数学を憎んだ少年
彼は他の教科はともかく、数学がとにかく苦手で嫌いであった。
かわいい彼女にも会えるし、学校はむしろ好きなほうなのだが、数学の授業があると思うと、もうそれだけで行くのがいやになるのだった。
まったく理不尽なことだった。数学なんかがあるおかげで学校に行きたくなくなる。つまり数学のせいで彼女の顔を拝むことができなくなるというわけだ。
なぜ数学などという教科がこの世に存在するのか、それがそもそもおかしい。
なにしろ実社会に出たら数学なぞなんの役にも立たないのだから。
コンビニで買い物をして、お釣りを計算するときくらいは役立つかもしれないが、それは小学校の算数レベルで充分なはずだ。
あの呪文のような数式、三角形だの三角関数だの、微分だの積分だの、日常生活のどこにも使わないではないか。なにかの確率だの、そんなあやふやなものが、しっかりと大地に足の着いた堅実な人間にかかわりのあるはずもない。
なぜこんな無益なものを習うのか。時間の無駄だ。
そこで彼は神様にお願いすることにした。
数学がなくなれば他にも喜ぶひとがいっぱいいるし、なにしろ無駄な時間がなくなって、有益なことに時間をさけるようになるから社会がますます豊かに発展することになるからいいことづくめだ。なぜおれ以前の誰も気づかなかったのだろうか。
「神様、世界から数学というものをなくしてください」
願いはただちにかなえられた。
彼は彼女にこの喜びを伝えるため、電話をしようと携帯を取り出した。が、それは使えなくなっていた。
まず音声符号化やデジタルデータの圧縮のための確率論その他の数学理論がないので、声を電波に乗せるための変換ができなかった。
また、誤り訂正、暗号化のための群論がないのでデジタル化されたデータを変換したり元に戻したりができなかった。
いや、それ以前にデータのデジタル化ができなかった。
「なんだこりゃ、肝心なときに故障か、使えねえな。しかたがない、公衆電話を使うか、まったく」
彼は珍しく残っていた電話ボックスに入った。お金を入れたのに受話器を耳に当ててもトーンは聞こえなかった。アナログ信号を多重化するためのフーリエ解析等の数学理論がないためだった。もっとも仮にそれができたところで、音声がアナログなのは最初の交換局までで、そこからはデジタル化のうえ多重化されるため結局のところ使用不可になることは避けられないのだった。
「ちぇ、こんなボロを置くなよ。しかたがない、直接会いにいくか、まったく」
彼は電話ボックスを蹴飛ばした。
彼はタクシーを拾おうと車道に近寄った。道路では、あちこちで車が停まったまま動かず、なかには乗り捨てられたのもあった。タクシーもところどころにいたがみんな停止していて、運転手は途方に暮れているように見えた。
エンジン制御、スロットリング制御、インジェクションのマルチディメンションマッピングコントロールなどのための常微分方程式、積分方程式がなくなり、制御理論も使えず、そもそもそれらを実現する電子制御のためのマイクロコンピュータも設計が成り立たず動かなくなってしまった。制御されなくなったエンジンが暴走して火を噴き、ところどころで火柱が上がっている。
「なんなんだよ、なにもかも欠陥品ばかりだな、しかたがない、歩いていくか、まったく」
彼は歩き始めた。しかし道路がひび割れたり、波打ったりして歩きづらいことこのうえなかった。コンクリの成分配合の計算ができないためだった。
夕暮れで薄暗くなってきたのに、街灯もつかず、家庭の電灯すらつかず、どんどんあたりが見えづらくなっていく。
「ちっ、なんで灯りがつかないんだよ、電力会社は何をやってやがるんだ、まったく」
交流電源を御するのに三角関数すらないためだった。
高層マンションの横を歩いているとき、その建物が崩壊した。有限要素解析など、耐震設計を組み込んだ構造計算のための理論がすべてなくなってしまったのだからあたりまえだ。
彼は文句を言う間もなくなだれ落ちてきたがれきに飲み込まれ、全身を強く打って死亡した。
〈了〉