一日目:二十二日・木曜日──朝から昼
目覚めは最悪だ。目覚まし時計は二度寝を許さず鼓膜を叩き鳴らし、いつの間にか床に落ちたスマホは冷たくなっている。身体を起こすと時計が七時を見せた。三時間と少ししか寝ていないのか。よくぞ起きられたものだ。これなら八時まで寝ていればよかった。
とはいえ布団に戻れば遅刻は必至、昼まで寝ている確信がある。遅刻をすることはどうとも思わないが、さすがに新学期早々の欠席は避けたい。
布団から出ると寒さが身を刺す。身震いしながら寝間着を脱いで冷たい服に袖を通し、居間へと向かう。
父親は既に家を出ている。母親は食事を終えてソファに寝転がっていた。
「……おはよう」
「ほはよー。──あ。うん、息子が起きて来たのよ」
適当に返事をしながらHMDを通した向こう側に広がっている世界で会話をしている。水泳用のゴーグルを一回り大きく武骨にして耳の横に板を組み合わせたような見た目のそれは、意外とスタイリッシュで、だが高価なものだ。同級生には持っている人もいるが自分のお小遣いでは手に入らない。
本格的に別の世界にダイブした親から目を離して朝食に移る。まだ半覚醒の頭でも機械的に食べ物を口に運んでいれば身体も温まってくる。学校まで行けるくらいの気力は出てきそうだ。
食事を終え、食洗器に皿を置いて学校へ行く準備をする。ノートと教科書をバッグに詰め込んで家を出る。背後に声がかかったのは、いってきますだと思う。思いたい。
マンションを出ると、さすがに雪はわきに除けられていて道路が見えていた。車も走るし人も通る。曇天は変わらないが雪は落ちてこず、昨日の夜の雪景色がそのままであるわけがない。それでも氷に変わっているのか頑固に白いものが残っている。
高校はマンションの正面を右の方に進んだところ。歩いて十五分くらいで、お山とは、だいたい家と同じくらいの距離だ。ただ、道が少し入り組んでいるので、直線にすると細長い二等辺三角形に見えるだろう。道のりだと凸凹の穴あきチーズみたいだ。
その欠けた部分へ重い足を踏み入れた時。背中に何かがぶつかった。踏ん張れ、との思いも虚しく手は前に伸びて衝撃に備え、地面に到達した手のひらが衝撃を受け止め──濡れた道路に滑って万歳のまま顔から倒れこんだ。
「あー……大丈夫?」
元気ないね、と他人事のようにこちらを覗く顔。小さな身体に眠そうに垂れた目と口はその実エネルギーをため込んでいて、短く切り揃えられた髪はそこらで跳ね上がり、いつも元気が有り余って周囲にまで余波が及ぶ太陽のような女。大きくて活発な猫のよう。
「痛い」
「いやあまさか倒れるとは。って眠そーだね」
八雲千夏。名は体を表すとはよくぞ言ったものだ。夏のようにきらきらと輝いている。
「春眠暁を覚えずってところ」
「さては夜更かしでもした?」
「ご名答」
当たったのが嬉しいのか、ふひひと笑う。
ゆっくりと身体を起こしてガードレールに腰を下ろす。寒さに震えながらズボンをまくる。膝は打ったものの痛いだけで傷はない。手袋を取っても、赤くなっているだけだ。大丈夫。
「じゃ、行こうよ」
タイミングを見計らって千夏が手を伸ばしてくる。それを無視して立ち上がった。
なにやら不貞腐れたような顔で千夏が肩を叩くが気にしない。何も思い通りにやってやる必要もないし、下手に絡むとまた転ばされるかもしれない。
歩き出すと千夏が声をかけてくる。
「それにしても、夜更かしでなにしてたんですかねえ」
「何でもいいだろ」
「面白いことでもありましたか?」
斜め後ろから声をかけてくる。たまに肩を叩いたり腕をつついたり、並んでいるより遊ばれやすい。絶対に狙ってやっているけど振り切る気力もない。だが、遊ばれるがままで気力が磨り減っていくのもアレだ。できるだけ疲れないように返事をする。
「別に。外を見てただけ。雪と月が綺麗だった」
「そろそろ満月だしねぇ。私も見ようかなあ」
それにしても詩人っぽいですな、と付け加えられる。そんな気はないのだが。当人はそんな発言はとうに忘れた様子で話を続ける。
「四月に降る雪も珍しいよねぇ。天変地異の前触れだと怖いなあ。あ、でも寒気がとどまっているっていうし温暖化と中和しないかな。さすがに夏は暑すぎるしここらでチョイと冷やしてくれませんかね地球さん、って」
「そんなことしてる間に台風で飛ばされるんじゃないの」
「地球が冷えたらおっきな台風もできないんじゃないの。逆に寒いのが多くなって冬が長くなったり夏が来なくなったり。もう春も秋も花粉症くらいだけれどねー」
「そんな氷河期じゃないんだから」
だらだらと脈絡のない会話を続けていると学校が見えてくる。
公立第三高校は県の中でも比較的大きく、校門も敷地もそれなりの大きさがある。校則もゆるく私服でもOKという先進的な学校だ。とはいえ制服もあるし、着ている人もちらほらと見える。しかし改造をしても怒られないので、もはや私服の方が早いのではないかというものもある。
その一つが振り向いた。
「相変わらず騒々しいな」
「こいつに言えっての」
分かっている、と言いたげな目で彼は千夏を見る。だが騒々しいのはむしろ彼の方だ。
丁寧に撫でつけられた艶やかな髪の毛。センスはいいのに学校には不似合いな、スーツのように改造された制服。ミスマッチな登山用のゴツいブーツ。首には赤いマフラー。極めつけは、紫雲院善治という名に恥じぬ紫を基調とした色づかいである。
ただ、眉目秀麗でなおかつ細面の知性派悪役面だからそれが似合っているのが腹立たしい。本人も自覚してやっているのだろう。
ただし千夏に効果はない。
「おはよー。今日もキメてるねえ」
「その言い方はよせと言っているだろう。ヤバい薬か何かやっているように思われる」
実際、ヤってはいないが取引の元締めはしていそうな外見である。本人も自覚しているだろうが。だから厄介なのだ。
そんな二人が集まると人目を集めることこの上ない。だいたいが動物園の檻の中を覗くような視線。一般人の自分からしたら巻き込まれてあまりいい気はしない。でも、友達とともに居るのは楽しいから、なるべく無視するように努めている。
「おお、このブーツはいいものですな。私も雪でも大丈夫な靴が欲しいよ」
物欲し気に千夏は善治のブーツに視線を這わせる。そう言う千夏は防水加工が施されたスニーカーである。
「お前は動き回るんだからそれでいいだろう。こんなもんじゃ重くて仕方がない。いや、むしろ足枷になっていいのか」
「へへん、私を舐めないことだね。こんなものすぐに履きこなしてみせるよ」
「貸さないぞ」
「ケチー」
口ぶりも軽く、しかもすぐに興味を失ったようで今度は知り合いを見つけてそっちに走っていく。雪が残っているのに軽快に、その姿は普段と変わらない。
「明里もあんな奴に目をつけられていると苦労するな」
「善治には言われたくない」
「俺はまだマシだろう」
「どうだか」
コイツも目を付けられたくない筆頭である。
ただし、現実は甘くはない。もうこの二人と関わってしまっているのだから。世の中に類は友を呼ぶということわざがあるのが不幸なところである。
二人と徒然な会話をしながら校舎に入っていった。
授業は起きて眠りを繰り返していた。ノートは辛うじて判別のつく箇所と虫が這ったような跡しかない。でも新学期早々にそんな難しい授業などないだろうし大丈夫だろう。何かあったら友達に見せてもらえばいいし。そんなこんな状態が四時間、体感的には三十分。途中からはタブレットの上にタッチペンが転がっているだけだった。
授業終わりの鐘で目が覚める。しかし眠気は晴れない。引き続き昼休みも睡眠にあてようとした。
が、それは叶わなかった。千夏の襲来があったのだ。クラスは違うのに勝手知ったる様子で机まで来る。相変わらず騒々しく、何を思ってか友人も引き連れて来た。
「おいっす」
「…………」
どん、と音を立てて形のいい尻が降って来た。千夏に机の半分が占拠されたのだ。慌てて身体をずらす。が、それで満足しないようだ。
「やめて……」
そのままどんどん領土を広げようとしてくる。脚を机に絡めて身体を固定し、机の縁を片手で掴んでバランスを取り、ゆっくりとしかし着実に寄せてくる。しかも、小柄な身体ながら鍛えられており、生半な力では押し返せない。
「分かった、起きるから、やめて」
身体を起こすとようやく進行が止まった。千夏の友人の視線はこちらにない。無視されていたようだ。止めてくれても、いいのに。
千夏はこちらに顔を向ける。
「それで、何の用」
「友達のところに行くのに理由が必要かなあ」
「だからといって机に座る必要はないんじゃ」
「こうすれば起きるでしょ?」
真顔で言うから恐ろしい。だが、火急の用でないなら寝かせておいてもらいたい。
「あのさ、眠いんだ」
「でも寝てたら話できないでしょ?」
「しゃべる相手いるじゃん……」
「でもさでもさ、人が多い方がいいじゃん」
「ぼくはよくない」
どうしてこいつは人のことを考えられないのだろう。もしくは考えたうえで無視しているのか。どちらにせよ、安眠の邪魔である。
だが、どこか違和感があった。居心地の悪さが身体を刺す。よく見ると、千夏が連れて来た友人がこっちをちらちらと見ているのだ。こちらがそれに気づくと、目を逸らす。妖しい。
「冬野がよくなくても私はいいの。それに、もうお昼よ。よく寝られたでしょ」
「なんで授業中に寝てるのが前提なの」
「朝眠そうだったし。それともちゃんと起きてたのお?」
挑発的に言う。そこを突かれると痛い。
何も言えない僕を尻目に千夏は机から降り、どこからか弁当を取り出して机の上に広げはじめる。まさかそのために起こしたのではあるまいな。気づけば周りの机が占領されており、四面女子トークの状況である。
そして匂いが広がり始める。教室のあちこちで始まった昼食は、胃に攻撃を仕掛けてくる。こうなるから寝ていたかったのに。だが仕方ない。
「ちょっと購買行ってくる」
「あるよ」
再びどこからかパンを出す。焼きそばパンとカツサンドとたまごサンド。適当にカツサンドを指したら、それを手の上に置いて、残りの封を開けて口へ運ぶ。自分で食べるのかよ。弁当の中身はまだ手をつけてない状態で、そんなに入るのだろうか──と思ったら一瞬でパンが消えた。ともに三口ずつで食べきっている。男子も満足ながっつりサイズとして売っているものなのに。
そして弁当にとりかかると、その中身をものすごい勢いで消していく。いったいその小柄な身体のどこに入るのか不思議である。あるいは入れた端から消費しているのか。恐ろしいことにしゃべる口は止まらない。
カツサンドを食べる。そんなに一気に食べる気もなく、小さく一口ひとくち口に運び、他愛も中身も無い話を聞いている。
食べ終わるとお腹が満たされる。次第に女子トークと周囲の雑音が混ざって一つのオーケストラのように聴こえてきた。机の上は既に片づけられていてゴミも回収されている。腕を枕にして倒れこむと、すぐに視界は黒に覆われ音は耳から消え、意識は暗闇に落ちた。