二日目・二十三日:金曜──夕から夜
夜になって遥は目を覚ました。また変な夢を見た。はっきりとは覚えていないけど、誰かと花見をしている夢。去年は神社ネットワークの人とやって、今年は友人がやるって言ってたっけ。でも、季節は逆戻りしてしまって機会がない。
身体を起こすともう点滴は外されていた。スマホには着信があって、汐音さんからのメッセージが入っている。
見ると、もう大丈夫だという言葉が呆れ混じりに心配を添えて長々と書かれている。
身体を動かしてみる。鈍痛は残っているけど、筋肉をほぐせばそれも消えるだろう。
頭がはっきりしてくるにつれてお腹が悲鳴を上げる。冷蔵庫を覗くと夕食の準備は既にできていた。量からすると明日の朝食にもなりそうだ。
容器に取ってあったご飯をレンジに、その間に机に野菜を並べ、鍋の中の豚肉に火を入れる。すぐに温かくなって食卓の完成だ。
疲れた身体は栄養を求めていた。あれだけあった料理が全て、明日の朝食分も消えていた。
「あれ……」
おかしい。食事に夢中になっていたにしても減るスピードが速すぎる。もしや治療の時に何か仕込まれたか。
明日のことは明日にしよう。食材はあることだし。
それよりも桜だ。ひとつ、調べたいことがあるのを忘れていた。宛先を指定しスマホに声をかける。
「八重、これから会えますか?」
『大丈夫よ』
返事はすぐ。常時電脳と繋がっている彼女ならではの速さである。
病み上がりには少しきついかもしれないが、ヘッドセットを被りWhispelにアクセスする。コミュニティサイトに入ると八重は既にいた。
『こっち来て』
八重に導かれるまま彼女のインナーサイトに入る。彼女個人の空間で、何度か訪ねたことはあるけど行くたびに変化がある。今日も、前回は無かった雪が降っている。その中に佇む細い姿があった。
八重のアバターは少し変わっている。ロボットなのだ。ロボットにしても、ごつごつして面が多くブロックを積み重ねたようなものじゃなくて、ほとんどが一枚の曲面で構成された、ポリゴン数の少ない形。腕や脚も身体も細くて、そのくせ金属の質感はきちんと表現されているから重量感はしっかりと出ている。
ただし、声は本人のものだ。
『それで、何の用なの?』
いかにも好奇心があります、という感じ。ロボットの姿で癒し系の可愛らしい耳元で囁かれていたい声を出されると、そのギャップに眩暈がしそうになる。ただ、現実の彼女を知っているので、ロボットのアバターはよく似合っているのだけれど。
「八重は、図書館の本をよく知ってますよね。その中に桜についての本ってありませんか?」
『桜についてっていうと、生態とか伝承とか色々あるけど……はなさかじいさんも桜についての本だよ?』
「あ……そうじゃなくて、あの山、遠江山の古桜についてです」
遠江山……と八重は呟く。記憶を探るように頭が軽く揺れる。野暮でも現実の姿が見たいな、と思ってしまう。
『それなら市歴にあったわ。でも、お花見はできないよ?』
「それは雪がやんだら行きたいけど、そうじゃなくて」
『また神話とか日本のことについて調べてるの?』
「そう、なのかな」
『ふぅん。まあ司書は利用者の事情にあまり首を突っ込まないんだけど』
「いまは時間外でしょ。友達の相談」
うぅん、とロボットは唸る。
『本当はいけないんだけどなあ、でも、何かありそうだし』
「何かって?」
『詳しいことは言えないんだけど、珍しいわね。その桜のことを訊きに来た人が他にもいたのよ』
聞き捨てならない言葉が全く意外なところから来た。険のある言葉が口から出た。
「それは、誰ですか」
予想はついている。しかし、それ以外に桜のことを知っている勢力がいれば話は別だ。そうなったら事態は複雑になる。
『ごめん、それは答えられないの』
しかし返答は無い。彼女としては当然のことだろう。利用者の権利を守る、その職務を全うしているにすぎない。だが、自分にもやらなければならない職務はある。
「どこまでなら教えてくれますか」
『ヒントくらい……うーん、そうねえ』
とはいえそうあっさりと教えてくれるとは思わないけど。でも八重にとっての個人情報が何か、ということを考えると、何か漏れてくるものもあるかもしれない。
──最悪だ。友人関係をそういうことに使うのは心苦しい。しかも八重は馬鹿ではないからそれを分かっている。友人が何かに首を突っ込んでいることを分かっていて、司書としての使命と職務を天秤にかけて、渡せる情報を選んでいる。本来、自分は何かを言える立場ではないのだ。
少し悩んで、八重は口を開いた。わざとらしく明るい口調で、世間話をするように言う。
『──じゃあ一つ。カップルでした』
「カップル?」
『そ。桜のことを訊いてきたのは男の子の方で女の子はつまらなそうだったんだけどね、放課後デートって感じだったの。最初に図書館の前を通り過ぎたときも手を繋いでたし、初々しかったなあ』
その言葉だけで必要な情報は揃ったと言っていい。対して八重にしてみれば、図書館に来るカップルなんていくらでもいる。自分だって、勉強と称してイチャついているのは何度も目にしているし、その中の一組を特定するなんてできっこない。
しかし、ここで重要なのは男の方が桜のことを訊いていたこと。放課後というからには小学生から高校生のどれか。大学生以上ならば放課後とは決められない。それに、八重はそういうところで曖昧なことは言わないから。
でも、それ以上のことを話すことは無いだろう。二人が犯罪に関わっているとしても八重の口は開かない。だから、この話はここまでだ。
「羨ましいのですか?」
『うぅん、別に。誰かと付き合うのって想像できないんだよね。ほら、こんな身体だし』
「──っ!」
彼女は脚が動かない。その理由については話してくれたことは無いし、無理に聞こうとも思わない。だが、そのせいで過去に何かあったのは想像がつく。こんな身体、と言うとき、八重は色々なものを諦めたような、宇宙まで見えそうな青空みたいな乾いた声を出す。
『それにさ、わたしは好きとかそういうのが、他人とは違うみたいだから。恋愛には詳しくないというか、分からないんだよ』
言い訳じみた言葉を並べる八重は、どうしても見ていられない。
「それは、人それぞれでは」
『そうだよね。遥はそう言ってくれる』
でも、世の中にはそれが通じない相手が多すぎる。言葉が文字になっていたとしたら、八重のそれは塵のように砕け散って、少しずつ雪のように積もっていくのだろう。彼女の心からそれが消えることはない。むしろ、自分からそれを確認して、さらに多くの塵を積もらせているようでさえある。
『だから遥は友達なんだよ』
そして、自分には八重の気持ちが少しなりとも分かってしまう。きっと、同じような境遇で同じような寂しさを抱えているから。電脳世界の片隅で、互いに手を取り合いながら慰め合っている。
「八重、そこまで。これ以上は、あまりよくない」
びくり、とロボットの身体が、本来そうあるように固まった。
『えっと、わたしまた、変なこと言ってたよね。ごめん……』
「それはいいんです。でも、湿っぽい話をしたい気分でもないから、そういうのはもっと別の場所で」
『お花見とか?』
くすっ、と八重が笑う。いい声だ。眠る前に目を閉じて聴いていたい、鈴を転がすような綺麗な声。可愛らしさと少しの凛々しさが混じった清涼な音。いつもの八重だ。
「じゃあ、明日リアルで会いませんか? 愚痴を聞いてあげます」
笑いを繋げるように、つんとした感じで冗談めかして言った。
くすりという笑い声とともに彼女は言う。
『いいわよ、お茶会ね。何時がいい?』
「13時でお願いします。お昼は一緒に食べましょう」
『遅れないように』
「はい、分かっています」
互いに小さく笑った。とりとめない会話、いつまでも続く雑談、一緒にいる時間が限りなく愛しい。そんな関係が一番の宝物だ。
「じゃあ、また明日」
『桜についてはその時に話すね』
Whispelから離脱する。今日は病み上がりなのであまり長くはやっていたくない。全く動かなくても脳は疲れる。それに、今夜も何か動きがあるかもしれない。
汐音さんからは動かないように言われたが、念のため補助器具を用意する。着用はしないがいつでも飛び出せるように布団の横に置く。
しかし、それを使うことはなかった。いつの間にか眠っていたが汐音さんが気を回したのか朝まで緊急の連絡はなく、気持ちのいい寝覚めを迎えた。
だが、既に事は起きていたのだ。
朝御飯の準備をしつつ桜のことで動きは無かったか確認を取る。それに反応して汐音さんからメッセージが来た。
冬野明里に記憶処理をした、と。
再来週はコミケ行くので先に投稿します