②
※自傷行為があります
家の横にトラックを停めた。暗闇の中で見る‘我が家'は不気味に見える。家の中に入って適度に空腹を満たしたあと、バスルームへ行ってシャワーを浴びた。ここにはバスタブがない。小さなシャワーエリアひとつあるだけ。お湯を張ってゆっくりつかるのが好きだったけど、仕方ない。
服を着て、濡れた髪をタオルで乾かしながら2階にあるの書斎に入り、机の上に置いてあるパソコンを起動させた。古いパソコンでホーム画面になるまで時間がかかる。待っている間にドライヤーを使って髪を乾かした。毛先がまだ湿っていたけど気にせずに歯を磨いて、パソコンの元へ戻る。
メールをチェックすると3件来ていた。2件は広告メールだったからすぐゴミ箱へ捨てて、もう1件のメールを開く。送り主はパパ。
{リサへ。引っ越して1ヶ月経つがそっちはどうだ?ブレンダにおめでとうと言っておいてくれ。落ち着いたらこっちへ遊びにおいで}
いつものように素っ気ない、不器用なパパらしいメール。
私はパパのいる国で生まれた。ママが19の時に私を生んでるから、2人は高校生の時に出会ったみたいだけど、詳しいことはよく知らない。それを聞くのはなんだか気まずい…。
その国で7年ほど過ごしたあと、パパとママは離婚し、ママの出身であるこの国に来た。しばらくは私とママとおばあちゃんの3人で暮らしていたけれど、おばあちゃんが亡くなって、ママと2人でやって行こうとしたときにママはマークと出会った。
パパはたまにこうしてメールをくれる。そしていつも遊びにおいでと書いてくれる。写真を送り合ったり近況報告はしているものの、なんとなく会いには行きづらい。不器用なパパと言葉の出ない私じゃ会っても5分と持たないかも。自分の父親なのに遠慮してしまって、まるで他人とやり取りしているみたいだった。
パパと最後に会ったのは私が13歳の時。彼がこっちへ遊びに来てくれた。その時はママもいたし、パパは忙しい人だからすぐに帰ってしまって、何を話したのかよく覚えてない。
{パパ。ここにもだいぶ慣れたよ。まだ道は覚えられてないけど、なんとかなりそう。ママにはちゃんと伝えておく。心配しないで。いつか遊びに行くね}
送信ボタンを押したけどパソコンの画面が固まってしまった。これもいつものこと。のんびりと送信完了を待っていると、電話が鳴った。急いでリビングに降りて受話器を取る。
「もしもし?」
「リサ?」ママだった。
「うん、なに?」
「ご飯はもう食べた?」ママの声はウキウキしていた。
「うん」私は時計を見た。もうすぐ9時になる。
「そう。あなた、明日は学校へ行くのよね?」
「うん」明日は学校へ行って授業を組まなくてはいけない。そう思うと憂鬱になった。
「じゃ、戸締りよろしくね」
「うん…。あ、ママ。病院ってなんなの?どこか悪いの?」ママはいつだってエネルギーに満ち溢れているのに。
「違うわよ。検査に行くの」
「なんの?」
「妊娠の」ママはさらりと言った。
「は?」妊娠?驚きすぎて開いた口が塞がらない。眉を寄せて嫌な顔をしてみたけど、ママに見えるはずがない。
「リサに言ってなかったの?」遠くの方でマークの声が聞こえた。
「言ったわよ。今朝、家族が増えるのよって」
「ブレンダ…」私は頭を抱えてママの名前を呼んだ。
私は小さな子を叱るみたいに、こうして名前を呼んで注意したり、苛立ちや呆れを伝える癖がある。でもママはあまり気にしていない。彼女の自由さは今に始まったことじゃないけど、さすがにそれじゃ分からない。
「妊娠してるかもって分かったのはここ数日なのよ?」ママは言った。「式があったし、まだ確実じゃないから…。だから明日、行くことにしたの」
私は壁にもたれて首の後ろを強く掴んだ。なんとかして落ち着かないと。
「賑やかになるんだからいいじゃない」
「そうだね…」私は黒い霧を押さえ付けて返事をする。ママにバレないようため息をついた。
「とにかく明日わかることよ。そういえば、あなたランスさんにお礼を言ったの?」
「うん」彼の名前が出るとどうしてか途端に体が重くなった。
「ちょっと待って、マークに代わるわ」
「もしもしリサ?」マークの声はママと同じで明るかった。
「なに?マーク」
「今日はありがとう。助かったよ。ランスはあっさりしてる性格だから、付き合いやすかっただろう?」
「そうだね」あっさりしてる?そうだったかな?いま思えば、会話があまり続かなかったのはあっさりしてたせい?それともまったく私に興味がなかったから?じゃあなんで教会では話しかけてきたんだろう?
思考が別の方へ向かう前に頭を振って止めた。「私、もう寝るね。ママもマークも疲れたでしょ?」早く電話を切りたい。
「そうだな。明日もあるし、君もゆっくりお休み」
「うん。おやすみ」受話器を置いて、私はフラフラと自分の部屋に戻った。
机の上にある私の絵を見る。この部屋の窓から見える景色をデッサンしたもの。上手く描けたと思ったのに、今は猛烈に腹が立つ。なにこれ。雑だし、直線はガタガタだし、ちっとも良くない。
その絵を取って半分に破いた。こんな絵どうなってもいい。さらに半分に破いたら、紙の端で指の背を切ってしまった。小さく鋭い痛みが走る。傷口から血がゆったりと流れだして皮膚を染めていった。
私は流れる血をしばらくボーっと見つめたあと、ティッシュを取って傷口に当てた。痛かった。でも暖かかった。鮮やかな赤色に引き付けられて私の心は黒くなっていく。傷口を押さえながらベッドへ倒れ込み、ひとしきりに泣いた。
目が覚めると外はすっかり明るくなっていた。どうやら泣き疲れて寝てしまったみたい。時計を見て時間を確認した。寝坊しなくてよかった。家を出るにはまだ余裕がある。
またボーっとしながらベッドの下に落ちていたティッシュと、絵のカケラをごみ箱へ捨てたあと部屋を出た。バスルームで顔を洗い、歯を磨く。髪をとかしてから書斎へ行き、パパにメールが送信されているか確認した。そのあと服を着替える。今日は昨日と同じでムッとした暑さ。半そでのTシャツを着たあと腕の傷をガーゼで覆った。指の傷は大したことなかったから手当てはしなかった。
家を出てトラックに乗り、何度も地図を確認しながら、なんとか学校にたどり着いた。ママに場所は教えてもらっていたけど、1人で来るのは初めて。早く道を覚えないと…。
駐車場にトラックを停める。今は夏休み中だから他に生徒はいない。校舎の中に入るとすぐに事務室が見つかった。そこにいた事務員さんに声をかけると、ざっと学校の中を案内をしてくれた。ここは前の高校よりも小さな校舎なのに、どこも同じに見えて迷いそう…。なるべく頭に詰め込みながら事務員さんの話を聞いた。
この学校の歴史は古い。でも何年か前に建て替えをして校舎は新しくなったみたい。制服はなくて私服登校。生徒の数は300人程度。前の高校はここの何倍もの生徒がいたけど、特別に仲のいい子がいたわけじゃなかった。私がこんな性格をしているせいか、どこか皆とは違って、いつもはみ出している気がしていた。だからこの学校でも馴染めるか不安になる。
案内が終わると事務室へ戻って授業を組んだ。宣言していた通り数学は取らなかった。授業の登録が済むとその場で教科書を渡されて、事務員さんと前の高校について少し話をしてから学校を出た。初めて1人で来て緊張していたけれど、無事に終わってホッとした。もちろん帰り道も時間をかけて帰った。
家の前にトラックを停めるとママとマークの車があった。その横に見知らぬ車も停まってる。4人乗りだけどツードアで後ろの席はかなり狭い。車体は丸みのある可愛らしいデザインで、色はくすんだ白。私はその車を見ながら家に入った。
「ただいま」
「おかえり。学校はどうだった?」リビングにママがいて、テーブルに何かの書類を広げていた。
「よかった」
「そう。ところで、家の前の車見た?」ママはソファに座った。
「うん。誰か来てるの?」私はママの隣に座る。
「違うわ。あなたの車よ」
「え?」と驚いていると、キッチンからマークが出てきた。飲み物の入ったグラスを持っている。
「君にも車がいると思ってね。学校に行くのに必要だろ?」マークは言った。
「そうだけど…。いいの?お金とか、」
「いいんだよ」マークはグラスをママに渡した。「あの小さな車はもともと僕の母が使っていてね。母が使わなくなったから店で保管してたんだ。ちょっと古いけど、整備はしてあるからしっかり走る」
「え。あ、ありがとう。嬉しい」突然のことに私は慌てた。
「気にしないで。駐車スペースはたくさんあるし、僕からのプレゼントだよ」マークは微笑んだ。「じゃ、仕事に戻るね」
「うん」私は笑顔を作って答えた。
マークはママにキスしたあと家を出て行った。
「ちゃんと卒業してね。そのあとは大学なり就職なり、あなたの好きなようにしていいのよ」ママはグラスに入った飲み物を飲んだ。
「うん。わかってる。素敵な車も貰ったし」マークにあとでもう一度お礼を言っておこう。通学には新しい車を買うか、バス停まで歩いて行くしかなかったから助かった。でもこうして親切にしてもらうのには慣れていない。古いと言っても車のプレゼントなんて。
感謝と申し訳ない気持ちが溢れた。それと同時に義務感も私の心に芽生えた。これまで風邪以外で学校を休んだことはなかったし、学校に行くのが楽しいと感じたこともなかったけど、ちゃんと毎日通っていた。気分が重くなっても通えてたんだから、ここでもそうできるはず。
「ママはどうだった?病院に行ったんでしょ?」
「えぇ、行ったわ」ママはテーブルに置いてある病院の名前が入った書類を手にした。「3か月ですって」
「3か月?」私は驚いて思わず声が裏返った。最近気付いたって言ってなかった?「3か月ずっと気付かなかったの?」
「そうよ。あなたを産んでからずいぶん時間が経っていたし、妊娠の兆候が激しく出てたわけじゃなかったから。引っ越しやら結婚式やらで忙しくて1日が飛ぶように過ぎて、最後の生理がいつだったか忘れてたわ」ママはずいぶんと呑気な声で言った。「予定では2月末に生まれるの」
私は呆気にとられすぎて返事をする気になれなかった。新しい家族ができる。本当に?マークと一緒に住むことも慣れてないのに、年の離れた妹か弟ができるの?
「楽しみね」ママは微笑んだ。
「そうだね」私はなんとか高い声を出して喜びを表現した。胸の中がどんどん暗くなっていくのを感じる。でもよく考えたら私は赤ちゃんと過ごす時間が短いかもしれない。まだハッキリと大学も就職も決めてないけど、高校を卒業したらこの町を出るつもりだから。
それでも明るい未来を思い描いているママの隣で、私は対照的に不安でいっぱいになった。
学校が始まるまではこの辺りの道を覚えたり、絵を描いたりして過ごした。たまにマークの職場へ行って、雑用や洗車を手伝ってお小遣いをもらうことがあったけど、お金の使い道はほとんどなくて貯まる一方だった。
そしていくら時間が経っても私の中の不安は消えることなく、いつの間にか左腕を掴んでいることが増えた。だからアザが消えずにいて、暑い日が続いてたのに私は長袖のTシャツばかり着るようになった。腕を掴むのをやめようと意識すると、今度は別のところへ気が逸れた。
2006年9月上旬
「リサ、爪を噛んでるわよ」とママに注意され、私は親指を口から離した。テレビの横にある小物入れから爪切りを取り出して、深爪になるほど切る。
「大丈夫かいリサ?明日から学校だろ?」リビングのソファでテレビを見ながらくつろいでいたマークが聞いた。「緊張してる?」
「ううん。楽しみにしてるの」もちろん嘘だった。学校に行く日が近づくにつれ、私の気持ちは塞いでいく。爪切りを戻してマークの隣に座った。
「そうか。よかった」マークは微笑んだ。
「うん」私も微笑み返す。本当は不安で仕方ない。気が張りつめて落ち着かなくなってる。でもそれを言ったところでどうにかなるものでもない。
ママの手伝いをして夕食を終えたあと、シャワーを浴びて歯を磨き、ママとマークにおやすみを言ってから自分の部屋に引き上げた。明日使う予定のものをリュックに詰めてからベッドに寝転ぶ。なにげなくお気に入りの小説をパラパラとめくっているうちに眠りに落ちた。
「なんでそんな髪なの?」男の子が聞いた。この子、確か私が6歳の時に同じクラスだった子だ。それでこれが夢だとすぐに気が付いた。だってこの子がここにいるわけないし、私はもう6歳じゃない。
「ママと同じ色だもん」私が言い返すと、今度は別の男の子が現れた。
「お前の肌、変だよな!病気なのか?」
「違うよ」
「変じゃんか。お前のママだって変な目の色してるし、変な言葉でしゃべるしな!」男の子は声を尖らせた。
「変じゃないもん…」私はギュッと服を掴む。
「変だよ!気持ち悪い!」
意地悪なその男の子の目が急に真っ白になった。辺りが暗くなってその目だけが宙に浮かび、3つ4つと増えていく。私の周りを白い目だけが取り囲んで追い詰めてきた。
私は怖くなって、がむしゃらに走ってどこかへ逃げた。するといつの間にか暗い森の中に迷い込んでいた。風が通りぬけて木の枝がこすれ合う音が聞こえる。草と土の匂い。じっとりと湿った空気。
手を伸ばしてゆっくり前へ進むと、遠くの方にかすかな光を見つけた。そこへ向かうと段々と光は大きくなり、やがて誰かの笑い声が聞こえてくる。ぼんやりとしていた光がハッキリとした形に変わっていく。
それは見慣れない‘我が家’だった。窓から中の光が漏れている。笑い声はその中から聞こええていた。ママとマークの声だ。それに赤ちゃんの泣き声。私だけ家の外に立っていた。
なぜ私はここにいるの?家の中へ行きたいのに、足が動かない。うつむくと手にナイフを握っていた。どうしてこんなものが?手放そうとしてもナイフは私の体の一部みたいに手から離れない。
ふと、背後に何かが忍び寄ってくる気配がした。暗くて重々しい気配。振り向けない。どうすればいい?頭の中はパニックになる。背後の気配は冷たく私を包み込もうとする。どうしよう…。どうしよう。
苦しい。痛い。冷たい。熱い。
私は腕を振り上げて、力任せにナイフを自分の太ももへ突き刺した。
ビクッと体が震えて目が覚めた。心臓の音がやかましく、呼吸が荒れて汗をかいていた。これは夢、ただの夢。落ち着いて。大丈夫。
時計に目をやると朝の5時を指していた。窓が開いていて森の囁きが聞こえる。空は灰を水で薄めたような色味をしていた。
もう少し寝ていたいけど、さっきの夢のせいで一向に眠気が来ることはなさそう。仕方なくそのままじっと寝転がっていると、雲の向こうに太陽がうっすらと顔を出し始め、私はベッドから起き上がった。朝だというのにすでに疲労感が体に居座っていて冷たい。気温が少しずつ上がってきて、今日も暑くなりそう。
ノロノロと動いて部屋を出る。音を立てないようにバスルームに行って顔を洗った。髪をとかしてひとつに結んだあと鏡を見る。目の下にうっすらとクマが出来ていた。なんて冴えない顔。学校でみんなが思う私の第一印象は暗い奴で決定だな。
部屋に戻って着替えを済ませ、ボーっとしながら意味もなく机の上にあるものを右から左へと移動させた。何かしておきたかった。無になると、またあの冷たく黒い霧が支配してきそうだったから。
どのくらい時間が経ったかわからないけど、誰かが起きてきた気配がしたから私は部屋を出た。下に行くとママが眠そうな顔で朝食を作ろうとしていた。
「おはようリサ。早いのね」
「おはようママ。ちょっと眠れなくて」私は欠伸をかみ殺した。
「そうね。今日から学校ですもの。楽しみよね」ママはパンをトースターに入れた。「あなたは何を食べる?」
「私はさっき食べたからいいや」ママの横を通り過ぎ、冷蔵庫を開けてミルクを取るとグラスに注いだ。全然食欲がない。私の精神状態と食欲は繋がってるから、気分が塞いでいるとご飯を食べ無くなる。
「そうなの?それじゃ悪いけど、マークを起こして来てくれる?」
「うん」ミルクを一気に飲み干した。これから学校だと思うと気が滅入る。この調子だとお昼ご飯も食べられなさそう。
歯を磨いたあと、マークを起こしてから自分の部屋に戻った。何もすることがない。早すぎるけどリュックを持って家を出た。すっかり乗り慣れた小さな白い車に乗って、運転席の窓を半分ほど開けると結んでいた髪を解いて風を通した。頭の中で学校までの道のりを3回復習してからエンジンをかける。
1番乗りをしたくなくてゆっくり車を走らせたつもりだったのに、結局1番に学校へ着いてしまった。生徒用の駐車場に車を停める。リュックの中に入れていた時計を見ると、授業開始まで1時間近くあった。いい時間になるまで車の中で待っていよう。
暇つぶしにノートとペンを取り出して絵を描いていると、なにかが助手席の窓を叩いた。驚いてパッと顔を上げて見ると、ターナー先生が体を折り畳んでこっちを覗き込んでいた。私はノートとペンをリュックに押し込んで外へ出る。
「おはよう。ずいぶん早いんだな」ターナー先生は低いけど爽やかな声で言った。
「おはようございます」扉を閉めて車の前方に行くと、先生も私の向かいに来た。
ターナー先生は白いシャツに濃い色のジーンズを履いていた。高身長の彼なら何を着ても似合うんだろうな。
「思ったより早くついてしまって…」先生と視線を合わせると、ちょうど朝の太陽が視界に入って私は目を細めた。睨んでいるように見えなきゃいいけど…。
「そう」先生が体重を移動させてくれたおかげで私は影に入った。逆光になって彼の目には影が落ちる。彼はその目でしばらく私を見つめていた。
クマが目立ってる?そんなの気付くはずない。会うのは結婚式以来だし、私は先生の顔にホクロが10個増えてたってわからない。
「数学を取らなかったね」彼はニヤッと笑った。
「はい」私はキッパリと答えた。これからターナー先生とは廊下ですれ違う程度になるはず。
返事をしただけだったから次の会話が生まれなかった。私たちの間に静寂が訪れる。何か言うべき?車に戻る?それとも校舎に入る?私はターナー先生にピントを合わせず、彼の背後を見ながら考えた。
「ねぇ」
「はい?」目を合わせた。こうして呼ばれるのは2回目。いつもこうやって誰かを呼んでるの?まるで友達や恋人を呼んでるみたいな言い方だった。
「最初の授業は何?」穏やかに彼は聞いた。
「えっと…。国語です」と答えながら私は髪を耳にかける。
「ふーん」彼は目をそらした。
「先生はいつもこの時間に来るんですか?」私も顔を背けて自分の車を見た。よく見るとボンネットに砂がうっすらと積もってる。掃除しなくちゃ。
「今期は1時限目から授業なんだよ。教室の鍵を開けなくちゃいけなくてね」ターナー先生の声は低く、つまらなさそうだった。嫌いな授業が月曜の最初にあって気分が落ち込む、みたいな。先生も忙しいんだな。
「そうなんですか」と私が言ったそのとき、駐車場に車が続けて2台入ってきた。
「それじゃ、遅れないようにね」ターナー先生はぶっきら棒に言って背を向けた。
「はい」私は去って行く先生の後ろ姿に返事をする。何か気に食わない事でもあったのかな?
不思議に思いながら私は車に戻って、押し込んだままのノートとペンを救い出し、リュックを持って教室へ向かった。最初の授業は確か、2階の教室だったはず。
校舎に入って2階へ行き、教室の番号をひとつひとつ確認しながら歩いた。早すぎてどこの教室も開いてない。指定された教室を見つけてその前で待っていると、細身で眼鏡をかけた男の先生が来て鍵を開けてくれた。その先生は黒板に座席表を貼る。
見てみると、名前順に席が割り当てられていた。私は5列並んでいる机の真ん中、後ろから2番目の席だった。どうやらターナー先生が言っていた通り、スミスさんは多くいるらしい。私の後ろの席の子もスミスだった。
席について授業が始まるのを待っていると、あとから来た子たちにジロジロと見られた。けど誰も話しかけてこなかった。やっぱり私が暗い奴だってわかったのかな。授業が始まっても国語の先生は私が転入生だからと言って紹介することはなかったし、授業の内容は知っている話ばかりでつまらなかった。
国語の授業を終えて次の教室に向かうべく、事務員さんに貰った校舎の地図を廊下の隅で確認していると、ブロンドでショートカットの女の子が話しかけてきた。私よりも頭ひとつ分くらい背が高くて、ママと似た青い目をしている。
「ハイ」彼女は高く澄んだ綺麗な声で言った。
「…ハイ」綺麗な子に話かけられて私はどぎまぎした。
「あなた、もしかして転入生?」
「うん」
「今年から?」彼女は軽く首を傾げた。
「うん」私は頷く。
彼女はなぜか嬉しそうに微笑んだ。「私はアレックス。あなたは?どこから来たの?次の授業は何?」
次々に質問されて私は焦った。コミュニケーションがすぐとれる人はすごいな。私には到底できそうにない。
「えっと…」一瞬、自分の名前がなんだったか思い出せなくなった。なぜか他の人の名前ばかり浮かんでくる。「あ、私はリサ。次は倫理だよ」
「倫理?私と一緒じゃん!行こう!」
「う、うん」
「よろしくねリサ」アレックスはパッと顔を輝かせて笑った。
「よろしくね、アレックス」
彼女が案内してくれたおかげで廊下をウロウロせずに教室へ着くことができた。教室へ向かっている間、アレックスは長い腕を組んで身を細くしながら歩き、転入生ならよくある質問を私にたくさんした。それに答えていると段々と私のソワソワしていた気分も落ち着いてきた。
「あなた彼氏いるの?」
倫理の授業を終えて次の教室へ移動しているときにアレックスは聞いた。私は3階で美術、彼女は体育で着替えがあるのに私のために美術室まで送ってくれる。
「ううん」うつむきながら私は答える。この手の質問は苦手。
「ふーん。この学校はね、人数が少ないからみんなひと通り付き合ったことがあるようなものなの。あなたは新入りだから気を付けてね?」アレックスは呆れた。
「うん…」苦笑いをした。この子もひと通り付き合ったりしたのかな?
「それじゃ、授業が終わったら1階まで降りて、階段の前で待ってて」アレックスは美術室の前まで来ると言った。
「うん。ありがとう」と言うと、アレックスは走って行ってしまった。わざわざ送ってくれて申し訳ない気持ちになる。しかも次も案内してくれるなんて優しい人だ。早く学校の中も覚えてしまわないと。
美術室は4人掛けの四角いテーブルが4つ置いてあって、生徒は8人くらいしかいなかった。美術は不人気みたい。私はすごく好きなんだけど。
授業の内容はランダムに配られた白黒の名画に色鉛筆で好きに色を塗っていく作業だった。
私が貰った絵はクリムトの<接吻>で、もともとの絵は黄色の印象が強いから、補色の紫や青色をベースで塗っていくことに決めた。グラデーションにしてみたり柄をかいてみたり、思いつくままに描いていると、あっと言う間に授業は終わった。
アレックスに言われた通り美術室を出て1階まで降り、階段の前で待っていると、息を切らせた彼女が走ってきた。
「お待たせ!」アレックスは言った。
「ごめんなさい。急がせちゃったみたいで」私は謝った。
「いいよ」彼女は爽やかに笑った。「体育が好きなんだよね。体を動かすのが得意なんだ。あ、カフェテリアはこっちだよ」
私はアレックスの話に相槌を打ちながらついて行った。お昼休みのカフェテリアはほぼ全生徒が集まっているようで賑やかだったけど、全員が私のことを見ている気がして恥ずかしくなった。
ランチを注文して2人で隅の席に着く。アレックスと美術のおかげで朝よりも元気になって、私の食欲も戻ってきた。食べている間アレックスは学校の事を細かく教えてくれた。周りに座っている子がチラチラとこっちを見てきたのが気になったけれど、きっと私が転入生で珍しいだけで、すぐ慣れてくれるはず。私は地味だし。注目されるのは今日だけ。
私の次の授業は体育だったから、アレックスと早めにカフェテリアを出て体育館のある別館まで送ってもらった。彼女にお礼を言って更衣室で着替えたあと授業を受ける。食後の運動は苦しかったけど、体を動かすのは嫌いじゃない。私の運動神経は悪くないのになぜか泳ぐのだけは苦手だった。
授業の途中で、長い髪をひとつに結んでいる日焼けした男の子が話しかけてきた。彼はアレックスと同じような質問をしてから名乗ったけど、早口でよく聞き取れなかった。
体育を終えて着替えたあと、生徒1人1人に割り当てられたロッカーに行って体育館用の靴を自分のロッカーにしまった。そして今日最後の授業へ向かう。
現代社会の教室には迷わずにたどり着くことができた。徐々に学校の構造を覚えつつある。席は1番後ろに座ることになった。授業が始まるのを待っていると、前の席に座っていた女の子がこっちを見た。
「あなた転入生よね?」女の子はばっちりメイクに、長くて明るいブラウンの髪をくるくるに巻いていた。
「うん」
「朝から知らない子がいるって噂になってた」彼女はピタッとしたジーンズに包まれた足を組んだ。「アレックスと仲良くなったの?」話し方や態度から察するに高慢なタイプなのかな…。
「まぁ…」アレックスは優しくしてくれるけど、仲良くなったのかは怪しかったから断言しづらかった。
「へぇ」彼女は爪をチェックしながら何かを考えているようだった。「ま、アレックスには気を付けた方がいいわ。ところで名前は?あたしはオリヴィア」
「リサだよ」アレックスに気をつけろってどういうこと?彼女は優しくていい子なのに。そう言えばアレックスも気を付けてって言ってたけど、ここってそんなに危険な学校なの?
オリヴィアは他にもいくつか質問をしてきたけれど、途中で先生が来た。彼女はまだ話し足りないと言った顔で前を向く。私は直感で彼女を苦手なタイプだと思ってしまったから、次に話しかけられる前にさっさと教室からを出よう。
現代社会では虫食いの問題が書いてあるプリントが配られた。教科書を見ながら空欄を埋めるもので、私は20分ほどで終えてしまった。教科書をリュックに入れて、終了時間がくるまで絵を描いて時間をつぶす。終了のベルが鳴ると、サッと席を立ってオリヴィアに捕まる前に教室を出た。
家に帰ろうと駐車場へ向かっていたら、知らない男の子が話しかけてきた。この子は訛りが強くて質問が聞き取りにくく、私が曖昧に返事をしていると、アレックスが通りかかって声をかけてくれた。
「リサ!帰るの?」
「うん」私がアレックスに返事をすると、男の子は私たちを交互に見てからじゃあなと言って去って行った。
「話の邪魔しちゃった?」アレックスは首を傾げる。
「ううん」彼女が来てくれて助かった。
「よかった。それじゃ、私は化学の補習があるから。また明日ね」
「うん。じゃあね」オリヴィアの言っていたことが頭をよぎった。アレックスにおかしなところなんてなさそうだけど。
アレックスに向かって手を振りながら、オリヴィアの言ったことを気にするのはやめようと決めた。
そこからの毎日は同じ日の繰り返しになった。朝起きて学校に行って、帰る。たまに学校から直接マークのところへ行ってバイトすることもあった。家に帰ってからはママの手伝いで家事を済ませると、シャワーをして自分の部屋で宿題をやったり絵を描いたりしてから寝た。
学校が休みの日もなるべくバイトへ行くようにしたし、本を読んだり絵を描いたりして常に何かしているように努めた。そのおかげか黒い霧は静かにしていて、腕を掴んだり爪を噛むことも少なくなった。この辺りの道も次第に覚えてきた。学校にも慣れて、知っている顔も増えた。この調子で卒業まで上手くやっていけそう。
アレックスは相変わらず優しくて、学校にいる大半の時間を彼女と過ごした。彼女の家は学校の近くにあって薬局を営んでいるそう。両親と3人暮らし。お兄さんがいるけど今は大学で寮生活をしているみたい。
オリヴィアは現代社会の前と後に必ず話しかけてきた。あの高慢な態度でも上手く返せるようになってきたし、悪い子ではなさそう。でも彼女が話す内容はいつも彼氏のことと、授業の愚痴ばかり。
オリヴィアの彼氏は初日の体育で私に話しかけてきた髪の長い日焼けした男の子だった。オリヴィアは私にも「誰かと付き合えば?」と勧めてくる。でも私は苦笑いで返した。誰かと付き合うというのがよくわからない。そもそも私は人見知りで地味だし、オリヴィアやアレックスみたいに明るくて可愛いわけじゃないから誰も興味を持たないと思う。
オリヴィアは今までどのくらいの人と付き合ってきたんだろう?それを聞く勇気は私にはないけど、話を聞く限りたくさんの人と付き合ってきたんだろうな。同じ年なのに、私とは全然違う。
1番変わったのはママだった。体調の良くない日があったりしたけれど、お腹が少しずつ大きくなっていって、ますますパワフルになった。それから家にはベビー用品が増えた。私はまだ新しい弟妹のことを受け止められない。自分に弟か妹ができることなんてないと思ってた。子供は苦手なんだけど、きょうだいはまた別なのかな?
ママは「楽しみにしておきたいから性別は教えてもらってない」と言った。マークも日々、赤ちゃんに会えるのを楽しみにしていて、知り合いからベビーベッドをもらってきたり、車にチャイルドシートを取り付けたり、育児に関する本やテレビを見たりしていた。私は2人に心配かけないように家では明るく振舞った。
ターナー先生とは学校初日に話をしてから全く会話をしていなかった。たまに廊下で見かけることがあるけど、私は会釈するくらいで、彼も目を合わせて頷くだけで話しかけてくることはなかった。
10月になって私は18歳の誕生日を迎えた。アレックスは「おめでとう」と言ってくれたし、ママとマークは盛大にお祝いしようとしていたけれど、私はそういうのが苦手だから丁重にお断りした。それでもママはケーキを焼いて、ツヤツヤと光る黒いハンドバッグをくれた。マークは100色も入ってる色鉛筆をプレゼントしてくれた。パパもメールをくれて、いつものように短くやり取りをした。
11月にはこの学校で初めて受けるテストがあって、私は体育と美術以外のテストを受けた。テスト勉強のおかげでボーっとする時間はなかったし、集中して取り組むことができたからテストの点も良かった。
テストが終わった11月の末。美術の授業が終わったあと担当の先生に呼び止められて「もしよかったら、学校内に貼るポスターを描いてみない?」と提案された。すごくびっくりした。でも私にそんな重要な役は務まらない。それにデザインする才能もないからと言って断ってしまった。先生から高評価を貰えるのは嬉しかったけど、いまいち自分に自信がない。
私はいつもこんな感じだった。