ってるだけだ。少し過敏になっているだけだ。心を閉ざせばいい。
僕は立ちあがり、軽く肩を回した。
2月の終わり、最も恐れていたことが起きた。仕事を終えて病院へ行くと、祖父の容体が急変したところだった。
「じいさん」僕はベッドに寝ている祖父へ呼びかけた。
返事はない。骨と皮だけになった祖父は呼吸を弱め、意識を朦朧とさせていた。
「僕はここにいるから、じいさん」自分の声が震えているのは分かっていた。
血の気のない祖父の手を握ると、彼は重たそうに瞼を持ち上げた。その瞳は虚ろで影に覆われていたが、しっかりと僕を見ていた。口が微かに動き、低く唸る。耳を違づけると彼はすまないと謝った。
「やめてくれ。じいさんは何も悪くないよ。もういいんだ」準備はしているつもりだった。けれどどうにもなりはしない。
極度の悲しみに襲われて、僕の鼓動は早くなる。行くな、いやだ、やめろと打ち立てる。それなのに祖父の鼓動は確実に落ちていく。ゆっくりと遅くなる。1歩ずつこの世から遠ざかっていく。
彼はまた何か言ったが、形になっていなかった。
「わかってる。わかってるから」愛情は十分すぎるほど伝わってるよ、じいさん。
祖父の瞳は優しく、強く僕へ語り掛けている。
「ごめん。何もしてやれなくて」彼の耳に届いているかわからない。それでも僕は伝えた。「ありがとうじいさん。愛してるよ、ずっと」
祖父はまぶたを閉じた。そのとき、彼の目から涙がひと粒流れ、乾いた皮膚を伝った。ゆっくり、ゆっくりとシワを伝って涙が落ちていく。彼の呼吸もまた速度を緩める。
彼の小さくゆったりとした胸の動きをいくつか見守ったあと、それは完全に止まった。
病室には機械の音と、僕の荒くなった呼吸だけが響いていた。
僕の世界には常に祖父がいた。何もかも彼から教わった。彼が僕を育て、導いてくれた。けれどそれも、もう終わった。もういない。彼はもういないのだ。
ウジウジするなと言われていたので、無感情になることを心掛けた。そうすれば何も手につかなくなるほど落ち込むことはなく、様々な手続きを進めることができる。
医者や看護師と話し、僕は祖父の荷物を持って一度家に帰ることにした。ウィズに餌をやって伝えなくてはいけない。祖父はもう帰って来ないのだと。
病院を出ようとすると、マークと鉢合わせた。
「あれ?ランス、お見舞いか?」マークの表情は明るく、声は浮ついていた。彼は手に大きな鞄を持っている。
「いや…」僕は首を振った。何か言おうと口を開くが言葉が出てこない。こんなに打ちのめされた気持ちは初めてだ。
そんな僕を見てマークは悟った。「そうか…。すまない」と声を落とす。
「いや、いいんだ。君は?」
「あ、その、子供が、昼間に生まれたんだ」彼は遠慮がちに言った。
「あぁ…。そうか。おめでとう」生まれるものがいれば死ぬものもいる。病院はそういう場所だ。祖父も言っていた。
「ありがとう。その、もし…。何かできることがあったら言ってくれ」
「あぁ、ありがとう」
「帰るのか?」
「そうだ。一度帰ってまた来る」僕は深くため息をついた。
「送ろうか?」マークは気を遣ってくれた。
「いや、大丈夫だ」
「そうか。気をつけてな」
「あぁ」
彼は僕の肩に触れたあと行ってしまった。
僕はまたため息ついてから病院を出る。車に乗って時計を見ると夕食時だった。今は何も食べる気になれない。
事故を起こさないように気を付けながら運転し、家に帰った。
だが家に帰るという判断は賢明ではなかった。家の中に入った瞬間、息苦しくなり、得体のしれない感情に襲われ体が激しく震えてきた。
僕はバスルームに駆け込み、トイレで胃の中にあったものをすべて出した。胃の中が空になってもまだえずき、手足の先が痺れてくる。動悸が激しく、不快感に気力と体力を奪われた。まったく…。どうなってる?
気持ち悪さが収まるまでトイレに張り付き深呼吸を繰り返した。段々と体の震えが治まってくると、いつの間にかウィズが側にいるのに気付いた。彼は僕の様子を伺うように見上げている。
「ごめんなウィズ」と言うと、彼は僕の膝の上に乗って丸まった。彼のあたたかさが有難かった。
「ウィズ…。じいさん、もう帰ってこないんだ。寂しいよな…」ゆっくりと彼を撫でながら伝えた。真実を口にすると現実味を帯びてくる。
ウィズはただ静かにじっとしていた。
ウィズのおかげで気分が収まると、僕は彼にお礼を言ってから退いてもらい、トイレを綺麗にした。そのままシャワーを浴びる。夕食は摂らずにウィズの餌を用意した。しかしウィズは食べなかった。彼も元気がないように見える。
僕は学校へ電話して今週いっぱいの休みを取った。他にも祖父が連絡してほしいと言った人たちに電話する。彼の遠い親戚、昔の教え子、弁護士、友人。かなりの人数と話した。この人たちがさらに別の人へ伝えてくれるだろう。
ひと息つくとかなり時間が経っていた。もう一度病院へ行くつもりだったが、疲労感で体が重く、運転ができそうにない。病院にも連絡を入れて僕はベッドに横になった。眠れる気はしなかったが、目を閉じるとなんともあっけなく眠りへ引き込まれてしまった。
翌朝、体はいつものように起きだし、僕は病院に向かった。安置室に移された祖父はただ穏やかに寝ているだけに見えた。今にも動き出して僕へ語りかけそうだ。
{ランス。しっかり生きるんだ。やりたいことを見つけて、素敵な人と出会いなさい}
じいさん。そんなこと出来そうにないよ。僕にはもう何もない。世界でただ独りになっただけ。その僕も自分に呆れている。
葬儀の担当者が来た。話をして、明日に葬儀、明後日に埋葬となった。こうして淡々と進む。別れは呆気なく、そして日常に戻る。
医者や看護師とも話をしたあと、昨夜連絡を取った人たちにも葬儀のことを伝え、この日はまた帰ることになった。帰りたくない。また吐くだけだろう。それでも帰らなくてはならない。
ふらふらと歩いて病院を出た。車に乗ると携帯電話が鳴った。祖父の知り合いかと思ったが、ディスプレイにはマークの名前が出ていた。
「もしもし?」
「あぁ、ランス。すまない。こんな時に電話して」彼の声は焦っていた。
「いや。なんだ?」
「今日リサを見かけていないか?」
「リサを?」嫌な予感がよぎった。「いや。見ていない。どうしたんだ?」
「家にいなくて…。彼女の車はあるんだけど、どこにもいないんだ。さっきまで一緒に病院にいて、でもリサは先に帰って…。お前が見かけてないかと思って」マークはしどろもどろになった。
「なんだって…」リサがいなくなった?彼女まで?僕は時計を見た。もう夜もいい時間だ。
「こんな時間に出歩くような子じゃないんだけど…。僕はもう一度辺りを探してみようと思う。もし彼女を見かけたら帰るように言ってくれないか?それか僕に連絡をくれ」
「わかった」
「すまない。忙しい時に
「いいんだ。じゃあ」通話を切って、僕は携帯電話を助手席に投げた。
どこへ行った?どうして君まで消えるんだ?ふざけるなよ。
乱暴に髪をかき上げてため息をついた。四方八方から圧迫されている気分になり、軽いめまいがしてきた。また吐き気も襲ってくる。悪いことが重なるなんて、最悪だ。もし彼女まで失えば、今後、永遠に、今日という日を恨むだろう。僕の人生で最も憎ましい日になる。ただでさえ既に悲しい日となっているのに。
こんなところで吐くわけにはいかない。今日はほとんど何も食べていないから何も出てこないと思うが。
待て。とりあえず落ち着け。まだリサに何かあったわけじゃない。死んだと聞いたわけじゃない。落ち着け。まだ間に合うはずだ。僕にできることがあるはずだ。見つけたい。なんとしても彼女を失うわけにはいかない。
車のエンジンをかけた。どこへ行ったんだ?なにをしている?一度家に帰っているなら、自分の意志で外へ出たのか?外へ出るタイプじゃないんだろ?誰かに連れて行かれたのか?
いや、見知らぬ人間に付いて行くような子じゃないだろう。見知らぬ人間が来ても扉を開けるわけない。もし連れて行かれて、抵抗したんだとしたら、部屋が荒れているはずだ。それならマークが気付く。ならやはり自分から出て行ったのか?どこかに行くなら車が必要になるはずだが…。
考えながら、まず病院周りの道を注意深く見て運転した。どこにもいない。それどころか出歩いている人がほとんどいない。
次は手当たり次第に車を走らせた。リサの行きそうな場所…。わからない。知らないところへ行くのは気が引けるとすれば、知っている場所。学校か、マークの店あたりか?だがこんな時間に学校は開いていないし、マークの店ならマークが見に行っているだろう。それに行くとすればやはり車がいる。友達の家か?だったら探すのは難しくなる。
念のため学校やマークの店を見て回ってから、僕は一度自分の家への道を辿った。この可能性は低いがひとつひとつ潰していくしかない。
人気のない暗い夜道を走っていると、とつぜんヘッドライトの明かりに人影が映ったように見えた。一瞬だったがユラユラと幽霊のように夜道を歩いている人物がいた。
すぐにブレーキを踏んで車を停めた。うしろを向いて目を凝らすと、それは間違いなく人間で、僕が探していた彼女だった。見つけた。彼女を見つけた。
「おい!」僕は外へ出て叫んだ。自分でも驚くほど――まただな――鋭い声が出た。ずんずんとリサの元まで歩み寄る。
リサはギョッと目を見開いていた。髪も服も乱れている。青白く、この暗がりで本当に幽霊のように見えた。
なんだ?何かされたのか?くそっ。「なにやってるんだ!マークが探してたぞ!」リサの前に立つ。
彼女は何も答えずに呆然としていた。どうした?そんなに酷い状態なのか?
「おい」放心状態の彼女の肩を持って軽く揺さぶった。驚くほど肩が薄い。
それでもリサはうんともすんとも言わない。頼む、何か言ってくれ。助けに来たのが僕で残念だとでもいいから。
「大丈夫か?」顔を覗き込むと、リサはゆっくりと僕に焦点を当てた。
「あの、」彼女はようやく小声で答えた。
僕は一時の安心感に包まれた。よかった。生きてる。彼女を抱きしめたい衝動を堪えた。
「大丈夫です。道に迷って…」
道に迷って?方向音痴のくせになぜ外へ出た?しかもこんな夜に。
「ごめんなさい」リサは愕然とし、本気で反省していた。小動物のように震えてオロオロしている。
「こんな遅くに出歩いちゃダメだろ!君は方向に疎いのに、なにかあったらどうする」不安は消えたが、彼女の危機管理能力の低さには呆れた。
「ごめんなさい。散歩に出てて…」彼女は声まで震わせた。
散歩ね。ふん。どうせ嘘なんだろ。どこへ行っていたにしろ、自分の意思で外に出たようだ。誰かに何かされたわけではない。しかい彼女の体に異変がないかチェックした。怪我をしているようには見えないが…。精神的にはかなり疲れているように見える。取り合えず家に帰そう。
「すみません」リサはまた謝った。
僕は彼女の肩から手を離し、髪をかき上げた。「車に乗って」
リサは固まる。
なんだ?なんだよ。そんなに僕が嫌いか?
腹が立ってリサの手を掴んだ。そのまま車へ引っ張る。氷のような彼女の冷たい手は亡くなった祖父を思い出させた。
僕は後部座席の扉を開けてリサを中に押し込んだ。そのあと運転席へ乗り込む際、自分の手のひらが赤くなっていることに気付いた。固まった血が付いている。僕のではない。
「怪我してるだろ」車に乗ると、僕は急いで車内ライトをつけた。
「転びました」リサは小声で答える。
「見せて」と振り返って彼女に手を差し出した。
彼女は僕の手を見てハッとなった。「ごめんなさい」と声を震わせながら、僕の手についている血を拭う。
冷たい手で自分の手を拭い、震えながら謝るリサを見て、僕は胸を強く締め付けられた。この子は自分のことより僕を気にしている。僕の気持ちを優先している。僕に迷惑をかけたことをひどく気にして、僕のことが嫌いなのにそれでも反省して心遣いを見せている。僕のことなんて、血のことなんて気にしなくていいのに。
僕は彼女の細く小さい手を握った。「いいから。反対の手を見せて」
リサはピタリと動きを止めたあと、素直に手を見せてくれた。手のひらにひと筋の傷がついている。血は止まっていて、そこまで深い傷ではなさそうだ。だが転んでこうなるか?鋭いもので切ったか、ワイヤーのようなもので擦れたかに見える。いずれにせよここに処置する道具はない。さっさと帰そう。
「他に怪我は?」僕は尋ねた。
「ありません」リサは僕を見る。
「本当に?」僕も彼女を見つめた。その瞳は闇に覆われていて何も読めない。
「はい」
彼女の囁きに耳を欹てた。他に怪我はなさそうだが嘘を言っているようにも聞こえる。しかし確かめるすべはない。
「頼むから、二度と、夜に、1人で出歩くな」僕は彼女に刻み込むように言った。
「ごめんなさい…」泣きそうに言ったリサに、僕の胸はまた締め付けられた。
リサがうつむいたので僕は手を離す。すまない。こうなる前にもっとやれることがあったのかもしれないな…。いや、僕に何ができた?彼女が夜の散歩に出るのを止められたのか?そんなことできるはずない。僕は彼女の保護者でもなんでもない。無関係だ。
前を向いて車を走らせた。5分ほどでマークの家に着く。
「降りて」家の前に車を停めると僕は言った。
リサは逃げるように車を降りる。
それを見て僕の胸にナイフが深く突き刺さった。なんだよ。締め付けるのか刺すのか、どっちかにしてくれ。
運転席の窓を下げてリサを見た。「ちゃんと手当てするんだよ」
「はい」
「夜に出歩かないって約束して。車でもダメだ」彼女を見上げた。
「はい」リサは見つめ返してくる。
僕は彼女の眼の中を探った。これは嘘じゃなさそうだな。よかった。夜の散歩は二度となくなるだろう。しかしなぜだか今、僕は彼女と離れるのが惜しいと感じていた。
リサは僕に探られないようそっと目を伏せた。その姿に、僕は無意識に息を飲む。
「…それじゃ」見つけて帰せたんだ。それでいいだろう。彼女に何かを感じる必要はない。
「はい」リサは僕を見た。「ありがとうございました」
僕は窓を閉めると手を挙げて返事をした。そのあと家の扉を指す。早く行ってくれ。すぐに家の中に入ってくれ。僕がまた君を車に押し込んでしまう前に。
リサはゆっくりと歩いて家の扉に手をかけた。僕はそれを見届けてから車をバックさせ、自分の家へと帰った。
家に入る前に深呼吸をした。扉を開けると吐き気ではなく頭痛がしてきた。さっさと寝てしまおう。寝られるか分からないが。
ウィズに餌をあげ、自分の寝室へ行って着替えたあとベッドに入ろうとすると、携帯電話を助手席に放り出していたことを思い出した。まったく…。取りに行くのは明日でいいかと思ったが、今はどこからか連絡が来るかもしれない。
携帯電話を取りに行ったあと、ついでに1階でシャワーも浴びた。再び寝室に上がるとマークから電話が来た。
「ランス。ありがとう。リサから聞いたよ」
「あぁ」僕はベッドへ倒れた。「いいんだ。見つけられてよかったよ…」
「手間をかけたな。そっちは大丈夫か?」
「あぁ」大丈夫かって?全くもって大丈夫じゃない。体力はあるのに精神的に参っていて疲れた。「明日葬式をやって、明後日には埋葬だ」本当の別れだ。リサがそうならなくてよかった。
「そうか。僕も参加しようか?」
「いや、君は子供が生まれたばかりだろ。奥さんの側にいてやれよ。こっちは大丈夫だ」
「わかった。ひとつ借りができたな」
「そうだな」
「なにかあったらいつでも言ってくれ。じゃ、今日は本当にすまない。助かったよ」
「あぁ。じゃあまた」
「ランスだよ」マークは別の誰かに話しかけた。
「今日は本当にすみませんでした。先生も忙しい時に」とつぜん聞こえてきたリサの声に、僕は不意を突かれた。彼女のあたたかい声が胸に沁みて返事をすることができない。
「先生?」
僕は目を閉じて堪えた。君がいま、そばにいてくれたらいいのに。「いや、いいんだ」喉の奥から絞り出すように返事をした。「ちゃんと手当てはした?」
「はい」
「そうか…」君は今どんな顔をしているんだろうな。僕は情けなさ過ぎて見せられない。「ゆっくり休んで」
「はい。先生も」彼女はまた僕を気遣った。「ありがとうございました」
「じゃ、ランス」電話はマークに代わった。リサの声を聞いたまま寝てしまいたかった。
「怪我してるんだ、彼女」僕は言った。
「え?」
「手を怪我したんだ。みてやってくれ。‘今後も十分に’」僕はマークに念押しした。
「わかった。見ておくよ。おやすみ」
「おやすみ」電話を切って枕に顔をうずめた。
{強く生きろランス。ウジウジするんじゃないぞ}
わかってるよじいさん。わかってる。でも今は、今だけは悲しみに浸らせてくれ。僕はこう見えても人間なんだよ。




