③
気が付いたら夜になっていた。外はサラサラとした雨が降っている。冷蔵庫の中が空っぽだし、何か食べるものを買ってこようかな。
準備をして外に出た。すると扉のすぐそばに白い紙袋が置いてあった。なにこれ?帰ってきた時には無かったのに。
中を覗くと、オレンジを基調とした花束が入っていた。私は紙袋を部屋の中に入れてからアパートの階段を駆け下りる。外に出ると辺りを見回した。けど探している人物はどこにもいない。いつ置いたんだろう?
雨でびしょ濡れになる前に部屋に戻り、紙袋から花束を取り出した。綺麗なオレンジ色。新鮮な花の香りに癒される。ひとつひとつの花を見ていると、花に紛れて手紙を見つけた。
{リサへ。退院おめでとう。会いに行けなくてすまない。君と会って話したいことが沢山あるんだ。しかし今はできない。5月の中旬に調停があって、そこで離婚が成立する予定だ。それが終わったら会いに行く。
本当に申し訳ないことだらけで、謝っても謝り切れない。僕は君に酷いことをした。もう僕に会いたくないだろう。そのときは突き放してほしい。2度と顔を見せるなと言ってくれ。僕を詰ってくれ。僕は君の前から消えるよ。
だがもし、そうじゃないなら、少しだけ待っていて欲しい。そして僕を君のものにしてほしい。
どのような結果になろうとも、僕は自分のできる限りを尽くして君に謝罪する。君は自分を責めてはいけないよ。
L }
拙い字で書いてある。君のものにしてほしいだってさ。あの時は僕のものになってくれって言ったくせに。
私は涙をこらえた。あなたがいるなら、私はいくらでも待つ。
ターナー先生が来てくれるのを待つ間、私は自分としっかり向き合って考えた。自分に何ができるのか、何をしたいのか。そして絵を描き続けた。なにを描きたいのか、何を学ばなくちゃいけないのかもわかってきた。
それと私は学校へ行って退職した。他にも警察署や病院、栽培所に行って手続きも済ませた。色んな人と話をして、頭が痛くなることもあった。まだ完璧に全てが終わったわけじゃないけど、なんとか今回の件は収束に向かっている。
アレックスとママとはこまめに連絡を取っている。もちろんパパにも連絡した。彼は私が入院している時にママから事情を知らされて、とても驚いたそう。こっちに来ようとまでしていた。
私は時間をかけてパパに説明をした。状況は理解してもらったけど、パパはあまり納得せず、いい返事はくれなかった。せっかく距離が縮まったと思ったのに、今回の件でまた遠くなってしまった。
ターナー先生はいつ来るんだろう?連絡を取っていいのかもわからない。彼が来る前にママのところへ行こうかな。
2012年5月下旬
午後6時。私は机に向かって絵を描きながら、夕食を決めあぐねていた。そんなにお腹もすいてないし、今夜は食べずにいようかとも考えていた。
白の絵の具がないから買いに行かなくちゃ。でも外へ出るのは面倒だなぁ。
筆を置いて窓辺に座る。空は曇っていて今にも雨が降り出しそう。外を見つめながらボーっとしていると眠たくなってきた。
そのとき突然ドアベルが鳴った。私はハッとなって立ち上がり、いつものように誰かも確認せずに扉を開けた。
彼はそこにいた。病院で会ったときと同じでやつれていて、瞳は喜びと悲しみを浮かべながら私をくまなく観察していた。
「やぁ…」ランスは低くかすれた声で恐る恐る言った。手は後ろに組んでいる。
私は夢を見ているみたいに彼をじっと見つめた。
「あの…。いいかな?」彼の声は震えた。突き帰されないか不安そうにしている。
「どうぞ」私は頷いて扉を大きく開けた。
ランスは大きな安堵のため息を吐いて緊張を解いた。倒れるようにして私に覆いかぶさり、ギュッと抱きしめる。鼻を私の髪に押し付けて息を吸う音も聞こえた。
「ちょ、」私は驚いた。
「ごめん」ランスはハッとなってすぐに私を離した。「痛かった?」と私を見降ろす。
「いいえ。傷は痛くありません」
小さな切り傷や打撲は良くなった。左腕や目の下、脇腹は抜糸をして赤みも引いてきたけど、皮膚が突っ張っている感じは残っていた。見た目は悪いけど痛くはない。
「そうか」彼は安心するともう一度私を強く抱きしめた。
私も腕を回して抱きしめ返す。彼のあたたかさと匂いに涙腺が緩んだ。
「会いたかった」心の底から叫んでいるように彼は言った。
「私もです」
私たちはお互いの存在が夢じゃないとわかるまで抱きしめ合っていた。そのあと彼を部屋の中へ招き入れる。
私は窓辺に座って、彼は私の前の床に座った。
「君に話さなくちゃいけないことがある」ランスは切り出した。
「はい」
「まず」彼は姿勢を正した。「本当に申し訳なかった。君をあんな目に合わせてしまうなんて、なんと…。すまない」声にはたくさんの後悔がつまっていた。
「いいんです」私は首を振った。「あなたはもう何度も私を助けてくれた。今度は私があなたを救いたかったんです。あなたが撃たれていたかもしれない」フィッツ先生は何をしでかすかわからなかった。彼が死ぬ可能性だって十分にあった。それを考えるだけでぞっとする。
ランスは拳を握って力を入れた。「君が生きていることが僕の救いだ」
「私が死んだら、あなたも死ぬ?」と肩をすくめる。「って病院で言ってましたけど」
「誰かから聞いたのか?」
「いいえ。聞いてたんです。少しだけ。起きることはできませんでしたけど。あなたの様子をアレックスが面白がっていました。見てみたかったです」私は微笑んで見せた。少しでも重い空気にならないようにしたかった。
彼は首を振る。「見せられるものじゃないよ。不格好すぎる」
「私の方が不格好だった。あんなに傷だらけでボロボロで…。今も」と自分の顔にある傷跡を指した。
「君はどんな時も美しいよ」彼は手を伸ばし、私の目の下にある少し盛り上がった傷跡に触れた。「傷つけたくはなかったが」と瞳が悲しみに暮れる。
私はその手を取って頬をすり寄せた。大きくてあたたかい彼の手に包まれると安心する。「話して」
「長くなるよ」
「いいんです」
ランスはゆっくりと手を降ろすと、少し考えてから話し出した。
「僕は、後悔したんだ。ずっと前から君を助けてやれたって。もっとできることがあったんじゃないかって。
あの日々についてもそうだ。あれが正解だったのか、君にプレッシャーを与えて、さらに追い込むことになったんじゃないかと思った。生きるということを僕が君に押し付けてしまったんじゃないかって。
それに僕がもっとしっかりしていれば、誰でもいいから結婚するなんてことも起こらなかった。自分がいかに怠慢で、情けなくて、ちっぽけでバカな人間か分かったよ。君にも、フィッツ先生にも、他の人たちにも、本当に、大変失礼だった。僕はずっと独りでいればよかったんだ」彼は自責の念で顔を歪めた。
「そんな風に思わないでください。あの日々のことは、私があなたに迷惑かけたのに。でもあの日々のおかげで私は救われた。こうして生きてる。自分を責めないでください」
「ありがとう。そう言ってくれると楽になるよ。しかし今回のことは君になんの落ち度もない」彼は両手で自分の膝を掴んだ。
「君と再会したあと、僕はすぐ知り合いの弁護士の男性と連絡を取った。今までは内々の話し合いで離婚しようとしていたけど、弁護士の力を借りることにしたんだ。離婚調停を申し立てて、離婚するのに必要なものを揃えていたんだよ。手続きは滞ることなく進むと思っていた。
フィッツ先生は以前から僕が他の女性と接触するのをひどく嫌っていて、昔の知り合いだという君のことも敵視していた。それで君が階段から落ちたあと、それが如実になった。彼女は僕らの間に何かあると確信したんだ。そのときに彼女も弁護士と探偵を雇った。
僕は自分の弁護士から下手なことはするなと注意されていたのに、準備室で君にキスしてしまった。僕は本当にどうしようもないクズでわがままな野郎だよ。バカなことをしたと思ってる。君を追い込んだんだ。君がさらに辛くなるというのに…。でもどうしても君に会いたかったんだ。不安で、恋しくて…。あれが最後になるかもしれないと思ったから」
キスしたこと後悔してるの?あれがバカなことだったって?それは…。普通に考えればバカなこと。たった一度のキスだけど、やってはいけない事だった。でも…。私は罪悪感を感じながらも嬉しかったのに。それにしても彼もあれが最後だと思っていたんだ。けど彼と私とでは意味が違うみたい。
「あのキスした日の前日に、裁判所から手紙が来たんだ。僕の父親が死んだって」
「父親?」彼には両親がいないはず。
「あぁ。僕はてっきり、既に死んでいるものだと思っていた。でも生きていたんだ。のうのうとね」彼の言葉には怒りが含まれていた。
「裁判所からの手紙は、財産分与がどうのこうのって話だった。父は他に家族を作ったようだから。僕は弁護士にそのことも相談した。実はその弁護士というのは、もとは祖父の教え子だったんだ。祖父は亡くなる前、その弁護士の彼に相続などの手続きを頼んでいた。
彼に詳しく聞いてみると、祖父がずっと黙っていたことを教えてくれたよ。彼は祖父に口止めされていたらしい」ランスの表情は暗くなった。
「実は、僕は祖父母と血の繋がりがないんだ。父は養子だったんだよ。祖父母はずっと子供ができずにいて、幼い父を養子にしたんだ。やがて父は大人になり、結婚してあの海辺に家を建てた。父は建築士だったらしい。あの家に引っ越してすぐ僕が生まれたが、その少し前から父は祖父母と連絡を取らなくなったそうだ。
そのうち何らかの理由で母が亡くなってしまい、父は祖父母をあの家に呼んだ。祖父母は父が家を建てたことも、僕の存在すらも知らなかった。だが母を亡くした僕と父のことを想ってあの家に引っ越してきてくれたんだ。
けれど数か月後、父は家を出て行った。何も言わずに。
祖父は手を尽くして探したが、結局見つからずに帰ってくることはなかった。どうしてこうなったんだと祖父は嘆いていたらしい。祖父が最期まであの土地にこだわったのは、父が帰ってくるのを待っていたからかもしれない…」彼の瞳から光が消えて、ロボットのように話していた。
「僕は祖父を愛していたし、血の繋がりがないからと言ってその愛が無くなるわけじゃない。祖父も無条件に僕を愛し、育ててくれた。
しかし弁護士からこの話を聞いて、僕は精神的に追い詰められた。自分がなんなのか、誰なのか、意味のある存在なのか分からなくなった。混乱して、恐怖が湧き上がってきたんだ。そのとき、少しだけ思い出した。子供の頃のことを」ランスはため息をつくと私から少し離れた。
「父は…。僕と母を虐待していた。父は狂ったように母を愛していて、あの家に母と僕を閉じ込めていたんだ。だからあんな田舎に家を建てたんだよ。簡単に人には会わず、逃げられもしない。家の構造もそのために設計されていたんだ。父が祖父母を呼ぶ前に少し改装したのかもしれないが。
父は僕が嫌いだった。母にくっついている僕を引き剥がして殴っていた。僕の肩にある傷跡も恐らくそのときに出来たんだろう。母は僕を庇って殴られていた。父に殺されたのか、自殺したのか、病気になったのか分からないが、母は亡くなってしまったんだ。
君と過ごしたあの日々辺りから、僕は変な夢を見るようになって、でも目覚めたら何も覚えていない。そういうことがたまにあったんだ。それは夢ではなく昔の記憶だった。
小さい頃の記憶がないのも、夢を見ても覚えていないのも、忘れることで精神的に自分を守っていたんだ。生まれてからずっと監禁されて、他人とどう接すればいいか分からない。だから学校もろくに行かなかった。それが理由だったんだよ。
祖父母はあの家に引っ越してきてから父の狂気や虐待に気付いたんだろう。もしくはもっと前から薄々勘づいていたのかもしれない。僕が虐待のことを覚えていないから、そのまま思い出さないように彼らはずっと、ずっと隠していたんだ」
私は彼の説明を理解するのに必死だった。血が繋がってない?養子?監禁して虐待?小さい子をほったらかしにして、父親はどこかで生きていたの?他に家族を作ったの?なぜ?
「僕が食事や運動を欠かさなかったり、整理整頓したり、物に興味がないのもそのせいだ。食べられない、窮屈、荒れている、持っていても失う。そう感じるのが嫌だから。大学へ行くためにあの家を出たとき爽快感を感じたのも、ずっと同じところに住んでいられないのも、全部、ちゃんと理由があったんだ。
もし虐待のことを覚えていて、フィッツ先生の癇癪を受けていたら、僕は彼女を殺していたかもしれない」彼の声は厳しくなった。
「それだけじゃない。なにより一番恐ろしいことは、僕が父と同じだということだ。僕は君を閉じ込めた。母と僕が閉じ込められていた部屋に。そして怒って暴力的になった。怒りで自分を忘れることは父と同じだ」彼の瞳が完全に闇に埋もれた。
違う。そなことない。私はただ首を振った。
「君を狂ったように愛しているのも同じ。僕には父の血が流れているんだよ、リサ。僕と一緒に居たら、君は母と同じ運命をたどるかもしれない。もしくは傷つく。今回のように」
私は猛烈に首を振った。
彼も首を振る。「父のことで動揺していたとはいえ、自分勝手で軽率な行動を取ってしまった。もっとしっかり自分を制御するべきだった。君の事となると僕は何をするか分からない。だがなんとしても、君を失いたくない。君には自由でいて欲しい。だから君は今すぐ僕を拒絶するべきだ」ランスの中の闇は大きく広がって、すっぽりと彼を覆っていた。
私の頭の中では考えることがたくさん浮かんできた。どれもごちゃごちゃでパンクしそう。でも心の中は空っぽだった。彼の話を聞いても私にはなんの錘にもならなかった。だからなに?って感じ。私が彼の生い立ちを知って逃げ出すとでも?彼を受け入れる勇気が私にないって?それで拒絶しろって?もう2度と会わないって?彼はだいぶ私を見くびってる。
「もう会わないって言うんですか?」彼と会えなくなると考えると、脇腹にある傷が裂けて、体が真っ二つになるように感じた。
「そうだ。今までと同じだ。僕が君にキスしたのは、この話をしたらもう君とは会えなくなるだろうと思ったからだ。君は嫌がるだろうし、僕は君を傷つけるわけにはいかない。離れなくてはいけない。だからキスした。僕はズルくて卑怯でわがままだろう?こんなややこしい僕ではなくて、君には前の彼氏のような人が合っているんだ。その方が普通の生活を送れる。普通に幸せになれる」
ちょっと、勝手に決めないでよ。ズルすぎる。わがまますぎる。
「僕は独りでいるよ」
私たちの間に沈黙が流れた。ランスは緊張の糸を切ろうとしている。どうしてそんなことができるの?狂ったように私を愛しているくせに。
<狂ったように愛しているから別れるのよ。あなたを守るために。どんなに一緒にいたって、いずれは必ず別れがくるでしょ。やめときなさい>
……違う。そんなの違う。私は頭の中の声に抗った。彼を失いたくない。守りたい。それに私たち、まだ一緒になれたことなんてない。
自分の幸せは自分で決める。私がいる場所は私が決める。
闇に消えていきそうな彼を救うのは私だ。思い出して、私が黒い霧に包まれたとき彼はどうしてくれた?何を言ってくれた?溺れたら何度でも救い上げればいい。落ちたらまた這い上がればいい。彼がそうしてくれたように。
私は床に降りて素早くランスに近づくと、彼の襟元を掴んで唇を彼に押し付けた。ヘタクソなキスだった。
「私のものになってくれるんでしょ?」私は囁いた。
ランスは驚いていた。
「あれは嘘だったんですか?」
「いや…。あれは、本心だよ…」
「じゃあ側にいてよ」
「リサ…」
「私を置いて行かないって言いましたよね?私には怒らないって言った。正直になるって言った。だったらそうしてください。あなたならできます。私はなにも怖くありません。見くびらないでください」私は強い口調で言葉をぶつけた。
「あなたと、あなたの父親は違う。あなたは私を傷つけたりしない。思いやってくれる。自由にしてくれる。助けてくれる。あなたを放って行った父親とは違う。一緒にしないで。それと、私の幸せは私が決める。だからあなたと一緒にいる。何かあったって自分の意思で逃げてみせる。私はいつだってそうする」
ランスの瞳に徐々に光が戻り始めた。そう。彼の闇も私の黒い霧も同じ。綺麗さっぱり消えるわけじゃない。抜け出せるものではない。いつもそばにいる。それでいい。対になればいい。‘なくてはならないもの’だから。
「本当にそれでいいのか?」彼は囁いた。緑とグレーの混ざった瞳が潤んでいく。彼を包んでいた闇が少しずつ収まっていく。
「うん」私は彼の目を見て答えた。
「よく考えるんだリサ。落ち着いてみればどういうことか分かるだろう」
私が自棄になってると思ってるの?「ちゃんと考えてます。というか、感じるままを言ってるだけです。あなたも言いましたよね?私は素直に感じているんです」
「そうだが…」彼は私に探りを入れている。これが本当のことか見極めている。
私は彼の気が済むまで静かに訴え続けた。私の気持ちが少しでも伝わるように見つめ続けた。私の嘘偽りのない目に付け入る隙は無い。
「…後悔しても知らないぞ」かすれた声でランスは言った。
「後悔なんてしません。私が決めたことなんだから」我慢していた涙が私の目から零れ落ちた。
ランスは腕を回して私を引き寄せると、唇を私の頬へ滑らせてその涙を掴まえた。そしてそのまま私に返してくれた。
彼の熱から喜びと恋しさが伝わってくる。私はそれが嬉しくてさらに涙が溢れた。
優しく唇を重ね合わせていると、やがて彼は私の下唇を噛んできた。私はやり返したけど、そんなことするのは初めてだったから上手くいかなかった。彼はふっと笑ってまた唇を押し付ける。
数えきれないほど押し付けられた後、私は彼から離れた。
「どうした?」ランスは不安そうな顔をした。
言っておかなくちゃ。「愛してる」
ランスはハッと目を見開いて驚いたあと、微笑んで目尻に小さなシワを作った。瞳は愛情に溢れている。
私は指先でそのシワに触れた。
「僕も愛してるよ」大きな手で私の顔を包み、またキスした。そしてまた静かに笑う。「力を抜いて、少し口を開けてごらん」と私の唇の上で言った。
「うん…」言われた通りにやってみた。そうしたらするりと彼の熱い舌が忍び込んできて、私は溺れた。息が乱れて力を入れようにも入れられない。彼の手を掴んで何とか呼吸するように意識した。
しばらく刺激に身を任せて心地よさに揺られていたけれど、ランスはとつぜん離れた。
「これ以上はまずい」
「なにがですか?」
「大人の人間だからな。理性を働かせているんだよ」私の額にキスする。「今日は話をしたら帰るつもりだったから、なんの用意もしていない。夕食は?」
「まだ」と言うと、彼のため息が顔に掛かった。
「君との時間が必要だ。夕食のあと、僕の家に行こう。見せたいものがあるんだ」ランスは私の髪を耳にかけると、手を取って私を立ち上がらせた。「おいで」
私は上着を羽織って鞄を持ち、靴を履いた。ランスと一緒に外へ出ると、いつの間にか雨が降り出していた。
「濡れないように」ランスは忠告した。
アパートの側に停めてあった彼の車に急いで乗り込む。
「私が濡れてたら、理性が飛んでいくからですか?」助手席に座ってシートベルトをしたあと聞いた。
「そうだよ。今の状態ならなおさら」彼もシートベルトをした。
「それってかなり…。変なの」
ランスの低い笑い声が車内に響いた。また目尻にシワを作っている。彼は笑顔まであたたかい。
「確かに不思議だな。君にだけ有効な僕の嗜好だよ」
「私にだけ?」
「そう」彼はまだ微笑んでいる。
私がその笑顔を見つめていると、彼は笑うのをやめて首を傾げた。「どうした?」
「笑顔が素敵だなって」
ランスは驚いた。そして少し照れて微笑む。照れているところを久しぶりに見た。
「君は全然笑わないね」彼の微笑みが悲しい色を含んだものに変わり、私の頬に手を添えた。
「笑ってますよ?」安心させるために笑って見せた。ランスの手の中で私の頬が暖かくなる。
彼は切ない表情のまま私の頬骨をなぞった。雨に反射した街灯の光が、彼の目の中でたくさんの星みたいにキラキラと輝いている。
私はその美しさに見惚れていた。私たちの間に不思議な力が働いて、目が離せなくなる。これ、以前にも感じたことがある。あの日々の最後の夜。2人でソファに座って、何をしたいか考えていた時だ。
ランスは少し口を開けたあと、また閉じた。何かを言い淀んでいる。
「どうしたんですか?」
「いや…」彼は手を離してハンドルを握った。「伝えたいことはたくさんあるんだ。君は…」と私を見つめる。「…そんな目で見ないでくれ。頭が爆発しそうだ」私から視線を外すと、頭をハンドルに預けてひと息ついた。
「え?」なんのこと?
「いいや…。君が安心できるように尽くすよ」と小さな声で言う。私を見て謝罪するように微笑むとエンジンをかけた。
彼の中で何か考えているんだな。たぶん、彼女が笑わないのは僕のせいだとか、僕といても安心しないから笑わないんだとか。
「あなたは安心するんですか?」私はそっと尋ねた。
「してるよ。君のおかげで人間らしくなってきた」
ほら、彼はロボットじゃない。マークも人間味のある彼を知れば少し理解してくれるはず。
車はどこかへ走り出した。すぐに私の携帯電話が鳴りだす。ディスプレイを見て、私は電話に出た。
「アレックス?」
「ハイ、リサ。調子はどう?」アレックスの声は明るかった。
「えっと…。最高にいい感じ」と答えると、私の隣にいた人はチラッとこっちを見た。
「え?なにそれ。あなたがそんなこと言うの初めて聞いた」
「うん。ちょっとね」
「なに?なにかあったの?」アレックスの声は鋭くなった。
「あ…」私は体を窓の方へ向けた。「彼といるの」小声になる。なんだか恥ずかしくて顔が熱い。
「え!?いま?会ってるの?ちょっと、早く言ってよ!邪魔しちゃった」
「いいの。気にしないで」
「そういうわけにはいかないでしょ。あなたの仕事の話をしようと思ったんだけど、またあとにするね」
「え?」
「それじゃ、終わったら電話してね!」
「アレックス!」言い返そうとしたら電話は切れた。私は10代の女の子みたいに恥ずかしがって、携帯電話を鞄の中に突っ込む。
「どうした?」ランスが聞いた。
「さぁ…?」彼の顔が見れない。「仕事の話がしたかったみたいです。またあとでいいって」私は体を前に向けた。
「仕事?」
「そうです。教師は辞めたんです。絵を描くことに集中したくて」私たち、これからどうなるんだろう?
「そうか…」
顔の火照りが収まってからランスをチラッと見ると、彼は何かを考えている様子だった。
「あなたの仕事はどうなりました?」
「引っ越すつもりだから、別の学校へ移る。どこか、遠くへ行きたい」彼は遠い目をした。
「そうですか…。携帯電話は返ってきましたか?」
「あぁ。でも近いうちに変えるつもりだ。番号もすべて」
私は頷いた。
「携帯電話は、僕にとってそんなに必要なものじゃなかったんだ」ランスはため息をついた。「失くさないように気を付けてはいたが、ずっと意識することはなかった。迂闊だったよ」
「あの日は学校にいたんですよね?どうしてたんですか?」
「午後の授業を終えたあと、教室のデスクで採点をしていたんだ。長くなるだろうから終わったらすぐ帰れるように、ロッカールームから鞄や上着を持ってきて、鍵や電話はデスクの上に置いていた。
採点を始めて数分すると、フィッツ先生が話をしたいと言ってやってきた。そのときの彼女は落ち着いているように見えた。だから僕は冷静に話し合いができるだろうと思った。
しかし話をするなら別の場所がよかったし、2人だけで話をするなら慎重を期したかったから、僕は別の場所へ移ろうと提案した。仕事も切り上げるつもりだった。
だが彼女は急に怒りだして、デスクの上を荒らした。解答用紙やらノートやらを手当たり次第にぐちゃぐちゃにして…。そのどさくさに紛れて僕の電話を取ったんだろう。彼女はもういいと叫んで教室を出て行った」ランスはハンドルをギュッと握りしめた。
「僕は彼女が荒らしたものを片付けて――そのときに気付くべきだった――採点を続けたんだ。他にも色々と仕事をして、帰ろうと支度をしたときに電話がないことに気付いた。ようやく。遅すぎる」彼は自分自身に怒った。
「あちこち探していたら、事務員の女性が教室に来て、警察から電話がきていると教えてくれたんだ。事務室に行って電話に出たら『あなたの奥さんが銃を発砲して、女性が1人重体です』と言った。吐き気がしたよ。
フィッツ先生が銃を発砲したことにも憤りを感じたが、僕はその女性が誰なのか尋ねた。だが警察は早く署に来いと言うばかりで、僕はキレそうだったよ。撃たれたのが君だったらどうしようと不安で…」彼の顔は青くなった。
「君でないことを祈って警察署に行った。刑事にいくつか質問をされたあと、署で待機するように言われた。フィッツ先生は僕と面会したがったが、断った。もう会いたくなかった。誰かを撃つなんて…」と首を振った。
「私が…。ハリス先生たちとランチをしていたのが気に食わなかったみたいです。そのあとハリス先生と2人で話をしていたところも見ていたようで…」
「そんなことで…」ランスは歯を食いしばった。彼はなるべく悪態をついたり非難をしたりしないように話している。「君が彼らとランチしていたのは僕も見かけたよ。不思議には思ったが」
私はランチをすることになった経緯を話した。「彼らはお見舞いにも来てくれました。でも、もう会うこともありませんね…」
「…すまない。親睦を深めようとしていたのに」
「いいえ。構いません。気にしないでください。それで、そのあとはどうなったんですか?」
ランスは苦しそうに顔を歪め、しばらく黙っていた。きっと激しく自分を責めているんだ。昔の私を見ているみたいで私も苦しくなった。
「僕は撃たれた女性のことをしつこく聞いた。そうしたら君だとわかって…」彼の声は詰まった。その時のことを思い出している。
「どこの病院にいるのか聞いた。けれど教えてはくれなかった。僕は弁護士に連絡を取って、彼に来てもらった。彼を待っている間に学校にも連絡したよ。事務員の女性に君について何か聞いていないかと尋ねたら、どこの病院に運ばれたか教えてくれた」
エリーが言ってたのはこのことだ。
「そのうちに弁護士が来てくれて話し合ったんだ。刑事とも交渉した。そして弁護士の彼に警察署に残ってもらうことになったんだ。僕は急いで病院に行ったよ。でも君がどこの病室にいるか分からなくて、受付に聞いても無関係の人はダメだと言われたんだ。歯痒くて…。
どうしようかと迷っていたら、サイが通りがかって声をかけてくれた。彼が君の病室まで連れて行ってくれたんだ。そこからは…」ランスはまた首を振った。
言わなくてもわかる。私を見てひどく動揺した。そしてアレックスやマークにたくさん責められた。
「本当はずっと君についていたかったんだが、戻らなくちゃいけなかった。サイが連絡先を教えてくれてね。君の容体は彼から聞いていた。君が目を覚ました時も、僕があそこにいられたのは彼のおかげだよ」
私はサイに感謝した。看護師さんが言っていた病室の外で待っていた友人ってサイのことだったんだ。「どうして彼は外に?」
「気を遣ってくれたんだよ。2人きりにしてくれたんだ」
「あなたはどうして離れたところに座ってたんですか?」彼は壁際の椅子に座っていた。
「姿を見るだけでよかったんだ。それに近づいてはいけない気がして…。アレックスに怒鳴られたのが聞いていたからかな」ランスは少し眉を下げた。
私は片方の口角を少し上げる。「それで?」
「それで、そこからは見舞いに行けなかった。やらなくてはいけない事が沢山あったし、きちんとケジメをつけるために行かなかった。フィッツ先生とも面会して、話したよ」
「そうですか…」私は話の続きあと待った。けど彼は何も言わなかった。彼女との話し合いの内容は教えてくれないみたい。
車は雨の中、私の知らない道を進んだ。
「君と無関係でいるのは疲れた」ランスはため息交じりに言った。
「私たち…」今の関係はなに?とは聞けなかった。恋人というのはなんだかくすぐったいし、違和感もある。彼は離婚したばかりだし…。知人でも友人でも仕事仲間でもない。
「僕は君のもので、君は…。僕のもの。君が良ければ」ランスは察して緊張気味に言った。不確かでなんの証明もない関係。何にも縛られていない関係。私たちはそこにいる。
「君が良ければ?いつものわがままはどこへ行ったんですか?」
彼は少し笑った。「君の意見を尊重しているんだよ。僕らはこれからどうなるか分からないから」と再び遠い目をする。
彼には休息が必要だ。色々とありすぎたから。「ゆっくり休んでください」
「…君もね」
車はどこかのレストランに入った。私たちは別々の料理を頼んで食べた。食べている間、私はランスが言ったことをずっと考えていた。彼が彼である理由が父親のせいだったなんて。
ランス自身はそれを忘れて生きてきたけれど、空っぽのまま生きてきた。何にも興味を持てず、感情もない。それがなんのタイミングか、いま掘り返すようにあふれ出てきた。彼は非情ではない。ただ彼自身も知らなかっただけ。感情の扱い方を知らず、きっと戸惑ってる。
彼の父親はどんな人だったんだろう?どうして狂ったように愛した奥さんを傷つけて、あの家に閉じ込めたんだろう。小さな子供を虐待して置き去りにしておいて、他に家族を作ったんだろう?どうして作れたんだろう?その家族はどうしているんだろう?
「なにを考えているの?」お互いの皿が空になったころ、ランスが聞いた。食事中はチラチラとこっちを見ていたけど、私の思案を邪魔することはなかった。
「あなたのこと」と言うと、彼の口角が少し上がった。
「それは嬉しい限りだな。しかし良いことではなさそうだ」彼の観察眼は前にも増して鋭くなってる気がする。
「あなたの父親はどんな人だったんだろうって考えていました。他に家族を持っていたなんて…。その家族がどうしているか知ってるんですか?」
「いいや。だが彼らに連絡を取ろうと思えばできる。相続は破棄すると伝えてはいるが、まだ向こうは正式な決定をしていないようだ」
私は頷いた。
「僕も、父が何故そんなことをしたのか分からない。顔もほとんど覚えていないんだ。父親という存在がどんなものなのかすらよく解っていない。母もそうだ。祖父を父のように思っていたが、それが合っている感覚なのかハッキリしない」
「子供の頃のこと、今は思い出せるんですか?」
「モヤのかかった記憶の断片だけ。それも1,2つ程度だ」回想したのかランスは眉を寄せた。
「ごめんなさい」
「いいや。思い出せただけでよかったよ。自分がどう生きてきたのか知れたんだ。あれは…。生きていたのが奇跡だよ」
そんなに酷い記憶なの?私は彼の肩の傷跡を思い出した。
「死にたいと思ったことがあるかと前に君が質問したね。僕はないと答えた。全くない。それはたぶん、必死に生きてきた幼い頃の残り火だろうな」
私は小さな小さな男の子を想像した。ジゼルくらいの年の男の子。脆弱でやせ細り、ボロボロの服を着て、あちこちに傷を負っている黒髪の男の子。外に出られず、誰にも会ったことがなく、母親と2人で常に怯えて生きてきた。
私があのとき銃で殴られたり蹴られたりしたよりも更に痛かっただろうな。相手は大人の男性でずっと力も強い。しかも自分の父親。
想像しただけで悲しくなってきて、私は口を結んで涙を耐えた。彼の母親がどう亡くなったのか知らないけど、きっと自分の息子を守りたかったに違いない。ランスに似た、綺麗な女性だったに違いない。
反対に彼の父親に対して猛烈に腹が立った。どうしてそんな酷いことができるの?こんな美しい人達をどうやったら傷つけられるの?傷つけておいて自分はどこかへ行って、他に子供を作るなんて。新しい家族にも虐待を?
「どうしたの?」ランスは私の顔を見て不安そうに言った。
私は思ったことをそのまま話した。話している最中にまた悲しくなって、涙がこぼれてしまった。
「…君は底なしに優しいな。そこまで考えてくれるなんて。でも悲しむことはないよ。もう過ぎたことだ」ランスは私の涙を拭った。「ありがとう。母もきっと、君みたいに優しい人だっただろう。彼女も喜んでいるはずだ」
「お母さんのこと、何も分からないんですか?」私は目を雑に擦った。
「あぁ。まったく」彼は目を細めた。「行こう」と立ち上がり、私の手を取った。
「ちょっとガソリンスタンドに寄るよ」レストランを出て車に乗るとランスは言った。
「はい」
車はすぐ近くにあったガソリンスタンドへ入る。ランスはポケットから財布を取り出した。
「すまないが、ガソリンを入れておいてくれないか?僕はあの店で少々買い物をしてくる」とガソリンスタンドの隣にある店を指す。
「わかりました」
彼は財布から何枚かお札を取り出してポケットに入れると、財布の方を私に預けて外へ出た。
私も外へ出て車にガソリンを詰めた。マークの店でバイトしていた時を思い出す。マークにはどう伝えようかな…。彼はランスを新しい人間として考えてみると言ってくれたけど、仲良くなるかはまた別だよね…。
そんなことを考えながらガソリンを詰め終わり、助手席に戻った。お金は私の財布から払っておいた。彼が財布の方を預けてくれたのは嬉しいけど、さっきの食事は彼が払ったんだからいいよね。
ランスが戻ってくるのを待つ間、私はただボーっとしてガソリンスタンドの看板を見つめていた。
「今度は何を考えているんだ?」運転席に戻ってきたランスが聞いた。手にビニールの袋を持っている。
「何も考えていませんでした」私は財布を返した。
「ありがとう」彼はお釣りを財布に入れてポケットに仕舞った。「なるほどね。悩んでいる顔とは違ったから。ボーっとしていたわけね」謎が解けて彼はニヤっと笑った。
私は頬が熱くなり、顔を逸らした。この変な人はどこまで私を観察してるわけ?なんか、ムカつく。
「はい」ランスはビニール袋から冷えたオレンジジュースを渡してきた。
「ありがとうございます」私はそれを受け取ってひとくち飲んだ。甘みが強くておいしい。「あなたは何を飲むのが好きですか?」
「うーん…。コーヒーと水かな。たまに炭酸水」彼はシートベルトを締めた。
「病院で目が覚めた時、炭酸入りのジュースが欲しくなりました。口の中を切っていてしばらく飲めませんでしたけど」私はただなんとなく、話題のために言った。でも間違いだった。
ランスはイグニッションに手を伸ばしかけて固まった。「すまない」と言ってエンジンをかけ、車を動かす。
「あ、いえ。そんなつもりじゃ…」そんなことまで気にしなくていいのに。
「アルコール中毒になりかけたと聞いた。君はどのくらい飲まされた?通常はどの程度まで飲める?他にもどこか怪我をしたのか?彼女に何を言われたんだ?」彼の声は冷たかった。どうやら録音された音声までは聞いてないみたい。よかった。
「いや…。お酒は苦手ですけど…。ただ彼女と話をして、飲まされたというより自分から飲んだんです。グラスを空にすると彼女がお酒を注ぐので、その間にアレックスにメールして。電話はできなかったし…」
「他には?」ランスの体に力が入った。
「なにも」
「嘘つけ」
「言うわけない」私は腕を組んだ。彼だって言ってないことが沢山あるくせに。それにこれ以上、彼に聞かせたくない。自分を責めて苦しむ顔なんて見たくない。
「リサ、君は頑固の発揮場所を間違えているぞ」彼の声は厳しいものに変わった。
「どうせ私は頑固で嘘つきですよ」
「そんなこと言うな」
「あなたが言ったんでしょ」私は窓の外を見る。雨が窓について水玉模様を作っている。そこに夜の闇の反射で、私の顔と彼の顔が鏡のように映っていた。
「まったく。そういうことじゃない」ランスは首を振った。「君を素直にさせるにはどうしたらいいんだ」
私はムカついて直接ランスを見た。「そこが好きなくせに」
彼はハッとなった。
「それに、先に好きになったのはそっちでしょ」追い打ちをかける。
ランスはチラッと私の方を見て髪をかき上げたあと、参ったように首の後ろをさすった。
やった!言い負かすことができた!私は嬉しくなってニヤニヤした。
「君はいつから僕を好きなんだ?」
え。私は固まった。速攻でやり返された。「さぁ…?いつの間にか?」
「最初に出会ったときは?」彼は少し困惑していた。
「えっと…。変な人だなって」と答えると、彼は笑った。「あなたは?」
「そうだな…」ランスは体を私の方に向けた。気が付けば車はどこかのアパートの駐車場に停まっていた。「傷ついて泣いている、小さな天使だと思ったよ。誰かにこれほど強く惹かれたのは初めてで、自分でも驚いた。けれど君を怒らせてしまったから、礼儀正しくしていようと思ったんだよ」
エンジンが切れ、雨の音だけが車内に響いた。天使?なに言ってるの?また変なこと言ってる。あんなひどい姿が天使?
「なるほど…」私は恥ずかしさを誤魔化すために髪をかき上げた。
「もう少し長い方が好きだな」ランスの手が伸びてきて、私の耳元の髪を掬った。「短い方が楽だろうけど」と微笑む。
「そうですね。早く乾きますし」私も微笑む。
「まったく君って子は…。雨の日は君の香りが強くなるな」彼は小さく唸ると車を出た。
私が助手席から降りる。ランスは着ていた上着を脱ぎながら駆け寄ってきて、それで私をすっぽりと覆った。そして私の手を引く。
アパートの中に入ると私は上着を取って、それについた水滴を手で払った。ランスはまだ雨粒のついている上着を奪うと、私の首の後ろに手を回して引き寄せ、頭のてっぺんにキスした。そのまま肩に腕をかけて歩き出す。
2階にある彼の部屋に入れてもらい、私は中をぐるりと見回した。短い廊下の右側にバスルームの扉。左側には対面型のキッチン。廊下の奥はワンルーム。広々としている。相変わらず家具はあっても生活感はない。
「家具付きの部屋を借りたんだ。すぐに出るつもりだったから」私の後ろでフックに上着をかけていたランスが言った。
「いつ別居したんですか?」
「何か月か前だよ」彼は答えをはぐらかした。
詳しく聞き出そうと思ったけど、私の目に入ってきた光景を見てやめた。部屋の奥にベッドがあって、その側の壁に私の絵が何枚も貼ってあったから。
「増えてる…」私はその絵の前まで行った。むかし描いたウィズや花瓶に入った花だけじゃなく、スケッチまで飾ってある。そういえばカフェでコーヒーを飲んだときにまだ持ってるって言ってたな。
「これを見せたかったんだ」ランスは私の後ろに立った。
「結婚生活中も飾ってたんですか?」
「まさか。大事に仕舞っていたよ。彼女が見たら怒るだろうし、捨てられたくなかったからね。たまに1人になったときに見ていたよ。君の絵を見ていると気持ちが安らぐ」
彼が1人になる時間は少なかったはず。絵を描いてプレゼントした側にとって、ずっと大切に持っていてくれるのは単純にすごく嬉しい。
「大事にしてくださって、ありがとうございます」
振り返ると、ランスは想いの籠った瞳で私を見つめていた。そして私の顔に手を添えて、目の下にある傷に唇で触れる。
「たくさん間違えて、たくさん君を傷つけてしまった。本当にすまない。だがもう離れたくないんだ。これからは僕の全てをかけて君を守りたい。償っていきたい。だから、僕のそばにいてくれるか?」
彼の真剣な言葉は誓いや約束のように目に見えないものだったけど、私の体の隅々にその強い想いが行き渡り、私をあたためた。これからはこの人と一緒にいるんだな。一緒にいて、一緒に崖を登るんだ。
「はい」私は目を閉じてそのぬくもりに浸った。
「愛してるよ」ランスは優しく囁き、また溺れるようなキスをした。
私は背伸びをして彼に寄り添い、うねりに任せて彼の中へ沈んでいった。




