二日目・二十三日:金曜──朝から昼
変な夢を見た。
遥は痛みを訴える身体を起こすと、しばし物思いに耽る。
桜の花吹雪が街を覆う夢だった。そして、自分の隣には誰かがいた。
桜の神性存在を見たからだ。そうだと思うが、誰かがいるというのが不思議だ。
考えていると、肩にそっと手が置かれた。
「まだ起きちゃダメよ」
垂直の上半身が水平に戻される。上を向いたまま遥は声を上げた。
「汐音さん!」
「大丈夫。骨は折れてないわ。ヒビも無いし、安静にしてれば治るわよ」
すらりとした肢体をパンツスーツに包み、ヘッドセットで目を隠した短髪の女性が頭の上から自分を見ている。
「まったく、丈夫な身体ね。内出血も外傷もあるけど骨や靭帯は問題ナシ。補助器具が緩衝になるといってもあれも身体への負担はかかるし、鍛え方が違うのかしら。それと、食欲ある?」
言いながらペットボトルの水を渡してくる。
「いえ、ありません」
一口飲んでのどが楽になる。しかしすぐに乾いて飲み物を求める。とはいえ胃は沈黙したままで、何かを食べたい気持ちもない。腕に点滴がされているから栄養も問題ないだろうし、これだけでいいだろう。
「あの後、どうなったんですか?」
「カメラもマイクも全部壊されちゃって何も分からなかったわ。少年の方を探ってるけど期待しないで。それよりあなたの方はどうなの。身体に異常はないけど、もし見逃してるとか、他の場所に何かあるとかあるかしら」
「大丈夫です」
自分の中身が機械以上に分かるはずもなく。痛みを訴えるだけの身体が、自分に休め以外の何を言いたいのか遥には分からない。汐音さんの方がよっぽど見えているだろう。
「ならいいけど……今日は動かないでね。起き上がるのは、トイレと食事以外ダメ。変なことすると、効果が無くなるからね」
「大丈夫ですよ」
遥の声音に汐音は唇を軽く結んだが、すぐに緩めた。
「そうね。無茶はできないだろうし、私もいるし」
その言葉で遥は飛び起きた。汐音の手はストッパーの役割を放棄した。遥の腹筋が上半身を持ち上げ勢いで脚を曲げて前に出る。掛け布団が跳ね上がり、点滴のチューブが引っ張られて揺れた。
「大丈夫なんですか!」
遥は叫んでいた。汐音の業務は多忙を極める。人員の管理から妖邪や神性存在の探索・発見後の対処まで、神社ネットワークの主柱の一つとして活動している。自分一人が彼女を拘束していいはずがない。
「大丈夫」
汐音はゆっくりと言いながら、遥に横になるよう促す。遥は、しかし布団の上に座っただけで、汐音はひとつ息を吐いた。
「桜への対処が必要なの。この街で行動を起こすから私はここにいていいの。仕事ならこれでできるし」
と言ってヘッドセットを示す。その向こうの目元は窺い知れないが、目まぐるしく変動する情報を捌いているに違いない。当然、会話もその一つだ。
邪魔しないように寝ていよう。遥は疲れに身を任せ意識を追い払った。
それから昼まで、汐音は本当に遥の部屋にいた。それどころか昼夕だけでなく翌朝の分まで食事を用意して、その他の家事も甲斐甲斐しく行ってくれていた。勿論仕事もしていたが普段の業務量からはほど遠いだろう。
遥がその背中をじっと見ていると、汐音が声を掛けた。
「どうしたの?」
汐音の様子を見ていると、お母さんみたいなのかな、と思う。自分のことを気にかけてくれて、世話を焼いてくれて。ただ、それを伝えるのは少々気恥ずかしい。
「いえ、何でもありません」
しかし、汐音は何もないと考えなかったのだろう。
「気に病むことはないのよ。相手の正体も不明でいきなり戦闘になって、生きて帰ってこられただけで充分。それに、私は、息抜きもできたし」
振り返って笑顔を見せる。そんな汐音に遥はようやく安心した。さっき引っ込めた言葉が口をついて出る。
「母親って、こんな感じなんですか」
ふっと出た言葉に汐音は硬直した。年齢が頭をよぎるがそれは一瞬。遥の境遇を考えて、言葉を出す。
「そうね……。私の親はそうだった、かな」
もう十数年も顔を見ていないけど。それは言わずに汐音は言葉を続ける。
「施設ではどうだったの? 養母さんがいたでしょう」
「もっと忙しそうだったし、他の子も手伝ってたし、つきっきりってことは無かったです。風邪をひいても年長の子が世話してくれましたし」
「じゃあ、そばにいたり世話してくれるのがお母さん?」
「うーん……それだけじゃないような……」
言葉を濁す遥に汐音はほっとする。捨て子だった遥と家族の話をするときは緊張してばかりだ。形式上とはいえ自分が養母となっていることもある。遥が気を負ってしまわないように慎重になってしまう。
でも、と少しほっとして、緊張の度合いを下げた。施設のことでよかった。
……とはいえ母親、家族として見てくれているのかだろう。だとしたら少し嬉しい、かも。
周りからは仕事一筋という風に見られているだろう。実際、仕事ばかりしている。遥のことを構っている暇もなければ業務以外で話したことはほとんどない。遥も施設の出で一人で大抵のことはできてしまうから。それに甘えているのかもしれない。
それでいいとは、思えないのだ。書類上だけとはいえ自分が母親になったのも自分の選択。家族の一員と認められたい気持ちも、ちゃんとあるのだ。
「じゃあちょっと、お母さん、って呼んでみる?」
そう言って汐音はヘッドセットを外した。
現れたのは強烈な印象を与える顔。決して美女とは言えない。整っていないわけではないのだが、そう呼ぶには力強すぎるのだ。顔に配置されたパーツの中で目が苛烈なるままに異彩を放っている。柔らかなカーブを描く口元も、荒く調えられた眉も、光を直視するかのような眼光の強さには霞んでしまう。
いつも遥はその強さに目が眩む。自分には無い確固たる意志を持ち、力の限り生きていく。そんな姿に魅了されたのだ。他にも彼女に心酔している人は多いだろう。
「おかあ……」
口にしようとしてみた。だが、その続きが出てこない。久しぶりに目にすると母親というイメージから遠すぎる。汐音は、もっと格好いい、別のイメージ。年上のお姉さんみたいな憧れ。思えば年長の子供はみんなテキパキしていたし、汐音にもそのイメージを重ねているのかもしれない。最も、汐音ほど格好良くはないけど。
でも、それを口に出すのは気恥ずかしい。汐音の眼光にも負けて目を伏せてしまう。お母さんというのもそうだけど、お姉さんというのは甘えているようで口にしづらい。汐音なら笑わないだろう。でも、子供っぽいと思われるのは嫌だ。こういうのを思春期というのだろうか。大学生にもなって。
汐音の視線に多少の居心地の悪さを覚えながら遥は深呼吸を一つした。
ああ、もう。考えているだけ時間の無駄だ。まとまらないなら今は言わないでおこう。自分の気持ちと折り合いがついたら。自分が成長できた時にすればいい。
「えっと……大丈夫? その、言おうとしていたこととか」
「大丈夫です。もう、解決しました」
どことなく誇らしげに、その言葉は遥の口から自然に出た。きっぱりと断るような感じだった。
続きを言わずに澄んだ視線だけを向ける遥に少しダメージを受けつつも、汐音は再びヘッドセットを被った。やるべきことはまだ残っている。染みのようにこびりつく感情は一旦放置して、頭を仕事へと切り替える。
この街に危機が迫っているかもしれないのだ。桜と妖邪と、少年と。何かが起こる前に食い止める――あるいは被害を最小限にする――ために。なにせもう、事態は進行中なのだから。
それが、すでに手遅れかもしれなくても。