①
※自傷行為があります。
2006年7月下旬
「絶対に出ないとダメなの?」私は生気のない声で何度も繰り返した質問をママにぶつけた。
「絶対よ。何回言わせるの?ママの結婚を祝ってくれないのリサ?」ママの着ているシンプルなデザインのウェディングドレスが揺れる。
「そうじゃないけど…」私の言葉は尻すぼみになって消えた。
「式をめんどくさがってるのね?結婚に式はつきものよ。ただでさえママの方は来てくれる人が少ないんだから、あなたはちゃんと出席してよ」ママは鏡を覗き込みながら赤みのある短い髪の毛を整えたあと、指で目元を拭った。
さっきから何回もメイクを直してる。ママの青い目の周りは黒く縁どられ、シワの少ない肌はいつもより明るい色をしていた。にこやかに上がった頬と唇は同じピンク色をしてる。何もしなくてもママは十分綺麗なのに…。
「今まで大変だったわよね。でもこれからは家族が増えるのよ?きっと幸せになるわ。ほら、ママの準備は終わったからあなたも早く着替えてきなさい。間に合わなくなっちゃう」ママは鏡に背を向けて扉を指さした。
私はうつむきながら花嫁用の控室から出る。そして扉を背にして立ち尽くすした。足に鉄球でもつながってるみたい。重たくて1歩も踏み出せない。
この日が来ることは前々から覚悟していたのに、いざ迎えると朝から気分が塞いでいた。じわじわと黒い霧が私の心を侵食してくる。
自然と自分の左腕を右手で掴んだ。強く握ると指の腹が皮膚を圧迫して爪が食い込む。この痛みが黒い霧を塞き止めてくれるようでなぜか安心できた。
けれど誰かが近づいてくる足音が聞こえて、私は現実に引き戻された。足の鉄球が外れて、足音の人物と出会う前に私は素早く教会から逃げ出した。
私の母親、ブレンダとその夫になるマーク・スミスは1か月前に買った家から歩いてすぐのところにある、ほとんど使われてない古い教会で式を挙げる。今日の式に参加するのはマークの家族や友人が大半で、ママの方は私と、遠くから来てくれる2,3人の友人だけ。ママの両親はすでに亡くなっていて、弟のデビッドおじさんは仕事の都合がつかなくて欠席。
ママにとっては2回目の結婚式だ。彼女の最初のウェディングドレス姿は写真で見たことある。写真の日付は私が生まれたあとのもので、式と言ってもドレスを借りて写真を撮るくらいだったと言っていた。そのときのドレスはゴージャスで飾りがたくさんついてた。ママの顔は37歳になった今の方が若々しくて綺麗に見えるけど。昔から明るくて自由でパワフルな人だから、マークもそこに惹かれたんだと思う。
マークはこの町で育った。車の整備士をしていて、彼のお父さんが始めたこの町唯一の車屋を引き継いで経営している。数年前にお父さんが亡くなると、お母さんは足を悪くしてしまい、今はマークのお姉さんと一緒に少し離れた町に住んでる。今日の式にも2人は来てくれることになっていた。マークは優しくて気さくだけど、一緒に住み始めて1か月経ってもまだ慣れない。どうやって接するのがいいのか手探り状態だった。
多分、さっき教会で聞いた足音はマークだ。彼の正装は見てないけど、きっと31歳には見えないだろうな。ママとは逆で、老けてみられると言ってたから。それでも2人はお似合いで、マークがママのドレス姿を褒めちぎって2人だけの世界に入るのはわかってる。だから私は逃げ出した。
これまでの彼氏とマークとではママの態度が全く違っていたから、結婚するだろうなとは思っていた。けど正直なところ複雑な気持ち。祝いたいけど、祝いたくない。でもママには幸せになってほしいからそんなことは言わない。今までもこんな感じで、私はやり場のない気持ちを抱えて生きてきた。だからこれからもそうするだけ。抑えることなんて何度もしてきたし、平気。
ただの一本道を歩いて10分もしないうちに見慣れない‘我が家’が現れた。2階建てのこの家は、ママが気に入って買った。外壁は濃いベージュのレンガで出来ていて、玄関にはポーチも付いてる。お洒落だけどかなり古い。ママは「それがいいんじゃない」って言った。なんにせよどうせ私はすぐにここを出て行くことになる。
この町は恐ろしいほどの田舎だった。人口は前に住んでいた街と比べると格段に少なく、家の周りは森と空き地に囲まれて他には何もない。お隣さんはかなり遠いし、あそこにポツンと教会があるのも謎だった。交通の便も悪い。まだ利用したことないけど30分ほど歩いた所にバス停がある。本数は少ないみたい。
他にも、前に住んでいた街は季節ごとに暑さや寒さがハッキリと分かれていた。でもここは雲が多くて夏は猛暑にならず、冬もそこまで寒くはならないらしい。雲と森のせいでいつも薄暗いけど。7月下旬の今日もムッとする暖かさだった。
家の扉の前に立つと、私はさほど必要性の感じない鍵をジーンズのポケットから取り出して、扉を開けた。蝶番がきしんで高い音を立てる。
玄関をくぐると短い廊下の先にリビングがあった。リビングには応接室セットのような、向かい合わせになっているソファと、間にローテーブルがある。その側にはテレビ。リビングの奥にキッチンがあって、隣にはバスルームもある。
玄関のすぐ横に階段があって、2階は廊下の一番奥が私の部屋。その隣の部屋は物置になってるけど、ママは書斎だって言い張ってて、その書斎の向かいがママとマークの部屋。
私は階段を駆けあがって自分の部屋に入った。いつもの癖で履いているスニーカーを脱ぐ。この部屋を使い始めて1か月経つけど、まだ埃っぽい独特の匂いが抜け切れていない。古いデザインの壁紙に、ベッドと机。私の背より高い本棚。クローゼットがあるだけ。広い部屋じゃないけど小さい私には十分だった。
部屋の隅には引っ越しのときに使った段ボールが畳んで置いてある。その側には今日着るドレスと靴が置いてあった。それが目に入った瞬間、またあの黒い霧が私の中でうごめき始めた。
この黒い霧はいつの間にか私の心に住み着いていて、最近になって巨大化してきていた。息苦しくて暗い気分になるけど、平気なフリはいくらでもできた。私はもう子供じゃないもの。自分の機嫌くらい自分で取る。このくらいガマンできる。
でも勝手に目から涙が零れ落ちてきた。こうなるのは初めてじゃない。泣きたくなんてないのに。
涙が止められないとわかっていたから、私はフラフラとベッドまで行ってそのまま倒れ込んだ。ママたちの結婚が決まった時も、この家に越してきた時もこうして泣いた。理由は見ないふりをしていたけれど、本当はよく知ってる。結婚も引っ越しも自分ではどうしようもできないこと。喚いたところでどうにもならない。静かに泣きじゃくるくらいなら誰にも迷惑はかけないし。式にはギリギリに参加しよう。その方が誰とも話すことはないし、ママにも泣いていたことを気づかれない。
それからどのくらい泣いていたのか分からない。数分のような、数時間のような気もする。喉に痛みが残っていたけれどなんとか涙は止まってくれた。
起き上がって手で顔を拭ったあと、着ていたTシャツの裾でも拭った。だけど黒い霧だけは拭えない。前なら泣くだけで収まってくれたのに、今はコントロールすることも難しくなってる。
ふと、自分の左腕にある爪でできた傷が目についた。痛み止めのようなあの感覚を思い出して、同じ場所を掴む。黒い霧が消えてくれればそれでよかった。爪が食い込み血が滲み始める。もっと強く。もっと激しく。……これじゃダメ。
私はベッドから立ち上がって机の上を見た。本や文房具、私の描いた絵が散乱してる。その中を漁って目当てのものを探した。確かこの辺に…。
あった。ノートの下から出てきたハサミを手にして広げると、鋭く尖った刃を左腕の傷がある部分へ押し当てた。滲んでいた血が刃に着く。
息を止めてゆっくりとハサミを滑らせた。刃が皮膚を裂いていく感覚に身の毛がよだち、鋭い痛みが腕を駆け抜け、我を忘れた。温かい鮮血が溢れる。
もっと強くすれば黒い霧はどこかへ行ってくれる。
そう思ってぞくぞくする背徳感に襲われながら、さらに刃を食い込ませようとした瞬間、ドサッという大きな音が聞こえてハッとなった。
音のした方を見ると、机に積んでいた本が床に落ちて散らばっていた。
私は自分の手に持っている物を見つめる。いま何をしようとしてた?私がやろうとしたことなの?
一気に怖くなってハサミを机の上に戻した。心臓の音が早くなり、呼吸も浅くなる。ちょっと待って。落ち着いて、深呼吸しなきゃ。何か忘れてる…。そう、ママの結婚式なのに。
本棚に置いていた時計を見た。式は11時に始まる予定だけど、あと5分しかない。とっくに席についていないといけないのに、思っていたよりも時間が経ってる。急がなきゃ!
落ち着きを取り戻す暇もなく、さらに鼓動は早くなった。着ていた服を脱ぎ捨ててドレスを被るように着る。ママが選んだネイビーの膝丈ノースリーブドレスと、ヒールの高いシルバーのパンプス。
ベッドに腰かけて足をパンプスの中に押し込んでいると、まだ血の出ている左腕に気付いた。どうしよう…。焦っているせいかあまり痛みを感じないけど、少し目立つ。工夫して綺麗に傷を隠す時間はない。かといって上着を着ると暑すぎるし不自然。そもそもこのドレスに合う上着なんて持ってない。
私はパンプスを履くと部屋を飛び出し階段を下りた。リビングを抜けてキッチンの隣にあるバスルームへ駆け込む。洗面台の下にある収納ボックスから、ガーゼとテープを取り出して、傷を手早く覆った。
とりあえずこれでいいや。さっと顔を上げると鏡の中の自分と目が合った。光の加減で赤と黄色が混ざったように見えるブラウンの瞳は空虚なものになってる。私の瞳なのに他人みたい。それにまだ目の周りが赤い。誰が見たって泣いていたとわかる顔だ。
ママ譲りで赤みの強いブラウンの髪は胸元まで伸びてうねっている。ママがよく言ってた。「髪の色はママで、くせ毛なのはパパにそっくりね」って。
急いで洗面台に置いてあったブラシを掴んで髪をとかしたけど、うねりは少ししか収まってくれなかった。でも顔が隠れて良いかも。
自分の部屋に戻って脱いだジーンズのポケットから鍵を取り出し、ママに借りた白いクラッチバッグの中へ入れた。もう一度手で髪をとかし、ドレスの裾を引っ張ってシワを伸ばしたあと部屋を出る。いつもスニーカーしか履いてないから足がすでに痛い。
家を出て鍵を閉めたあと、早歩きで教会へ向かった。もう11時は過ぎているだろうし、ママとマークは教壇の前に立っているはず。
教会に着くと、正面に見えている両開きの扉が開けっ放しになっていた。そこから真っすぐに伸びているバージンロードが見える。ママたちの姿も見えた。2人はまだ教壇までたどり着いていない。よかった。
教会の中はウェディングロードの左右に4列づつ長椅子が置いてあって、ママたちは前から2列目辺りをゆっくりと歩いていた。参列者は2人に注目して拍手を送っている。私は気付かれずにさっと中に入り、後ろの壁に張り付くことができた。
私の座る席は一番前。けど堂々と前に行く勇気がない。絶対に目立っちゃう。
後ろの方で空いている席を探した。見たところ4人掛けの長椅子はどこも埋まっているように見える。でも左の列の一番後ろにある長椅子、その左端に座れそうなスペースを見つけてそこに滑り込んだ。私の右側には男性が3人いる。
クラッチバッグを椅子に置いて、最初からそこにいたような顔を作り、拍手に参加する。高いヒールを履いてるくせに、私の背が低いせいでママたちの姿は人の間からチラチラとしか見えない。やがて拍手が止み、参列者たちは着席した。牧師さんのお決まりの言葉で式が進められる。座っても相変わらず誰かの頭が重なって2人の姿は見えない。仕方なく私は見るのを諦めて音に集中することにした。
牧師さんの言葉を聞き始めて少し経った頃、とつぜん私の右隣に座っていた男性が何か呟いた。私は足が痛くて、踵をパンプスから出し入れしていたから、それを気にしなかった。
男性はもう一度、今度は低くしっかりとした発音で私に話しかけてきた。
「え?」私は驚いて男性を見た。
座っていてもわかる背の高さ。体格が良く、背筋をピンと伸ばしていて品を感じられた。パリッとしたシワのない白のシャツと、青みの強い黒のスーツに同じ色のネクタイを締めている。顔立ちには知性が見て取れた。四角い輪郭で、彫が深く鼻が高い。引き締まった口元。緑とグレーの混ざった瞳で私を見降ろしていた。すごく綺麗な瞳…。
「その腕、どうしたの?」男性はさっきより声を高くした。
私は咄嗟に膝にのせていた左手を男性から見えないように引っ込める。「なにも」とついぶっきら棒に言い返した。知らない人と話すのは私にとってたくさんのエネルギーを使う。
「泣いてるの?」彼は抜け目なく私の泣き顔を発見し、姿勢を崩して覗き込んできた。綺麗な瞳がおかしそうに輝いている。
私は恥ずかしくなって男性から顔を背けた。頬に熱がこもる。うねりの強い髪が間に入ってくれて助かる。それと同時にほっといて欲しいとも思った。
何も答えないでおこうと考えたけど、髪の隙間から男性がまだ答えを待っているのが見えた。泣いてないというべき?それとも結婚式が感動的だからって?ママが結婚するのが悲しくてって?どっちにしろ嘘だけど、言葉が口から出て行ってくれなかった。
「泣いてません」答えるのに間が空いたせいで私の声はかすれた。これじゃどう聞いても泣いているように取られる。
「そう」男性はあっけなく言い、背筋を伸ばして前を向いた。
見つめられていたプレッシャーから解放されて、私は鼻から息を吐き前を向いた。
「彼らとどういう関係なの?」男性は前を向いたまま小声でまた尋ねてきた。
目だけを動かして男性を見ると、私の方に少しだけ頭を傾けていた。なぜ私に話しかけてくるの?こんな私なんかに興味を持つなんて…。地味だから今まで誰にも興味を持たれたことはないのに。しかも初対面で名前も知らない。挨拶もない。
でもこの人もただ疑問に思ってるだけかも。この式に来ているのは大人が大半で、子供は2,3人いるけどどの子も小さい。私みたいなティーンエージャーは他に見当たらない。それに私は髪がボサボサで、メイクもしてない。泣きはらした顔で遅れて来て、ガーゼを腕にくっつけてるなんて明らかにおかしいに決まってる。
「新婦の娘です」私は少し声を尖らせて答えた。そして前の列に座っている男性の後頭部を見つめる。この人は誰だっけ?私の隣にいるこの人も、誰なんだろう?
「娘?」隣の男性は驚いて私を見た。「じゃあ前の席に座らないといけないんじゃない?」と前を指す。「そういえば、遅れて入ってきたよね。どうしたの?」彼の声に微笑が含まれているのが分かる。どうやらさらに興味を持たれてしまったみたい。
私の顔はまた一段と赤くなった。恥ずかしくて答えたくない。質問は聞こえなかったフリをして、曖昧に相槌を打っておいた。
私がハッキリ答えないとわかると、男性は諦めたようでまた前を向いた。
そこで会話は終わったけど、私の頭の中は男性とのやり取りを思い返して、なんと答えれば良かったのか探していた。いつもこう。あとからこう答えればよかった、ああ言えばよかったって後悔する。本当に話すのが下手くそ。
私は平静を装って、ふたつ前の列に座っている女性を見る。頭のてっぺんに綺麗にまとめられたブロンドの髪は、根元が黒くなっている。あの人は確か…。ママの友達だったはず。こんなところまで来てくれたんだ。私にはこうして駆けつけてくれる友達はいない。
勝手に惨めな気分になって口を固く結んだ。最初から前に座っていればよかった。ちょっと恥ずかしい思いをするだけで済んだのに。もしくは来るべきじゃなかった。辛くなるってわかってたのに。あのままハサミを握っていればよかったかもしれない。
自分じゃない自分に身を任せていた感覚を思い出して、両手をギュッと握りしめた。手のひらに爪が刺さる。
「ごめんね」と隣から聞こえてきて、私は力を抜いた。「怒らせてしまったのなら謝るよ」
隣の男性を見ると、ちょうど彼の黒い髪が揺れて目にかかり、それを大きな手で払いのけて決まりの悪そうにうつむくところだった。
ママが牧師さんの言葉を繰り返している声が聞こえる。いつの間にかマークの番は終わっていた。
男性のうつむいた横顔に幼さが見えて、私は焦った。何か言わなくちゃ。悪いのは私の方なのに。
「いいえ。なんでもないです」慌てて返したせいで相応しくない返事になってしまった。
それでも男性は私に向かって目尻に小さなシワを寄せて微笑むと、また姿勢を正して前を向いた。
この人は誰なんだろう?たぶんマークの知り合いだろうけど、それを聞く勇気は出ない。この人には前にいる2人が見えてるのかな?
私は男性から視線を外してママの声に集中した。リラックスしたママの声で自分を落ち着かせたかったけど、彼女の声はすぐに止んで、牧師さんが2人にキスを求めた。
一瞬、教会の中が静かになったあと拍手に包まれる。
私も周りに合わせて拍手を送った。2人のキスは何度も見てきたけど、この時はなぜか見えなくてよかったと思った。このあと2人は退場し、教会の横にある庭でちょっとしたパーティーが行われる。
昨日、マークが職場からテーブルと椅子をいくつか持って来て教会の庭に並べておいた。料理は‘近く’のレストランにデリバリーをお願いした。そして今朝、私はママの支度の手伝い、マークは車で駅に行ってママの友達を迎えに行っていた。
ハンドメイドの結婚式だからパーティーもすぐに終わるだろうけど、私は式が終わったらさっさと帰るつもりだった。でもママは出ろっていうはずだから、こうなったら見つかる前に帰るしかない。
ママとマークがゆっくり出口に向かって歩いていく。拍手とシャッターの音が響く中、笑顔を見せていたママは私を見つけると、怒りの視線を突き刺してきた。まずい…。
2人が教会を出ると参列者も出口へ向かった。私もそれに紛れて身を縮め、素早く外へ出る。急いで教会の敷地から出ようするとママの声が飛んできた。
「リサ!」
私の足はピタッと止まり、機械のように呼ばれた方へ向かった。ママは眉間にシワを寄せて私を睨んでいる。
「あなた何してたの!?どこにもいないと思ったら一番後ろにいるなんて!」
怒っているママの隣でマークがなだめるように彼女の肩を抱いた。彼は半そでの白いシャツに淡いブラウンのベストスーツ姿で、暗いブロンドの髪をかっちりと固めていた。
「どういうつもり?」ママは腕を組んだ。
「ちょっと遅れて入っただけ。前に行けなかったから…。でもほとんど見てたよ」こうやって嘘をつくときはスルスルと言葉が出てくる。
「なんで遅れたのよ?言ったじゃない、早くしなさいって」
「ごめんなさい…」私はうつむいた。
「まったくもう」
「ママ…」このままだと嫌な雰囲気になっちゃう。「今日はおめでとう。とっても綺麗で感動しちゃった。マークも。2人ともすごく素敵」明るく聞こえるよう言った。頭の中で今日は素晴らしい日なんだからと自分に言い聞かせる。
「ありがとうリサ」マークが笑顔で返してくれた。するとママもそれにつられて微笑んだ。
「ママも嬉しいわ。ありがとう。あなたのドレスも素敵だけど、髪の毛はまとめた方が良かったんじゃない?」ママは私のうねった髪に触れた。
「そうだね。ちょっと言うこと聞いてくれなくて」私が苦笑いをする。
「まったく。あなた、絵を描くのは器用なのにね」ママは呆れた笑顔で私を抱きしめた。
私はママを抱きしめ返したあと、マークともハグした。そしてさりげなく帰ろうとすると、ママはさっきの怒った目で私を引き留めた。
「パーティーには出るのよね?」
また体が固まる。式に遅れたちゃったし、これは反省して出た方が良さそう…。返事する前にママが私の左腕を取った。
「あら?どうしたのこれ?」とガーゼを指す。
「家を出るとき扉に引っ掛けちゃったの。大した傷じゃないから」私は誤魔化した。
「だから遅れたのね。もう、しょうがない子。気を付けてよ」ママは私の左腕を離すと、右腕を組んだ。
こうなったらどうすることもできない。「挨拶だけね」と私は降参した。
「さ、行きましょう」ママは聞いてないふりをして私を引っ張った。
まず最初にマークのお母さんとお姉さんと話をした。そのあと私は愛想がよく見えるように笑顔を張り付けて参列者に挨拶して回った。マークがその都度紹介して話を広げてくれるけど、私は相槌を打つだけだった。けれど私の隣に座っていた男性のときは少し違った。
「僕の友人。同級生なんだ」マークは男性を指さした。
マークと並ぶと、男性の方が10cmほど背が高い。150cm台の私とは30cmくらい差があるかも。同級生ということはこの人も31歳かな。マークと違って若くも見えるし、年相応にも見える。
「初めまして。エドワード・ターナーと申します。マークからあなたのことは伺っていました」ターナー氏は明るめの声で礼儀正しく自己紹介をすると、ママに手を差し出した。
「ブレンダです。私もマークから時々あなたの話を聞いてたわ。やっとお会いできて嬉しい」ママはさっきから何度も繰り返している言葉を言って、ターナー氏と握手をした。
ママと手が離れると、彼は私にも手を差し出した。「初めまして」
「は、初めまして…」私は内心驚きつつも、彼の手を握った。大きくて、骨張っていて、あたたかい手だった。さっきのことを言わないのは不思議に思ったけど、初対面のフリをしてくれて有難かった。ママに聞かれたらたまったもんじゃない。
「娘のリサです」私がさっと手を引っ込めると、ママが紹介した。
「彼はこの町の高校で教師をしているんだよ」マークが言う。
「あら!そうなんですか?」ママが私を指す。「この子、9月からこの町の高校に通う予定なんですよ!」
ターナー氏は頷いた。「はい。そうです。数学の教師として勤めています」
「マークの知り合いがいるならリサも安心して学校に行けるんじゃない?」ママは私に言った。
自己紹介が省けたのはいいけど、私が通う高校にマークの友達がいるなんて初めて聞いたんですけど…。私はマークを見た。彼は私の視線に気づかなかった。
「そういえば転入生がいると聞いていましたが、君だったんだね」ターナー氏は私を見降ろした。どうやらマークはターナー氏にも私のことを言ってなかったみたい。
「はい」私は口の周りの筋肉を引っ張って返事をした。
「ということは、君は17歳くらいかな?」
「そうですよ」ママが答えた。ちゃんと自分で答えようと思ったのに。「この子、10月で18歳になっちゃうんですよ。あっという間に大きくなっちゃって」と感慨深そうに私を見る。
ママったら…。
私はこの顔と身長のせいで実年齢に見られたことがない。きっとターナー氏も私のことをもっと若いと思ってたに違いない。
「そうですか」ターナー氏はママに返事をしたあと私を見ると、目尻にシワを寄せて微笑んだ。「ぜひ数学を取ってほしいな」
私はその微笑みに恥ずかしくなって、彼の顔から視線を下げた。さっきは閉まっていたはずのジャケットのボタンが開いていて、ネクタイピンが見える。幾何学模様の描かれたゴールドのピンは、数学の先生だからつけてるのかな?なんとなく彼の雰囲気には合っていない気がする。
「すみません…。数学は苦手で。前の学校で必要な単位は取りましたし」私は遠回しに取らないと宣言した。それを申し訳なく思うのと同時にホッとし、さらに視線を下げて彼のとんがった靴の先を見つめた。
「それは残念。また学校で会ったらよろしくね」ターナー氏がどんな表情だったかわからないけど、声は本当に残念そうな色を含んでいた。
「はい」私は返事をした。
マークとターナー氏が談笑に入ったところで、さっき見かけたママの友達が話しかけてきた。
「ブレンダ!リサ!」
「ロゼッタ!」ママはロゼッタを抱きしめた。
私は彼女たちを見ていたけど、耳はマークとターナー氏に向けていた。
「言ってなかったっけ?まぁ、サプライズだよ」マークが陽気に言った。
「おいおい」ターナー氏は声を落とす。
「いいじゃないか、ランス」
ランス?
「リサ!あなたまた綺麗になって!」ロゼッタが私に話しかけてきて気が逸れた。彼女は私をハグする。
「いいえ。私は何も変わってないですよ」私も彼女を抱きしめ返した。
私とロゼッタがひと通りの会話を終えると、ママはマークも交えてロゼッタとおしゃべりに花を咲かせた。ターナー氏の姿も側になかったので、私はここがチャンスだとママに捕まる前にひっそりと庭を抜けて家に帰った。足の指が悲鳴を上げている。
自分の部屋に行ってドレスとパンプスを脱ぎ、Tシャツとジーンズを着た。そのあと何気なく机の上を見ると、血のついたままのハサミが目に入った。
冷たい恐怖を感じてすぐに引き出しの中にそれを突っ込む。心を落ち着かせるために深呼吸をした。そして床に散らばった本を片付けて、お気に入りの小説を手に取る。何度も読んだ小説だから、絵を描くときみたいに集中することもなくリラックスできるはず。
裸足のまま小説を持ってキッチンへ移動し、冷蔵庫からフルーツジュースを取り出した。パーティーでは何も飲み食いしてなかったから喉がカラカラ。ジュースを飲みながらリビングのソファに座り、小説を開いて読み始めた。
半分ほど読み進めたとき、家の電話が鳴った。急いで立ち上がって受話器を取る。
「はい?」
「リサ?」ママだった。「やっぱり帰ってたのね。こっちは終わったから片付けに来て」
「うん…」時計を見ると、帰って来てから2時間ほど経っていた。片付けもやらなくちゃ…。
電話を切って自分の部屋でスニーカーを履いた。体が重いな。大した運動もしていないのに、今日は疲労感が全身に回っている気がする。ひとつため息をついてから家を出た。
教会へ行くと人はまばらになっていて、ママは帰る人にお別れの挨拶をしていた。
「ママ」私は声をかけた。
「あ、リサ。来たのね」ママはニコッと笑った。「マークがあそこにトラックを置いてくれたから、庭にあるテーブルと椅子を乗せてちょうだい」と道路に置いてあるピックアップトラックを指す。
「分かった」
この教会の近くに空き地があって、参列者の車とあのトラックはそこに停められていた。
「あ、そうそう。マークがトラックを運転する予定だったけど、あなたが運転してマークの職場にテーブルと椅子を置いてきてくれない?」ママは言った。
「どうして?」
「私とマークはロゼッタたちをホテルまで送るの。そのまま一緒に食事をすることなったから。それで、どうせなら私たちもホテルで1泊しようと思って」
「え?」私はポカンと口を開けた。
「ロゼッタたちと久しぶりに会ったのよ?もう少しおしゃべりしていたいの。それに夫婦の時間も必要でしょ?私たちハネムーンには行かないんだから。ちょっとだけ。ね?お願いリサ」ママは少女みたいに可愛らしい顔で私を見た。
「でも…。マークの職場の場所よく知らないし…。明日じゃダメなの?」ママの気持ちもわかるし、夫婦の時間が必要なのもわかるけど…。
「明日は明日でやることがあるの」ママは腰に手を当てた。「病院にも行かないといけないし」
「病院?なんで?」私は驚いて変な声が出た。
「どうかしました?」ママが答える前に、私の後ろからターナー氏が声をかけてきた。私はさらにパニックになる。
ママは明るい表情をしてターナー氏に事情を説明した。すると彼は即座に頷いた。
「よければ案内しましょうか?」ターナー氏は真面目に言った。
やっぱりね。なぜか彼ならそう言うと思った。
「そんな、悪いわランスさんに」ママは困った顔をしたけど、きっと本気でそう思ってない。しかもいつの間に彼の呼び方を変えたの?もう仲良くなったの?
「構いませんよ」ターナー氏は快くオーケーした。
「いや、そんな、」私はあのネクタイピンを見ながら慌てて口を挟んだ。
「いいんだよ」彼の低い声が私の頭の上で響く。
「そう?じゃあリサ、お言葉に甘えてお願いしなさいな。どうもありがとうございます、ランスさん」ママは笑顔だった。
「ちょっと、」
私の制止は聞かずに、ママはマークのところへ行ってしまった。
ちょっと待って。片付けはするし、1泊してくるのも全然いいけど…。それよりも病院ってなに?
私は少しイライラしながらターナー氏の横を通り過ぎて、庭に置いてあるテーブルとイスをトラックに乗せた。ターナー氏が何も言わずに手伝ってくれたから、すぐ何もない庭に戻った。
「入り口に置いてくれたらいいから」私が最後の椅子をトラックに乗せようとすると、マークが私たちの元へ来た。「ごめんねリサ。ランスも。仕事仲間に頼もうかと思ったんだが、もう帰っちゃったみたいでさ」
「うん」私は苛立ちを出さないように簡単に返事をした。
「いいよ」ターナー氏も嫌な顔をせずに言った。
マークは「よろしくね」と言って軽く手を挙げたあと、深緑色のドレスに着替えたママの元へ走って行き、ロゼッタたちと共に空き地の方へ去って行った。
私は手に持っていた椅子をトラックに乗せる。そのあと運転席へ行こうとすると、同じ方向へ進もうとしていたターナー氏とぶつかってしまった。反動でバランスを崩す前に、左の肘を大きな手に掴まれる。
「大丈夫?」ターナー氏は聞いた。
「は、はい。大丈夫です。すみません」咄嗟のことに動揺して、私の心臓が一気に跳ね上がった。ターナー氏はすぐに手を離してくれたけど、まだ肘を掴まれているような感覚が残っている。
「痛くなかった?」彼は私のケガを心配してくれた。
「はい。ありがとうございます」顔を上げてお礼を言うと、ターナー氏と目が合った。ちょうど雲の隙間から夕日が差し込み、彼の緑とグレーの混ざった瞳を照らして宝石のように輝かせる。
「行きは僕が運転しよう」
「え、あ、はい」その輝きに気を取られていて、私は反射的に答えた。
ターナー氏は運転席に乗り込み、私もトラックを回り込んで助手席に収まった。
「この道をしばらく行くとガソリンスタンドがあって、そこを曲がる。そうしたらマークの職場に着くよ」
「わかりました」
行きの道は説明のみで、会話らしい会話はなかった。気のしれた相手なら沈黙は何とも思わないのに、知らない人だとなんとかして埋めなくちゃいけないと思っちゃう。でも私の頭の中には彼への質問が浮かんでいるのに、まったく言葉が口から出て行ってくれなかった。
マークの職場に着くと、言われた通りテーブルと椅子をお店の入り口前に置いた。ターナー氏はこれも手伝ってくれて、帰りの運転は私に譲ってくれた。
助手席に乗った彼は私との間に脱いだジャケットを置き、シャツの袖を捲った。首元のボタンを外してネクタイも緩めている。辺りは陽が落ちかけているのに、生ぬるい空気が漂っていた。
私はエンジンをかけて車を進める。来た道を戻るだけなのに、私はあまり方向感覚が良くないから間違えないか不安だった。
「数学は苦手だって?」車を走らせるとすぐにターナー氏は言った。もしかすると彼も沈黙を埋めようとしてくれているのかも。
「はい」
「どうして?」
どうしてって言われても…。「基礎はできるんですけど、応用になるとダメで…」
「なるほど」
私みたいな子を何人も見てきているんだろうな。彼にとっては教えるのが楽勝でも、私は数学を取らないと決めていた。
「マークとは同級生なんですよね?」勧誘や説得をされる前に話題を変えようと私は急いで質問した。チラッと隣を見ると、ターナー氏は窓の外を見ていた。
「そうだよ」
「彼とはよく会うんですか?」私は同じ速度で走ることに集中する。
「最近は全然。メールするくらいだよ。昔はよく遊びに行ったけどね」視界の端で彼がこっちを向くのが見えた。
「マークから私のこと聞いてませんでいたか?」パーティーで盗み聞きしたことを尋ねてみた。
マークはたまに肝心なことを言い忘れるときがあるの、とママが言っていたのを思い出す。これもそうなんだろうな。
「結婚相手の女性に子供がいるというのは聞いてたが、その子がどんな子で何歳かまでは言ってなかったんだ。てっきりもっと小さい子かと思ってたよ。君が転入生と知って僕も驚いた。学校で君の名前が出ていたかもしれないが、スミスなんてよくある苗字だからね」
「そうなんですか」マークってば…。
次の質問が出てこなくて、私は必死に頭の中を引っ掻きまわした。あれ、この道で合ってたっけ…?周りを注意深く見回していると、ターナー氏が何か言った。
「え?」と少し顔を傾けて聞き返す。
「君はなぜ遅れてきたの?」
「あー…」話題を提供してくれたのは有難いけど、答えにくい質問だった。泣いてたから?知らない自分に支配されそうだったから?素直に答えるわけにもいかず嘘をつくことにした。
「寝てたんです。ターナー先生」いかにも学生っぽい答え。
「ランスでいいよ」彼は名前の方を指摘した。
隣を見ると、長身のターナー先生は窮屈そうに体勢を変えていた。トラックだから座席を下げることができない。
「いえ、先生になるわけですし…。ミドルネームですか?」
「そうだよ」彼はこちらを向く。
目が合いそうになったから私はすぐに前を向いた。
「エドワードは祖父の名前でもあるから」
「おじいさん?」
「そう。僕はずっと祖父母と暮らしていたんだ。同じ名前だとややこしいだろう?だから親しい人は僕のことをランスと呼んでいる。祖父は友達の多い人でね。最近は体調を崩して外出することは無くなったが、」ターナー先生の声は切なくなった。「素晴らしい人だよ」おじいさんを尊敬していることが伝わってくる言い方だった。
「へぇ」
「僕はこの町の育ちで、大学入学を機にここを出た。それからずっと別の街に住んでいたけど、今から1年ほど前、祖父が体を悪くしたからここへ戻ってきたんだ。祖母は早くに亡くなっていて、彼1人だったから」
「あぁ…」なんと返していいかわからず、私は曖昧に答えた。彼の両親や他の家族のことが気になったけど、そこまで深く聞くことはできない。
そこから会話は途切れてしまい、ずっと沈黙が流れた。私は奇跡的に迷うことなく教会近くの空き地にたどり着き、トラックを停めた。エンジンを切らずにターナー先生の方を向く。
「ありがとうございました」外はすっかり暗くなっていて、ヘッドライトの明かりを頼りに彼の顔を見た。
「どういたしまして」ターナー先生は低い声で言い、目が合った。さっきは宝石みたいに綺麗な瞳だったのに、今は黒い石のように見える。
じっと見つめあっているのが恥ずかしくて彼のジャケットに視線を落とすと、時間を失った。また沈黙が私たちの間に流れる。
「ねぇ」
優しい声に呼ばれ、私は顔を上げた。
「はい?」再びターナー先生と目が合う。今度はかすかな光が反射して、彼の瞳は水晶玉のように純粋に煌めいた。
「あ、いや…」ターナー先生は首を振る。「いいんだ。それじゃ、また学校で」
「はい…」どうしたんだろう?
ターナー先生はジャケットを手にしてトラックを降りると、振り返ることもなく扉を閉めた。そして空き地に唯一残っていた車へ向かう。車名はよくわからないけど、あの大きなSUV型の車なら彼でも楽に座れそう。色は濃いめのシルバー。
ターナー先生が車に乗るのを見届けて、私はトラックを動かした。バックミラー越しに彼の車のライトがつかないか確認していたけど、灯ることはなく、私のトラックは空き地を抜けて暗闇の中を進んだ。