一日目:二十二日・木曜日──昼から夕
十三時。けたたましい着信音と振動に遥は目を覚ました。今朝はようやく五時に家に帰ってそのままベッドに倒れこんだ。掛け布団は無意識に身体に乗せていたが、服はそのままシワになっている。身体は強張っているし暖房をいれていなかったから身体が冷えてしまっている。
眠い目を半開きにしてスカートからスマホを取り出し、着信名を見て、ぼうっとした頭で声を出した。
上級の凪雨・汐音からだ。
「もしもし……」
『ようやく出たか。早く報告書を出せ』
電話の向こうから女性の声。呆れ半分、苛立ち交じりで遥に告げる。
「あ……寝てました」
『もう昼だぞ。こっちも大変なんだ』
「でも八時間睡眠ですよ。健康的な証拠です」
『とすると大学はサボったな? 卒業に影響はないだろうな』
「初回の三回はお試しだから大丈夫ですよ。必修も、友達が出てますし」
あとでノートを見せてもらえます。遥の心の内が伝わったかどうかは分からないが、諦めたような声が電話の向こうから聞こえる。
『……まあいい。早く報告書を上げてくれ。録画だけでは詳細が分からん』
「分かりました」
通話が終わった。あの人も忙しいのだ。とはいえまだ大学も二回生。そんなに心配することはないのに。
遥はとっとと報告書を書くことにした。ベッドから降りると机に向かい、XRヘッドセットを取り出した。細い枠に嵌まった長方形のガラスを曲げた形で、各所にセンサーが配置されているだけ。それを眼鏡のように上下が眉と頬骨の位置になる位置で着け、末端を耳のところで固定し、頭の上と首の下にバンドを通して、装着完了。ARモードにするとヘッドセットの起動画面が網膜に投射され現実世界と重なって彼女の視界に広がる。ヘッドセットをスマホと同期させればスマホの画面が拡大されて視界に映り、鳥居のアイコンをタップすると、アプリが起動し視界の中央に表示された。
神社ネットワーク専用アプリケーション、高天原。神社ネットワークを構成する、ある意味では神社ネットワークそのものと言えるもの。情報の共有と、この世界のもう一つの面を見せる機能を持つ。
そもそも神社ネットワークなんて名前がついたのはここ最近のことだ。元々は神社間の霊的なつながりであり、そういうものを見る修練を積んだ人だけのものだった。しかしインターネットを取り込んだあたりことで素質のある人でも見られるようになり、このような名前がついた、らしい。
その源は日本を網の目のように覆う神社。古来より日本中に建てられた神社は神を祀っている。しかし、その神が人工の神と知る者は神社ネットワークにしかいない。そして、それらにより特殊なフィールドが日本を覆っており、神精妖霊魑魅魍魎の跋扈する八洲は、それによって鎮められた。そうして人々はその存在を忘れ、人の世を造っていった。
しかし、それらはまだ地上に存在する。人の目からは消えても何かの因果があれば顕在化する。それを止めるのが、神社ネットワークの役割である。
神も魔も聖も邪も、人が作った区切りにしか過ぎない。ただ、分かりやすくするため区分分けをし、人に害を為すものを妖邪、ただそこに在るものを神性存在と呼んでいる。
遥には、あの桜の下の影が妖邪か神性存在か、今のままでは分からない。それを見極め、妖邪ならば排し、神性存在ならば人に影響が出ないように対処する。いずれにせよ、人の目から隠れるようにしなければならない。
そのストーリーに則って今朝の出来事をまとめていく。少しの変化と不明確な影ならばよくあることだ。人のあとを追うのもよくある。だが、人が去った後に出てきて痕跡に興味を示すことなどなかった。しかも明らかに少年の様子はおかしい。いくら桜が綺麗だからといって、この寒中を三十分もいるだろうか? 向こう側の世界から何らかの干渉を受けている可能性が考えられる。
ならば、あの少年も記憶処理を行うのだ──
つらつらと考えながら文字に起こされた録音をベースに報告書を書いていく。口にした言葉は過去に書かれた報告書をもとに、より報告書らしい文書に自動で修正され、空中に表示される文書は目線を動かすだけでスクロールし拡大・縮小し、カーソルが移動する。
現状ではあれが桜に端を発するものかは不明。区分も不明。意思があるかもしれない。しかし少年が一人、世界の向こう側を覗こうとしている。対処の必要がある、と記して、終わりにする。
それは、『影の出現が桜に由来するものかは現状では不明であり調査の必要がある。また、単なる影であり観測時間も短かったことから異常性の分類は不可能である。ただし何らかの意思が認められる可能性が高い。加えて、少年がこちら側の世界から干渉され、また未来において再び干渉される可能性が生じている。これも早急な対応が必要である。まずは少年の素性を明らかにすることから始めるとよいだろう』となった。
報告書を読み返し、少し直しを入れて確定する。共有の報告フォルダに入れて遥は息を吐いた。
「ふう」
ヘッドセットを外すと目に入る情報量が減る。それとともに画像処理が入っていた現実も色褪せていく。自分は大学に入ってからこれを手に入れたが、それまでの人生とはまるで違う世界が見えている。神社ネットワークに入ったことよりも大きいかもしれない。所属よりも、自分が見ているものの方が変化を感じる。
こう言うと、汐音さんはそこまでの人生の厚みが無いからだと言うが、これ以上の変化があるだろうか。見ている世界が変わるなんて滅多にお目にかかれるものではない。
と、遥は考えを止めた。お腹に違和感がある。何か大事なものを忘れているような、腹の奥からせり上がってくるような、何かが──
ぐう、と大きな音をたてて腹が鳴った。そういえば朝も昼も食べてないのだ。お腹が減るのも当然である。
「えっと……」
立ち上がってキッチンへ。冷蔵庫を開けて残り物を確認する。昨晩の残り物は煮物とおひたしのみ。うん、うどんにしよう。
常備してあるうどんを茹でる時間で桜の資料がないか調べる。神社ネットワークの方に要請を入れておいて、近所の図書館や大学の図書館にないか、試しに検索してみる。左手の菜箸でうどんを混ぜるのを忘れず右手でスマホを操作。だが、目につくのは桜の名所だのお花見だの関係のないものばかり。タイマーが鳴るまでに得られた有用な結果は0。これは面倒くさそうだ。
茹で上がったうどんをざるに入れてゆで汁を捨て、麺をどんぶりにぶちこみ麺つゆと生卵を投入、すりゴマをかけて混ぜ合わせ、最後におひたしを乗せて完成。あまり複雑な料理を作るのは面倒くさいので夕飯に回す。
はしを持って机に戻りうどんをすする。シンプルながら美味しいので、何も考えたくない時には作ってしまう。カップやインスタントのものと比べると味も濃くなくてよい。問題は、作りすぎると一人で処理しなければならないことで……
食べ終わると、流しに突っ込んですぐに洗う。
十四時。普段なら大学で講義に出ている時間だ。だが今日は眠すぎるし夜に備えなければならない。温かいものが欲しい。何を作ろうか。こんな寒い日は、鍋だ。
野菜はキャベツと人参とジャガイモ。白菜は無いけど高い。豆腐もあるし、豚肉も余りがある。これなら買い出しに行かなくていい。
だが、夜までは時間がある。シャワーを浴びて、夜に備えて寝ておこう。
*
放課後になった。眠気は消えて頭はすっきり。これで活動できる。代わりに授業の痕跡は残っていないが桜のためだ。安いもの。
軽い身体で校門から出ると、誰かが肩を叩いた。千夏だと思って振り向いたら指が頬にささった。
「よーしーはーるー」
「別にいいだろ。それより、一緒に帰ろうぜ」
もちろんこいつが部活などやっているはずがない。委員会でも願い下げだろう。
「ちょっと行くところがあるんだ。残念だけど」
「そうか? じゃあまた明日」
千夏は部活だし校外まで追ってくる心配もない。これでようやく一人になった。夜まで待てばいいかもしれないのだが、とても待ち切れるものではない。
歩道はまだ雪が積もっている。車道の分が押しのけられていて、かえって歩きにくい場所もある。ガードレールの下、家の陰で融けずに残り、蹴られ踏まれて固まっていく存在。そんなものがゴロゴロしているので歩きにくいことこの上ない。
道では小さな子どもが雪玉を投げ合って遊んでいる。ちらほらと大人も混じっているが、雪玉の集中砲火を喰らっていて痛そうだ。石を入れて雪玉を作っている子もいるし。もとから少ない車も今日は音がまばらに聞こえるだけで姿すらない。
普段なら十五分でよかっただろう。しかし今日は二十分かかった。その間、滑って転びかけたり雪の山に足を突っ込んだり大変だった。自動車や自転車が走っていたら事故にあっていたかもしれない。そうでなくても雪は無駄に体力を消耗する。
山道は凍りかけの雪で覆われていて上りづらい。夜はまだ雪が積もったままだったからよかったが、いちいち踏みとどまらなければすぐに転んでしまいそうだ。
そのおかげか、山に入ってからの道中に誰の姿も無いのが幸いである。よほどの物好きでもない限りここまでは来まい。
そうして辿り着いた山頂には、しかし人の姿があった。
自分を入れてわずか六人。だが、それでも人がいるのだ。そう、自分だけが雪と桜の美しさを知っているわけではないし、桜を独り占めできるわけでもないのだ。
その中にひときわ目立った服装の者がいた。袴だろうか、剣道着に似た青緑の下と、白い和服の上のような服。神主なのか。ここに来る途中の神社の人だろう。わざわざコスプレして来る人もいないだろうし。
だが、そんな些事はすぐに目に入らなくなった。
昼の桜は夜と違って蠱惑的な香りが感じられない。しかし、鮮やかさはこちらの方が上だ。灰色の曇り空に桜が映え、雪も相まって華やかに見える。夜の桜を妖艶華美と言うならば昼は絢爛豪華だろう。
この桜もいい。だが夜の方が好みだ。月に浮かぶ華やかさは他では見られない。
それならば明け方もいいのではないか。夜と朝の境目、月が消えて太陽に変わる瞬間も見てみたいものだ。そう、太陽。たまには雲が晴れないものか。こう雪ばかりでも、気が滅入る。それに、歩きづらい。
桜の周囲を回る。昨日歩いたのとは反対に、雪の下に消えた足跡を帰るように、ぐるりと歩いていく。そうすると、夜では気づかなかった、見る面によって色々な表情があることに気づく。
木の表面、枝の付き方や伸び方、雪の積もり方。風の通り方でも音が違ってくる。落ちるのが花びらだけなのも、静けさの風雅を感じる。
元の位置に戻る。他の人たちは、その場に立って見ているだけで、動いても少しだけである。勿体ない気もするし、一部だけでも独り占めできる優越感もある。
そうしている内に、袴姿の男が気になることを始めた。周囲にちらちらと目を向けて、何かを探すようにしている。雪の上を見まわし、スマートフォンを取り出して画面を覗く。そのまま、また何かを探している。何かのゲームだろうか。
それを横目に、今度は下がって桜を見上げる。公園の端に立つとようやく桜の全体が二つの目の中に収まる。薄暗い中では曖昧だった輪郭もはっきりと見え、季節外れの入道雲のような姿が視界いっぱいに広がった。
さらに見上げれば隙間なく咲き誇る桜の花。一面の白色と桜色にわずかに下方に幹の茶色が見えるだけ。雪と花と区別なく、樹の頂上から風にさらわれて街へと飛んで行く。
と、雲が切れた。太陽の光が差し込み桜に当たり、気のせいか桜の樹も光って見える。しかし、すぐに雲は傷を癒して空を覆う天蓋となってしまう。
それでも──ほんの少しの出来事でも、桜が神々しく見えたのは事実だ。
少し、気持ちが晴れた。