DAY,4
コーヒーを2杯用意した。誰かのためにコーヒーを淹れるのは久しぶりだったが、リサは飲めるだろうか?
2階へ上がり、ドアをノックして開けると彼女はまだ寝ていた。
「リサ」僕は朝食を机に置いて起こした。彼女は2度呼びかけただけで起きてくれたが、体を起こすと深くため息をついて壁にもたれかかった。朝は苦手か?
「おはよう」と言ってマグカップをひとつ渡す。「コーヒーは飲める?」
「はい…。ありがとうございます」リサは目をギュッとつぶってからマグを受け取った。声が詰まっていて辛そうだ。
「君の健康状態が心配だな。病気をしたことは?アレルギーなんかはある?」
「ありません」
「朝は苦手?よく眠れなかったか?」リサのふわりと広がった深みのある茶色の髪を耳にかけてやろうと手を伸ばしたが、触れてはいけないことを思い出してやめた。
「寝た気がしなくて…」リサはコーヒーをひとくち飲み、手で髪を梳いた。
「そうか」寝心地が悪いのか、ストレスのせいか…。あとで調べておこう。
朝食を共に摂ったあと僕は仕事に行くために着替え、ウィズユーをリサの部屋へ連れて行った。今日は彼女に宿題を出す。
「僕は仕事に行ってくるから、君は彼の絵を描くように」
「え?」
「宿題だ。やってごらんよ」
「あぁ…」リサはどっちつかずの返事をして、僕の足元へ視線を落とした。
「どうした?」同じように足元を見る。何もない。
「いえ、その緑がかったジーンズ」と僕の履いているジーンズを指した。よく履いている普通のジーンズだ。「先生に似合ってると思って」
おっと。不意を突かれて動揺し、僕は目が泳いだ。「それは…。ありがとう」なんだかくすぐったい。照れるというやつか。髪をかきあげると口角まで上がった。他人から褒められることは何度かあったが、リサが言うと別物に聞こえる。ジーンズではなく‘僕’に似合うと言った。なんだかくすぐったい。
「その、そうだ。君の服。洗濯をどうしようかと思っているんだが」照れ隠しのために話を変えた。
「バスルームで手洗いします」
「洗濯機を貸すぞ?」リサの服は洗いやすいものばかりだったとはいえ不便だろう。
「いいえ、大丈夫です。自分でやります」
自主性が出ているのはいいことだが、もっと頼ってくれてもいいのに。
「むかし洗濯機が壊れて、何日か手洗いで過ごしたことがあったんです」僕が不満そうな顔をしていたせいか、リサはなんてことない様に言った。
「わかった。あとでハンガーを持ってこよう」僕は腕時計を見た。遅刻ギリギリだ。「まずい。もう行かないと。宿題忘れずにね」
「あの!」部屋を出ようとすると呼び止められた。
「ん?」
「ありがとうございました。色々と気を使って頂いて…」
僕は微笑んだ。「いいさ」
リサは今どのあたりにいるだろう?少なくとも崖っぷちにはいないだろうが、もう少し様子を見よう。ハンガーと昼食をリサの部屋に持って行ってから僕は学校へ向かった。
「ターナー先生」学校に着くと事務室の前で声をかけられた。
「あぁ、モリス先生」彼女は前の数学担当教師だ。急に辞めてしまった先生。50代くらいで、柔和な授業をすることから生徒に人気があった。
「久しぶりね。私の授業まで掛けもってくれてありがとう。本当に助かったわ」モリス先生は微笑んだ。
「いいえ。復職なさるんですか?」できればそうしていただきたい。モリス先生は信頼もおけて仕事がしやすい。フィッツ先生とはどうもウマが合わなかった。
「いいえ。今日は挨拶に来ただけなの。色々と落ち着いて時間が出来たから。教師は辞めて、これからは実家でのんびり暮らすわ。本当は定年まで教職を続けたかったんだけど、親の介護につきっきりになって無理そうだから」
「そうですか」やはりあの若い先生とやっていくしかないのか。だがそれもあと1年で終わり…。
「生徒は卒業しちゃったからずいぶん少ないわね」
「えぇ」そういえば、リサの大学はどうなっている?すっかり抜け落ちていた。
「あなたはどう?ちょっと疲れてるんじゃない?」モリス先生の問いかけに、僕の考えは中断された。
「平気ですよ」僕を乱す猫が来てから疲れる暇もない。
「そう?休息はしっかり取らなくちゃダメよ。いくらあなたが大きな体だからって、心配だわ」モリス先生は僕を見回した。母親がいるならこんな感じなのだろうか?
「ありがとうございます。健康には気を付けていますよ」
「ならいいけど…。あ、補習を受けていた子たちは全員単位が取れたのよね?」
「はい。無事に」リサの友人も補習を受けていたな。名前は確か…。
「よかったわ。ザックは頭のいい子だから心配いらなかったけど、ピーターとアレックスが心配だったから」
そうだ。アレックスだ。リサの友人。彼女が補習を受けていた理由は何だったか…。
「全員頑張っていましたよ」生徒に興味がないと名前も補習を受けていた理由もすぐに忘れる。「特にアレックスは」僕は咄嗟にモリス先生に探りを入れた。
「そうよね。あんなことがあったんですもの」
あんなこと?「何かありましたっけ?」
「あら?あなたも知ってるでしょ?彼女が不登校になったのは去年の1月からだから」
「あぁ、そうでしたね」知っているふりを装った。
僕がここに来たのは2005年の9月だ。アレックスが不登校になったのが2006年の1月?……全く覚えていない。くそっこんな時に限って。
「偉い子よね」モリス先生は感心した。
「そうですね」僕は同調した。必死に頭の中を引っ掻きまわす。「きっと強い子なのでしょう。それに周りのサポートもあって」と適当に話を続けてみた。不登校だったのにまた通うようになったのなら今の会話は自然だろう。
「えぇ。でも親しかった友人との出来事だから、きっとご家族のサポートのおかげで立ち直れたんでしょうね。彼女にとってこの1年は辛かったはずよ。それでも通い続けて卒業するなんて、本当に強い子だわ。にしても、あんないい子が事件を起こすなんて考えられない。当時は信じられなくて…。いまでも違和感が残ってるの。でも見たって子がいるし…」モリス先生は首を傾げた。
親しい友人との事件。うむ…。
「もう過ぎてしまったから今更どうしようもできないけど、これからはたくさんの良いことがあの子にあって欲しい」
「そうですね」2006年の1月…。
「で、あなたはどうなの?」
「え?」なんのことだ?それよりも考えなくてはいけないことが沢山あるのに。
「おじいさまと2人なんでしょ?」
「あ、いいえ。祖父は2月末に亡くなりました」とつぜん肩が重くなった気がした。軽く回してほぐす。古傷が疼くというのはこういうことか?いや、祖父が亡くなってまだ3か月だ。真新しい傷が癒えていないだけか。
「そうだったの?ごめんなさい。知らなかったわ」モリス先生は眉を下げた。
「いいんですよ」
「あなた、結婚はしてなかったわよね?恋人は?」彼女は僕の左手を見た。
よしてくれ。その質問は祖父の葬儀のときにもされた。彼の大勢の友人が僕を心配して。
これから1人で生きていくのが怖いとは思っていなかった。しかし昨夜、リサがいなくなることを想像すると恐ろしく思った。それは予想もしてなかったことであり、その原因がどこから湧いて出てくるのかも分からない。
「いいえ。いません」そんな暇ない、という意味で素っ気なく言った。
「あら。誰か紹介しましょうか?」モリス先生はそれを勘違いして受け取った。
「いや、今はそういう気分ではなくて。お気遣いありがとうございます」
「そう?それじゃ何かあったら言って頂戴ね。いつでも相談に乗るわ。お仕事頑張って」
「はい。モリス先生も」彼女と会うのはおそらくこれが最後になるだろう。
モリス先生と別れて教室へ向かっていると、フィッツ先生に話しかけられた。
「ターナー先生。さっきの人は前任の方ですよね?」彼女はポニーテールを揺らした。
「そうですよ」
「何か御用だったんですか?」
「いいえ。挨拶に来られただけです」
「そうなんですか。ずいぶん親しいんですね」フィッツ先生は視線を鋭くさせた。
おいおい、こっちもよしてくれ。君の嫉妬に付き合っている暇はない。
「なんのお話をされてたんですか?」彼女は尋ねた。
「別に。補習の話とかですよ」いちいち彼女に腹を立てる必要はない。適当に流せばいいだけだ。
「ターナー先生は私が来るまで数学の授業全部と補習もされてたんですよね?すごいなぁ。私なら音を上げて放り出しちゃいますよ」
「たった少しの間だけですよ。モリス先生がプリントを残してくれましたし。そのあとはあなたが補習の担当をしたでしょう」
「1日でも私はすごいと思いますよ?ターナー先生は謙虚なんですね。お忙しいのにそつなくこなしてしまうなんて、本当にすごい。尊敬します」
僕をいくら褒めても何も出ないぞ。リサのときとは大違いだな。早く帰って彼女に会いたい。
「いいえ。僕なんてまだまだですよ」無表情で言った。上手く返しておけばいい。これでもリサと比べれば僕のは謙虚のうちに入らないだろうな。
「きっと授業も素晴らしいものなんでしょうね。私もターナー先生の授業を受けてみたいです。生徒がうらやましい」フィッツ先生は懲りずにベラベラとおしゃべりを続けた。「生徒からの評判もいいんですよ。例えば、えっと…。アレックス!補習のときに言ってました。ターナー先生のことをべた褒めしてましたよ。女子生徒からの人気も高くてさすがです。私も見習わないといけませんね」
アレックスの名前が出たところで僕はフィッツ先生を見た。補習を引き継いだのなら彼女もアレックスと面識がある。
「あなたも人気が高いでしょう」何か聞き出せないか鎌をかけてみよう。「アレックスとそんな話をするなんて、仲がいいんですね」ほんの少し微笑んで見せる。
「そんな全然!」フィッツ先生は頬を染めて目をパチパチさせた。「彼女は親しみやすい子でしたから。明るくていい子でしたよね」
「えぇ」
「成績も悪くなかったし、賢い子なので、なんで補習を受けているのか不思議でしたよ。でも停学を受けていたと聞いて驚きました」
停学処分?それで不登校になったのか?もっとしっかり覚えておくべきだった。思い出せ、何があったのか。
「いい子でも友達とケンカすることがあるんですね」フィッツ先生は呑気に言った。
「停学処分の理由までご存じなんですね。なにかの書類に記してありましたか?」
「本人が言ったんです。でも詳しくは教えてくれなくて。ターナー先生は喧嘩の理由をご存じですか?」
いくら仲良くなったとはいえ、教師にそこまで教えないだろう。リサも教えてはくれない。親睦を深めたとしても全てを打ち明けてくれるとは限らない。
「いいえ。知りません」
「そうですかぁ」
その後フィッツ先生はおしゃべりを続け、また食事に誘って来た。彼女はただ単に食事に誘っているわけではない。それだけで終わらせようとは思っていないだろう。僕は曖昧に流して教室に入った。
やっと仕事を終えた。徹夜して3日は学校に居続けている気がする。そのくらい長く感じた。
家に向かって車を走らせながら思索に耽る。リサの大学の話は帰ってから聞くとして、まだ死にたいと思っているなら別だが…。今は約束を守って死なずにいる。あの部屋から出せば死ぬだろうか?こんなゲームを持ち掛けたのは僕だが、一瞬でも気を抜くと成功はしない。彼女を生かすも殺すも僕次第だ。改めて身が震える。
いまさらリサを放り出すなんてできないが、もし彼女が別の場所で生きたいと思っているなら自由にしてやるべきだ。僕のわがままで彼女を縛ってはいけない。
そしてアレックスのこと。聞き出した話を照らし合わせていくと、段々と思い出してきた。2005年の12月にアレックスが揉め事を起こし、教師全員で処分をどうするか会議が開かれた。揉め事の内容は覚えていないが、会議に参加したことはなんとなく記憶にある。
アレックスは1か月の停学のあと不登校になった。原因が何であれ、評価の高い彼女が事件を起こすとは考えにくい。
その事件とリサが関係あるのか?まだ転校してきていないのに。事件を知って関係がこじれたか?リサはそのくらいで友人関係を破棄するような子じゃないだろう。だとしたら無関係なのか?
まったく。子供の考えていることは理解できない。ダメだとわかっているくせに騒ぎを起こしたりする。幼稚で、本能に従って生きているのを見ると嫌気がさす。それなのに僕は教師なんかをやっている。
僕が教えているのは数学であって、道徳ではない。人としてのルールやマナーを教えることはできない。本来なら教師はそういった役割も担わなくてはいけないのに。僕にはできない。
……今は自己嫌悪に陥ってる時ではない。とにかくまずはリサの事だ。
家に着いてすぐリサの部屋に行った。宿題のチェックといこう。ノックをして入るとリサは机で本を読んでいた。彼女が視界にいると安心する。よかった。まだ生きている。昼食もちゃんと摂ったようで、朝より顔色がいい。
「宿題はできた?」
「まぁ…」曖昧な返事だった。
「見せて」
リサはスケッチブックを開いて僕に見せた。そこには鏡に映したかのように忠実にウィズユーが描かれていた。
「すごい。上手だね」紙の端に小さくLの文字とそれを囲む丸が書いてあった。彼女のサインか?
「ウィズユーは真っ白だから、難しかったです。全然だめ。似てない」リサはぶっきらぼうに言う。
「つまらないかどうかは僕が決めると言っただろう。評価は素直に受け取りなさい。自分の腕に自信を持って」と励ました。
彼女は首を振る。「私には才能がない」
「才能を持っている人間はそうそういないよ。みんな努力しているんだ。君だって今まで何度も絵を描いてきたんだろう?僕が今この絵をさらっと描けるなら、教師なんてとっくにやめてる」絵心のない僕からすれば、リサを尊敬する。そうとうな努力をしてここまで画力を上げたのだろう。
なぜかリサに対しては他の生徒のように嫌気がさすことがない。彼女には子供らしさがない。容姿は幼く見えるが、中身には達観した部分がある。しかし危うさや儚さもあり、僕は放っておくことができず、彼女にちゃんとした道を歩んでほしいと思っている。だから僕は彼女を励ましている。
「ゼロに何を掛けてもゼロにしかならないですよ」リサは意固地になりそっぽを向いた。
「いきなり掛け算なんかするな。基礎の足し引きができてからだ」基礎はできると言っていただろう。「それに君はゼロじゃない。もし君が今ゼロであったとしても、マイナスであったとしても、いくらでもプラスにすることはできる。僕は数学教師だぞ。数字で例えるのは賢明じゃないな」
リサは反抗しようと考えを巡らせていたが、結局なにも言わずに諦めた。
「とても素敵な絵だよ。気に入った」絵を手にしながら言うと、彼女は机に突っ伏した。
「わかりましたから…」耳が赤い。…また照れているぞ!
「この絵、貰ってもいい?」彼女には見えていないが、口角が上がりすぎないようにした。
リサは突っ伏したままどうぞと言った。
僕はスケッチブックから丁寧に絵を破り取ると、それを持って部屋を出た。1階に降りてリビングの壁に絵を貼る。今まで必要性を感じず写真や絵を飾ったことはなかったが、リサの絵には温かみがあって、そこにあるだけで気分が豊かになる。彼女はもっと自信を持つべきだ。だが真っ白は難しかったと言っていたので、次はもっと色が必要だな。
夕食の用意をして再びリサの部屋を訪れる。そして彼女の様子を伺いながら食事を進めた。今は死にたがっているようには見えないな。
「大学に行くと言ってなかったか?」
「え」リサの手が止まった。
「卒業式の日に言ってただろう。あれも嘘なのか?母親にはなんと言ったんだ?」
「私には必要ないです」
まだ死にたがっているのか?「やれるだけのことはやろう。可能性は多い方がいい。5月中に願書を出しておかないと。なんと言ったんだ?」
彼女はしばらく黙ったあと口を開いた。「隣街の大学に行くと。美術の教員免許を取ると言いました」
「そうか」リサが教師か。この話は嘘か?ただの言い訳に作ったのか?だとしてもやるしかない。「資料を取り寄せておくよ」
「いいですよ」リサは拒否した。
「いいや。僕は君の気が変わるのを願っているんだから」まだ時間はあるはずだ。別れを想像するより今を大事にしよう。「君が教師か。良い先生になるだろうな」僕とは違って。
「まさか。先生の様にはなれません」
「僕をお手本にするのはやめた方がいい。君も知ってるだろう」リサは一度僕の授業を受けた。あれを授業と呼ぶには程遠いが、なんの面白味もなかったに違いない。
「先生の教え方は解り易かったです」彼女はそっと言った。
今度は僕の手が止まる。舞い上がらないように自分を抑えた。「ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しいが、それだけじゃダメなんだよ」前から分かっていたことだが、自分がいかに教師に向いておらず無力なのか、今日ありありと思い知らされた。
「どういうことですか?」
「勉強を教えるだけじゃ教師の意味がないんだ」リサにちゃんと食べるように勧めて、僕も食事を再開した。
「先生は…。親切なおじいさんを尊敬して教師になったんですよね?」彼女の声には疑問と少々の非難が見えた。
またしても僕の手が止まる。「そうだ」
「それなのに自分には意味がないとおっしゃるんですか?親しみがなくて、生徒を1歩引いて見ているから?」彼女は手を止めたまま僕を見ていた。
今日のリサはやけに突っ込んでくるな。僕に慣れてきたのか?何を言ってもいい、気を遣うなと言ったのは僕だが、実際に言われてここまで痛むとは思っていなかった。彼女の言ってることは事実だ。何を今さら衝撃を受ける必要がある。
「僕の授業を受けてそう思ったのか?」こうして意見を言えるのはいいことだ。頭が働いている証拠。僕の気持ちなどどうでもいい。顔に出ないように気を付けて食事を口に運んだ。
「いえ、今のは、他の人の意見です」リサはすぐさま言った。
なに?「君の意見は?教え方以外について」彼女の意見でないことに僕は少し安堵した。
「教え方以外…。あの1回だけでは把握できません。先生の本来の授業ではないと思いますし。でも私は受けて良かったと思いました。先生の数学を取ってもいいかなって」彼女は弁解するように早口で言った。
僕の目の前に小さな光が見えた。あの頑固なリサが、数学嫌いで取らないと決めていたリサが、僕の授業を受けてもいいと考えた。彼女の決心を揺るがせた。ならこのゲームも勝てるのでは?僕は彼女の気持ちを覆すことができるのでは?勝つ勝率が少し上がる。希望が見えてきたぞ。
だが油断はできない。僕はリサだから普段やらないようなことをやった。僕の通常の授業を受ければ、彼女もつまらないと思うだろう。
「それはよかった。嬉しいよ。確かに僕は祖父を尊敬して教師になった。でも彼の様にはなれない。憧れているだけで生徒に興味がないんだったらな。僕には友人が沢山いるわけでも、生徒に人気があるわけでもない」言葉のひとつひとつを自分に突き刺した。無関心で狂っている、それが僕だ。「だから僕をお手本にするのは間違っているんだ」
「優しくしてくれた」リサは小声で言った。
「君は別だよ」僕は彼女を見つめた。君は僕に何をしたんだ?彼女だから?他の生徒だったら同じことをするのか?
リサは怒るか喜ぶか迷って視線を泳がせた。「どうして興味を持てないんですか?」
「どうしてだろうね…。子供は何を考えてるかわからないから、特に興味が薄いんだ。昔からそうだったよ。同じクラスのやつがすごく幼稚に見えた覚えがある」弱音を吐くような真似するなよランス。こんな話を吐露するなんて。なぜか彼女にはできる。
リサは僕をじっと見つめたあと、切なく瞳を輝かせた。「子供っぽくない子供だったんですね」
「君もね」誰にも甘えず、頼らず、黙々と1人で絵を描くリサ。そんな彼女に触れたい。可哀想で愛しくて、小さなリサに。
僕は見つめ返した。彼女の甘い茶色の瞳はスモークのかかったガラスのようだ。それでもその向こうから全てを見透かしてしまう。相手の中身を、僕の心を見つめている。僕は成すすべもなく、ただそれに魅了され、自ずと彼女の前に身をさらけ出す。
心の内を読み合うように視線を重ねていると、僕らの間には切なさとあたたかさが混ざった空気が流れた。しばらくしてリサは視線を落とし、自分の皿を見た。持っていたフォークに野菜を刺して僕の方へ差し出す。僕がそれを食べると、彼女は少し微笑んだ。
夕食の片付けをしてシャワーを浴び、自分の寝室にあるパソコンを立ち上げた。ストレスによる睡眠障害について調べたあと、隣街にある大学のホームページを開いて資料請求をした。そのあと新しいページを開いて、検索欄に文字を打ち込み意味を調べた。
[恋愛]
・男女が互いに恋い慕うこと。その感情。
・特定の異性に特別な感情を抱くこと。
(例) 切ないほど心惹かれる。いつまでもそばにいたい。大切にしたい。など。
パソコンを閉じた。祖父の書斎にあったどの辞書で調べてみても同じようなことしか書いてない。僕がリサに抱いているのは、生徒だからでも友人の娘だからでも、家族のような愛情でもなく、恋愛感情だというのか?13も年の離れた子に?辞書に書いてあることで当てはまることは多いが、正解とは限らない。こういう感情には馴染みがなく、数字のようにハッキリしない事だ。
本当に好きなのか?落ち着いて考えろ。僕が狂ってるせいなのか、一緒に生活しているせいなのか、祖父を亡くしたことで彼女に心の拠り所を求めているのか…。これは今に始まったことじゃない。リサと初めて会った時からこんなだった。ならばこれは恋愛感情なのか?本当に好きだというなら…。
いや、彼女は若すぎる。
僕は椅子に凭れてため息をついた。家庭環境が少し変わっているとはいえ、人並みの人生を送るものだと思っていた。恋人も過去にいたことがあり、そのうち結婚もするのだろうと。
恋人だけでなく僕は他人に対して淡泊だと言われる。自分でもそれはわかっていて、それでも相手を好きになろうと努力しているつもりだった。けれどどうしても興味を持てず、いつも相手の方から去って行く。恋人には「私が好きじゃないの?」「どうして何も言ってくれないの?」「積極性がない」などと言われ、呆れられる。
恋人への熱量は誰しもみな僕と同じで、そのうち祖父母のように仲睦まじくなるのだろうと思っていたが、これは普通じゃなかったのか?好きや愛しているという感情があるのは知っている。知識として知っていた。理性に勝るものではないとも思っていた。だから恋に溺れてバカな真似をする奴が理解できなかった。
もしこれが恋だというなら、これが愛だというなら…。怖い。
怒りに乗っ取られる感覚のように、自分が誰なのか、なんなのかわからなくなる。コントロールを失って、何をしでかすかわからない。そんなこと今までなかった。コントロールを失うのは許されない事だ。そんな自分は嫌いだ。
だが、自分ではどうにもできない。どうにかしたくない気持ちもある。今さら前の自分には戻りたくない。このまま彼女を想い続けていたいと感じている。だから怖い。
理屈っぽい理由もなく、ただリサが僕を惹きつけている。なくてはならないもののように。
彼女を愛しているか?
……もちろん。愛している。それだけで胸が圧迫され、苦しいと同時に熱い。
彼女はどう思う?
……もちろん。ダメに決まってる。彼女には彼女の人生がある。これから生きると決意して、前に進んでもらいたい。僕は彼女が生きているだけでいい。生きて自由でいてくれればいい。僕が彼女の進む道を邪魔してはならない。
頭ではそう理解しているのに、心は行き過ぎて求めてしまう。彼女に触れたい。側にいて欲しいと。
もうこの気持ちはなかったことにはできない。しかしゲームを勝で終わらせるためにも、気付かなかったフリをしよう。




