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幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳  作者: 秋月しろう
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幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳 下篇 -2-

 吐く息は苦悩で重く、脚をしっかり胡座あぐらに組んで諸肌もろはだを押し広げ、布袋ほていのような自分の腹を左手で二、三度撫でながら、得ものを取って、観念の眼をカッと開き、よし、今突き立てようとするまさにその時、見れば手にしてた鎌は庄屋殿にもぎ取られていた。不覚、不覚、死ぬことはできず。いや、死ねるべき義理か、自分を憐れんで金まで貸してくれた恩をあだにし、死のうとするのは余りにも思慮のないこと。しかしながら、このまま生き続けることもできない。では、刀を作るのか。悔しいけれど、自分にはそれほどの腕はない。なら、作らずにおくべきか。いや、そうであれば一刻も生きてはいられない。それなら死ぬべきか。死ぬのは容易たやすいが、死んだとしてもそれで済む言い訳にはならず、結局刀を作り出すほかどう考えても自分にできる道はない。作ってみるか。作っても無駄なことは分かったこと。しかし、こうなったら作らずにはおられない。作るべきか作るべきか。アア、覚束ない。作らざるべきか作らざるべきか。しかし、作らずにはやはりいられず、とても作らずにはいられず。作ってみるか。作るべきか。作ると決心すべきか。作ってみれば万一いいものを作ることができるかも知れない。イヤ、万一では当てにならない。そうであれば作らざるべきか。いや、どうしたとしても作らずに済む理由が見当たらない。作ると決心すべきか。必死になって作るべきか。是が非でも優れた業物わざものを作り出すぞと覚悟すべきか。覚悟すべきか。おう、最早これより他に何があるのか。作れ、作れ、作るべし! 当代第一の刀を打ちあげるのだ。古今無双の良刀を鍛え出すのだ。自分の我を通さず、かたじけなくもお情け厚い人徳を備えられた殿様の恩命を戴き、御家老様、庄屋様の優しさ親切を身に引き締め、十余年来師匠様がその胸からこの胸に吹き込んで下さった教えのためにも、なまくらながらも強くなったこの腕を振るって、ああ、自分の魂は生まれた時からこの鉄砧かなとこなのだと据え堅め、陽のつちには恩に報い、陰の鎚には義に背かずと、歯を食いしばって力を籠め打ち、未練の思いは横に切り目を、卑怯な心は縦に切り目のたがねを入れて、折っては返し、割っては合わせ、十五度鍛えて四つを一つに練りつづめて、満身の熱血を地金に丸め、無垢の一念を刃金はがねに乗せ、この腹の中の猛火を燃え上がらせて、何度もかしたて、かしたて、結びつけ、水を打ち、せんで透かし、つつしみ謹み油断なく、刃土はづちを削って、さてその後こそ一期いちごの大事な焼刃わたし、湯玉をおどらす誠の涙に、ただ願い奉るは神力の加護、たとえこの身は即座に命召されるとも露ほども惜しくない。名声とか名誉とかのために祈るのではないのだ。哀れみ給え、神も仏も。こうして湯加減誤りなく一刀が成就するものならば、まさか、世の中の欲に使われ、名誉のために打つ鍛工がこしらえた物に劣るはずはない。昔の名工、天国あまくにとか天座あまのざとか神息じんそくのことは知らないが、村正が話したと言い伝えられていることや、近くでは助弘すけひろが新刀正宗と呼ばれている理由は、その昔、ただひたすらに一心の真実を見事に打ち出したということに尽きるのだ。えいっ! おれは今まで何と愚かだったか。小烏こがらす子狐こぎつね、鬼切り、髭切りと呼ばれる名刀はそもそも誰が作った? 夜叉でもなく菩薩でもなく人間なのだ。おれも同じく人の身体に生まれ、指も十本揃っている。背骨も曲がらずしっかりしている。……死なないぞ、……死なないぞ、無駄には死なないぞ。よおし、この神国に男と生まれて、虫の如く死んでなるものかと、心機一転、顔色は変わり、眼中は憤りの朱に輝き、逆立つ髪は燃え上がる黒煙となり、天も焼くほど焦がすほどであった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――


 稲荷山いなりやまの土、播州ばんしゅうの鉄をこれは! と庄屋が驚くほど取り寄せ、不浄を払う注連縄しめなわを家の周りに巡らした後、正蔵は釘一本、小刀一挺、依頼を受け付けず、ずっと刀ばかりを作っては捨て、作っては捨てを繰り返した。自分は勿論、相鎚の男たちをもどうやって口説いたのか一歩も外には出さなかった。百二十日はたちまち過ぎて、殿から催促の使者が来れば、『何とぞお待ち下さいますよう。でなければ、自分が気に入らぬ物に自分の名を刻んで差し上げるよりは、腹を掻き切って死ぬ覚悟でございます』との口上。役人は驚いて、色々言うけれども、まったく聞き入れず、どうしようもなかった。殿もついには、

「正蔵の言いたいのはつまり、私のめいを大切に思っているということだろう。他の頼みを受け付けずにいるのはその証拠。よい、そのままにしておけ」とおっしゃれば、あきれ果てるのは庄屋だけ。しかし、これもいつも朝早くから鎚の音を暁の星に響かせ、夏が過ぎ、秋も去りして季節は移るが、休むことなく励む正蔵に免じて、後はもうそのままに許しておくのだった。

 こうして、水は氷と名を変えて堅くなり、案山子かかしに鳥が止まる冬になっても、落ち葉のひるがえる風の中にも、この村には金属の打ち合わされる冴え渡った音が響き、畑を焼く煙が空に棚引いて、霞の隙間にゆらゆらと陽炎が現れる長閑のどかな春が訪れても、『妻呼ぶ雉子きじ』を家の外に聞くだけで、正蔵達は姿は見せず、夏も、それが過ぎても、雲を貫き、月も落とすほどの響きに、人々は見ていた夢を遮られるくらいに驚かされたが、三年は瞬く間に過ぎ、ある日、白い犬がしきりに吠える時、何事と、庄屋が出てみれば、清らかな顔に十分の活気を含んで家の前に立つ髪髭かみひげぼうぼうの男、おお! それはまさしく、久し振りの正蔵であった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――


 樹木の緑が深い築山泉水つきやませんすいの見事な御庭先に、庄屋より少しうしろ、正蔵は恐れ入ってかしこまり、固唾を飲みながら、ただ何となく涙ぐんで控えた。多くの侍達が整然と居並ぶ中、悠然と坐られている殿。今、近侍きんじが取り次いでお持ちする一刀のさやを静かに払われれば、たちまち帽子先から電光一閃が走り、見事な業物わざものは見るのさえ眩しい。なおよく、鎺本はばきもとから切先きっさきまで、切先からまた手元まで、瞳を凝らしてご覧になれば、肌はこまやかに光りやわらぎ、の色は秋の空をたたえて、いかにも青く澄み渡り、刃文はもんにえあざやかに匂い深く、刃は一条の霜が白く冴えて、切先爽やかな帽子先は見るも不思議で、たまも貫かんとする風情である。つくづく眺めておられれば、刀上とうじょうに雲が湧き、うしおが乱れて、たちまち春の雪に烏毛うもうがちらつき、また、星影の水底に揺らぐようなものが現れては霞去った。まるで生きているような有り様は、もしかしたら神龍が姿を変えて現れているのではないかと怪しまれるまでの稀代きだいの妙作。流石さすがに心奪われて言葉もなく、茫然と酔ったようでいらっしゃったが、やがて右の手にお持ちになったまま殿は乗り出して、

「正蔵、よくぞ作った。この美しさは十分である。しかしながら、余りにも美しすぎて、逆に覚束おぼつかない、切れ味はどうだ」

 殿にそう言われるや否や、次の言葉を何と申し上げればいいのか、と、正蔵(われ)を忘れ、顔色を変えて突然御縁の上に躍り上がって、仁王立ちに立ちとなり、大きく張り出した腹をパシッと叩き、こう言った。

「お切りくだされ、これを、間違いなく二つになって見せまする」


                (了)


「一口剣」の現代語勝手訳はこれで完結です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この作品も、下篇以降、実際は「五重塔」のラストシーンを彷彿とさせる迫力のある文体ですが、私の拙い訳ではそれが表せたかどうか全く自信はありません。是非とも原文をお読みいただけたらと思います。

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