二日目:二十三日・金曜日──夜 2
『無粋ね』
声とともに一斉に監視カメラが弾けた。遥の視界が闇の四角で埋められて、瞬時に回復するも目に映るのは正面のみ。ご丁寧にこの山に設置された監視装置が全て破壊されている。
『消えて。逢瀬を覗くのは無礼』
声は静かなれど高く澄んだ鈴のように闇に響く。桜の視線は遥をじっと捉えている。遥は最初から見つかっていたのだ。
周囲の森が、まるで自分を飲み込んだ腹の中のように感じられた。
遥は震えそうになる手を押さえ、装備を確認する。神社ネットワークの加護のおかげか身に着けている機器は正常に作動している。布都御魂は変わらず腰に下がっている。ヘッドセットに表示されている情報をいくつか消せば、迷いはもうない。
「何用ですか、桜」
木々の間から遥は姿を見せる。ヘッドセットに隠れた目は、桜と、桜の木から離さず、右手は剣に手を添えていつでも抜剣できる状態にある。ひっ、と明里が小さくのどを鳴らす。
桜の花の下。風が吹けば花びらが頭に降ってきて、彼らの世界の脈動すら聞こえてきそうな距離。手の中と言っても差し支えないほどだ。
鬼が出るか蛇が出るか。あるいはもっと悪いものか。妖邪は何をするか分からない。神性存在は、さらに不可解だ。
息を吸って、吐いた。小さく口の中で無音のコマンドを出す。声はのどのバンドを通ってヘッドセットとスマホを繋ぎ、双方の高天原をリンクさせて起動した。
『ウズメ天岩戸を開けられよ』
一瞬、スマホとヘッドセットが熱を持つ。遥のこめかみが燃えるような痛みを訴え、眼に映る世界が何重にもぶれて、また一つになる。画面の右端に『Acces complete』の文字を確認し、接続が正常に完了したことを遥は認識する。
桜と少年は、まだそこにいる。しかし桜の視線が厳しいものになっているのを遥は感じる。遥の様子に何かを察したのだろうか、これまでになく険しい瞳で睨んでいる。
桜の目が地面を見て、戻る。その一瞬の間に遥は飛び出した。
全身のバネを、補助器具の勢いをもってつき動かし、背後で起きた衝撃に乗って、雪煙を上げて二歩で桜に至る。急制動を脚にかけて下半身を固定、上半身を捻りつつ右腕に勢いを継いで抜刀する。引き抜かれた布都御魂は下段から桜に斬りかかるも桜は反応できない。斬り上げた腕は薄い抵抗を残し、月へと刀先を突き上げ止まった。
しかし、そこに倒れていたのは少女ではない。大気に消えゆくのは犬か狼か獣にも似た妖邪。両断された身体は半透明で、身体が断たれたにも関わらずすぐには動きを止めず、完全に消滅するまでその顎で遥を襲おうとしていた。
少年が、何が起こったのかも分からぬ様子で遥と桜の間に視線を行き来させる。そして、遥の背後で舞い上がる雪に初めて驚いた様子を見せ、その中から現れた存在には視線を向けていない。
遥に斬り倒された妖邪と同じ、四つ足の妖邪が身震いをして雪を払い咆哮を上げる。すると桜の目の前に虚空から三体の妖邪が現れ、遥を囲むように動く。後ろの妖邪と合わせて遥は四方を囲まれた。
それでも少年は、悲鳴の一つもあげなかった。その目に恐怖は見られず、驚愕と関心が色濃く渦巻いている。
無駄だとは思いつつも遥は言った。
「離れなさい。それに魅入られても良いことはありません」
返事はない。遥は布都御魂を振り下ろした。ふっ──と刀身に空いた穴が音を立てた。その音色に、妖邪が後ずさる。
「ふつたぎるつるぎ──魂切る刀にて御相手します」
遥の身体中で、唸りを上げて機械が稼働する。
人が出すには相応の鍛練が必要な動作でも、動きに耐えられるだけの力があれば問題ない。ヘッドセットの中では現在と数瞬後の未来予測の像が重なって表示され、遥はそれに合わせて刀をふるう。
後方は視界に表示されている。相手が動き出す前に反転し、飛び掛かる姿勢でいた後方の一体の頭部を横に薙ぐ。妖邪の頭が横に切り裂かれ、それを合図に戦闘が始まった。
遥は地を蹴って飛び上がり三体の突撃をかわす。二メートルの高さまで届くと桜の枝を掴んで落下を止め、枝が折れる前に手を離し、逃げ遅れた妖邪の上に降りた。
足に伝わってくる感触は意外にも柔らかい。踏んだのは背中後ろ側で、腰が落ちた姿勢をキープ、後ろを向こうとした首を切り落とす。突撃から振り向いた残りの妖邪が反転して対峙。──あと二体。
残る二体は慎重に動いている。刀を構えた遥の周囲を、一定の距離を保ってゆっくりと回り、隙を窺っている。
(まるで狼のよう……。でも)
獣の臭いも吐息もなく動く姿は操り人形のようであり、しかし強烈な敵意を眼に宿している。それにも関わらず、少年は変わった様子もなく遥の方を見ているだけだ。
それもそのはず、かの妖邪はこちらの世界に姿を降ろしているわけではない。
『その剣……その仮面、何を見ているの?』
警戒を含まない純粋な疑問。桜が問う。
ヘッドセットが遥の眼に映しているものは二重の現実である。妖邪の世界。あるいは塀の向こう側。隣り合い、しかし壁に隔てられた世界のその幻影を、神社ネットワークの力で人が居る現実と重ねているのだ。それだけではただ見えるだけであるが、布都御魂のような力のある刀に神社ネットワークの力を乗せることで、干渉も可能になる。妖邪の場合は最初からそれに似た力を持っているので、力が強ければ干渉できるのである。
だから、少年には雪が舞い足跡がつき遥が動いている様子しか見えないだろう。それゆえ恐怖も少ない。
桜の問いに、遥は刀を向けることで答えの代わりとした。
挑発的な態度に《狼》はその輪を縮める。遥が刀を構え直しても、輪は広がらない。
さて、と遥は手に力を込めた、その時。
宙を跳ぶ小さな影を、布都御魂は過たず斬り裂いていた。だが、影は雪の上にいくつも現れ飛びかかってくる。ヘッドセットがその正体を捉え、視界の隅に表示した。猫に似た妖邪だ。しかも優雅な動きはそのままに、妖邪の無機質さは健在で、獰猛さを隠さず牙と爪で遥を攻撃する。
遥は動かざるをえない。身体が大きいだけの《狼》ならば対処は楽だ。しかし、猫となると話は違う。小柄なれど素早く動き、鳥すらも狩るハンター。小さくても《狼》よりも多く、十二もいれば手に余る。
足元に寄ってきた《猫》を蹴り飛ばす。《猫》は空中で身体を捻り着地、その間に背後から別の《猫》が飛びかかる。腕を引いて刀の柄を後ろに伸ばして叩き地に落とす。しかし、軽いからか大きなダメージには至らず、再び攻撃を仕掛けてくる。
そして《狼》も健在だ。隙あらば噛みつきあるいは体当たりをしてくるので体勢が乱れて仕方ない。しかし遥は大きな動きはしない。刀は振り回さず、柄や刃先、手足を使って、細かくさばく。
不利に陥っていることを遥は自覚する。ここは引くべきか。頭の中で算段をめぐらせるも、状況はそれを許さない。絶え間無い攻撃は遥の集中を奪い、精確な判断を鈍らせる。長期戦に持ち込もうという考えだろうか。
だが、遥にも利はある。布都御魂をふるうたびに刀身に空いた穴が鳴る。それは破邪の音。妖邪のみならず神性存在の力さえも削ってゆく。刀の動きは小さくとも速い動きで音を出し、手首をひねり一つの動作の中に音を連ね、舞うように妖邪の攻撃を弾いてゆく。決して斬ることにこだわらず、時が満ちるのを待ち、機を逃さなければいい。
積み重なるふつふつという音に妖邪の動きは鈍ってゆく。《狼》が描く円は歪み、《猫》の攻撃も腰の下で止まっている。傷も、これ以上は増えないだろう。
そろそろ抜けられるか。遥は既に逃走を考えている。もともと今日の目的は偵察だったのだ。交戦は予定にはなかった。少し悔しいが、逃げても問題はない。
一歩、二歩と、後退の足運びを迎撃の動作に組み込む。遥が森の端まで下がったその時。
森の中に新たに生まれる巨大な気配。すぐさま右横へと飛びすさり、木々を揺らして出てきた新たな妖邪を見る。