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幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳  作者: 秋月しろう
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幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳 下篇 -1-

 下篇


「お日様がこんなに高くなったのにまだ寝ているか。昨夜はさぞかしかかあに可愛がられて、今朝は遅かろうと遠慮してきてやったのに、これはまたあんまりな」と独り言を言いながら庄屋は立ち止まって、コレコレと戸を叩けば、正蔵、吃驚(びっくり)して眼を醒まし、起きてみればこれはどういうこと。

「お蘭、お蘭、用足しに行ったのか、おらんのか。わっ、これは、逃げたか! アッ、ええ? 五十両かっさらってか、これは!」と、気が動転してしまい、意味無く立ったり、伏せたり、転び廻ったり、自らの手で胸を掻き毟り、ついには畳に食いついて忍び漏らす悲鳴の声。


 これはただ事ではないと勝手口を蹴り破り、庄屋はおどり入って、

「正蔵殿、何事でござる! 正蔵殿、正蔵殿!」

「ヤ、庄屋様かっ!」といきなり飛び起きて、仕事場へ駆け下り、まだ柄も付いていない鎌を取って、身体に突き立てようとする意気込み烈しく、今まさに危ういところを追い縋って年寄りが必死になって止める。

「ま、ま、待て」とようやく鎌をもぎ離せば、「これが死なずに」と血眼ちまなこになって、またもや今度は自分の頭を鉄砧かなとこに打ち付けようともがく。

「危ない、待て、このたわけが、御上御用(おかみごよう)を務める庄屋が待てと言うのに待たぬか」とあらがえない一言に言い込められ、五体を土間に投げ打って泣くが、声さえ出ない有り様。仔細を話せと言われて、正蔵がただわずかに指さす行燈あんどん、眺めるけれども老眼の庄屋の眼には見えにくく、近寄って見ると、

『思えば思うほど不甲斐ないお前様には恨み多ければ、五十両はその代わりにもらって行く』と消し炭で書いた跡が薄く読み取れた。

「そうか、わかった、わかったぞ。五十両を嬶にられて逃げられたので、仕事ができず、それ故、実はその、死のうとしたのか。よしよし、五十両は必ずこの庄屋が御上への忠義と思って、立て替えてやろう。決して短気は起こすまいぞ。実は間男はいないだろうが、かねてからその、女っぷりはよさそうだが、実はその、あまりに利口過ぎて、色気がありすぎて、御上の御用を務める庄屋は、実はその、好きではなかったが憎い女よ。しかし、出来合いの夫婦というものは、実はその、だいたいこういう結果になるもの故、実はその、これで諦めるのが後々のため、かえっていいのでござる。日本一の鍛工をこれしきのことでむざむざ殺してしまっては、実はその、御上へこの庄屋が済まぬ。そなたが死ねば、実はその、わしの落ち度、儂を困らせても構わないと死に急ぐそなたの考えは、実はその、少し間違っておる。だからうろたえずに待て、待て、待て」と、入れ歯を噛み噛み堅く止められて、死ぬに場所なく、生きるに道なく、正蔵はこの我が身が一体誰のものか分からなくなった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――


 投げ込まれるようにして、また五十両の金は庄屋殿から贈られた。だが、我が腕はなまくら。刀は作らねばならず、アア、どう考えても我が腕のつたなさが無念でならない。思えば、思えば、こんな果敢はかない荒れ果てた家に、人間らしくもなく、ただお日様の光をぬすんで、すきくわなどをわずかに作り、露の命を繋いでいる見る影もないこの虫のような自分を、尊い御心にかけられて、わざわざ有り難い殿様の御気持ち。離れまいと連れ添った女にさえ見限られて、古草履ふるぞうりよりもたやすく捨てられてしまったほどの虫にも劣るこの自分を、御領内のたみの数の内に入れてくださるだけでももったいないのに、しかも、技量を試して取り立ててやろうとはどこまで厚い御情けか。それなのにこのおれはどうだ、先日は浅ましくも迷惑だと卑しい心で思った自分、よくもその時に罰が当たって血反吐ちへどを吐かなかったものだ。思えば、今かたじけなさが骨にも徹して、五臓六腑は感謝の涙の湯気に煮立つけれど、悔しい、悔しい、山より高く、海より深い御恵みに報いるためのわざは鵜の毛ほども持たず、ええ、自分はこのまま死ぬ方がいいのか、それとも死なない方がいいのか、たわけにもせよ、阿呆にもせよ男一匹腕二本、五体満足に産んでくれたこの男の姿でもって、恩知らずの畜生となりすまし、刀は作れませぬとは誰の口から言い出せるのか。アア、情けないと言う甲斐もない自分、天にも地にも見放されて、この世にもあの世にも六尺足らずの身体はやり所もない。これは何故なにゆえ? 目が醒めてみれば、恨めしい一念の迷いからお蘭というさび性根(しょうね)の鉄を食われて、昨日きのうまでも昨夕ゆうべまでも腐れ合っていたせいだ。置き去りにされて、憎いのは憎いけれど、その憎さよりももっと憎いのは昔の自分。師匠様に背いた過ち、親父様を悩ました罪で、今自分がその通りの目に遭って苦しめられるのはしょうが無い廻り合わせと、その運は諦めもするけれど、自分の罪は諦められない。チッ、何がよくておれの心に泥を入れたあの女が可愛かったのだろう、何がよくて自分を自滅の暗闇に引き落としたあの悪魔と駆け落ちしたりしたのだろう、何が、何がよかったのか。チッ、自分の歯で食い取って捨てたいような惰弱(だじゃく)の振る舞い、悔やんでもしょうがないけれど、もしも横道に逸れず、真面目にわざ一筋に努力していたなら、多くの弟子がいる中、自分を可愛がってくださった師匠様にも相鎚あいづちをお頼みして、しっかりと勇み進んで見事に刀を鍛え上げるものを、悲しいことに明日か明後日来る予定の昔の仲間にも技量は劣り、しかも自分は欠落者かけおちものと蔑まされるだろうから、何を楯にして()()()()とこの顔を合わせることができよう。たとえば、この惜しくもない自分の余命を一切の天、一切の神に犠牲にえとして捧げ、一心のまことを凝らし、精気を出し尽くし、自らの肝胆かんたんを小わかし、大わかしの烈火に焦がし、三万二千七百六十八度、鎚で打って、打って、鍛えに鍛え上げたとしても、ええっ、ええい! この汚れた自分の祈願は神には取り上げてはいただけず、護り助ける力もお貸しにはならないだろう。ええっ、絶体、絶命、粉になって吹っ飛んでしまえこの五体、煙と消えてしまえこの命。神にも仏にも寄りすがる望みの緒もえて、頼み奉るべき木陰は自分の罪により雨が漏り、本来蒙るべき筈の大慈の光も自分の罪の黒雲が遮って届かない。死ね、死ね! 殺せ、早く殺せ! 虚空の風が毒となって罪深いこのおれをせめて早く殺せ! 殺せおれを! と、懺悔ざんげに絞る血の涙。遺恨にきしらす牙の音。唇はいつしか噛み裂かれて、青みがかった顔の顎にはくれないの一条がむごつたっていた。


つづく(次回で最終です)

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