二日目:二十三日・金曜日──夜 1
日付が変わって、時間外れの目覚まし音が部屋に鳴り響く。明里は目を覚まして伸びをした。カーテンを開けると雪はまばらになっていて、雲も薄いのか昨日よりも明るい感じがする。そろそろと部屋の扉を開けると、家の明かりは消えていて、親が動く気配はない。
家族が寝静まったのを確認した明里は、昨日よりも服を重ねてカイロも持って家を出た。長く桜を見ていられるように準備は万全だ。
街は白銀に染まり自分以外に人の姿はない。駅の方の繁華街ならいざ知らず、この時間には住宅街に人がいる方が目立つ。それでも怯えているように身体が震えるのは、人じゃない何かが怖いからかもしれない。何かがいると思ってしまうとただ寒いだけでも恐ろしく感じてしまう。
昨日感じた影は勘違いだったと思うが、まだそれを引きずっているのか。煌々と照らす常夜灯の側に落ちるのは暗々とした闇。どうしても気になってしまう。
それは、山に入ってから色濃くなる闇の中にも感じるものである。常夜灯がまばらな山道は二回目でも慣れるものではない。むしろ意識してしまった分だけ恐怖も大きいかもしれない。
それでもなんとか頂上までたどり着く。少しずつ足が速くなるのが自分でも分かったが止めることはできない。息が切れ、腹が痛みを訴え、脚が重くなっていても進み続けて。頂上へ足を踏んではっと息を吐き出した。
だが、そんな苦労など知ったことかと桜は咲いている。地面にどっしりと根を張り、枝を伸ばして、我のみ世界に在りというような荘厳な佇まい。月の光に照らし出されて、そこだけが絵画の中にあるかのようだ。
雪は降りやんで、花は枝の雪とともに落ちてゆく。雪の塊がどさりと落ちれば、跳ね上がった枝から花が飛んで、少し遠くに散ってゆく。
咲き誇る姿か散りゆく姿か、どちらが美しいのかと訊かれれば、非常に迷うところである。華やかなる姿か、終わりを迎える姿か、どちらにもそれぞれの美しさがある。それはこの千年間ずっと論じられてきたものに違いない。
だが、敢えて言えば、この桜に相応しいのは散るという言葉だろう。想像もつかない年月を生きてきた樹木の雄大さと毎年のように散ってゆく花びらの対比。強靭さと儚さが同居している姿の中、今この場所で命を燃やしているような散り様こそ、この桜には合っている。
咲くほどに華やぎ、散るほどに艶やかになり、雪と月に映える美しさ。
だから、その言葉が、自然と口をついて出ていく。
「雪誘う 卯の月の下 花の降る──」
頭の中で考えていた句。この桜を見て思ったこと。考えたこと。それを十七文字で言い表す日本古来の表現技法だ。授業でやった程度だけど、下手かもしれないけど、これで桜を伝えたかった。誰もいないから言えた。実際にやってみるとやっぱり恥ずかしい。
照れくささを隠しながら鼻の頭を掻いた。手袋の冷たさにハッとする。かすかに赤くなっている鼻を手で包んで吐息で温める。手を離すと、白くなった吐息が宙に消えた。
息を吸って、吐いた。桜が落ちる中、凍えた水蒸気は空へと昇る。ふとその先を追った。
雲が晴れていた。大きく空に開いた穴は天空に金色の眼を見せて、桜へと視線が降り注いでいる。
そこに黒く落ちた影があった。風に舞う雪や花びらは地に落ちていくが、影の上、ある一点だけ、何かに当たったかのように空中で止まってから風に吹かれていく。決して風の悪戯ではないし目の錯覚でもない。まるで、そこに不可視の何かがあるようだった。
もっとよく見ようと一歩前に出た。凍えた空気を切り裂いて足の下で雪が鳴った。
続いて声が聞こえた。
『──君を想いて 幾度散らして──』
サク、という音ともに、雪に足跡が刻まれた。
*
公園へと人が入って来たのを遥は見た。
二十二時半から櫻嶺神社の敷地の一角にある建物の部屋を借りて、神主が公園に仕掛けておいた監視カメラをじっと監視していた。ヘッドセットを装着し補助器具をまとい微動だにせずにいる姿は、最先端の電子工学で造られた仏像のような、異様な雰囲気を放っている。
遥の視界の中、山の下の監視カメラに動きがあった。昨日見た少年だ。彼は迷いなく上を目指してしっかりとした足取りで山を登っていく。操られているかは分からないが意識ははっきりしているようだ。
遥は神社を離れた。森の中は夜の闇で閉ざされているが、赤外線や反響音などによって作られた視界の中には日の下と変わらない姿が映っている。木々の間を抜け、補助器具の膂力でもって、鹿か猪か野生動物のように整備されていない山の中を駆けのぼる。
そして、彼が頂上にたどり着く前に、公園を取り巻く木々の中に潜んでいた。視界には監視カメラの映像が同期して表示されており、無数の眼で少年の到来を待ちわびる。
と、少年が雪道を登って来た。身体に緊張が走る。
息を切らしながら彼は、階段を上り終えて軽く立ち止まって息を整えたあと、顔を上げた。そこには疲労の他にもかすかに恍惚の色が見える。
少年はじっと桜に視線を注いでいる。彼の意識は感嘆の内にあるようで、桜を通して何か別のものを見ているかのようだ。そう思った時、彼の口から言葉が出る。
「雪誘う 卯の月の下 花の降る──」
五七五のリズムで発された十七文字の言葉は虚空に消えた。俳句というやつか。だが、まさか聞いている人がいるとは思うまい。なぜか、自分がポエットを綴ったノートを見られたような恥ずかしさもどかしさが遥の胸の中に湧き出てくる。
(あんなものを聞きにきたわけではない……)
だが、驚愕はその先にあった。
桜の前、少年のそばで映像に異変が生じた。木から落ちる雪と花の進路に不可視の障害物があるのが感知され、ぼんやりとした像を結んでゆく。続いて、複数の映像で得られた歪みの情報による補正が入り、それは遥の視界の中で実体化してゆく。
『──君を想いて 幾度散らして──』
声がした。そして、雪に足跡がついたとき、その姿もはっきりと見えるようになった。
着物を着た少女だ。
身長百五十六センチメートル、体重測定不能、髪は長く伸びて雪をこすり、十二単のような和服のようなものを身に付けている。顔は人と同じ、目鼻も口もきちんとあり、その眼は少年をしっかととらえていた。
彼女は少年へと進む。そのたびに雪に影が落ち、姿は補正で色づいていく。
着ている服はグラデーションがかかった桜色に。髪はぬばたまの如き漆黒に。肌は白いが頬には赤みがさし、大きな瞳にはしっかりと意思の光がある。
その姿を見た少年の様子は、どこかおかしかった。驚いて腰を抜かすでもなく、慌てて逃げ出すでもなく、目を見開いて驚いているようではいるものの、どこかほっとしたような表情だ。不自然なほどに落ち着きすぎている。まるでそこに、本物の少女がいるかのように。
震える手で遥はヘッドセットを外した。その目にはヘッドセットに映されたものと同じ少女が映っていた。いや、それ以上に鮮やかで、匂い立つような色香と可憐さを漂わせている。その佇まいは、妖邪よりも神性存在と言いたくなるものだ。
ありえないと、言うことはできなかった。力を持った妖邪ならこちら側に姿を見せることもあるし、だからこそ神社ネットワークのように彼らに対抗する組織が必要になってくる。その中でもこの桜は異質に思えた。ここまではっきりとした姿があるのに今まで記録されていなかったとは。ネットワークの怠慢か、それとも現れることが珍しいのか。
それでも驚くことではない。千年を経た桜の樹が力を持っていないとしたら、その方が驚きだ。
しかし、彼女が現れたことにあの少年が関係していることは間違いないだろう。
遥は少年に狙いを定める。今すぐに個人情報は検索できないが、映像記録を送っているので照合は取れる。彼のことを知らなければいけないし、場合によっては記憶を消すなどそれなりの処置も必要になる。
遥は再びヘッドセットを装着する。四方八方から、いかなるものも逃さない機械の感知器官が二人を見て聞いている。
少年と、桜の少女。二人は会話をしていた。言葉は短く、声は小さく、それでも意思を伝え合っていた。直接遥の耳に音が届かなくても、カメラについているマイクと解析された唇の動きから話している内容は分かる。それが音声となって遥の耳へと入る。
『あの、きみは、誰?』
『さくら』
『さくらっていう名前?』
『わたしはこの木。花と枝と、幹と根と、すべて』
穏やかでゆったりとした桜の声に、少年の顔に怪訝な表情が浮かぶ。が、それは彼女の異質さに向けられたものではない。
『じゃあ、なんで人の姿なの?』
『あなた、みんな、この姿だから』
『みんな?』
『みんな。いつかの誰か。わたしを見つけた人たち』
みんな、見つけた、その言葉に遥は耳を研ぎ澄ませた。あの少年の他にも、桜のあの姿を見た人がいるのなら、記録が何かに残っていてもおかしくない。櫻嶺神社にも何か無いのか。調べさせているが早く見つからないだろうか。
二人の会話は依然として続いている。奇妙な言葉も、少年にはさして重要ではないらしい。
『どうしてぼくなの?』
その質問に遥は意識を集中させた。桜が人の姿で現れた理由、それが何なのか、知ることができれば解決法も分かるかもしれない。
『約束……雪と月の頃。……それに、あなたのことは覚えているから』
『覚えて……? 会ったことない、けど、どこかで、会ったの?』
遥は確信した。やはりあの少年、何かに関わっている。たとえ本人の自覚がなくても、覚えていなくても、鍵になる存在なのだ。彼女によってそれを引き出すことができれば、あるいは桜への対応策も見つかるかもしれない。
『前に起きたとき。あなたは、私と、』
私と、何なのか。その続きは聞けなかった。