幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳 中篇 -2-
「何が心配で、そんな浮かぬ顔をしておられるのか」と何度も女房に訊かれて、これが苦労の重荷だと、ごろり、懐から取り出した二十五両の包みを二つ投げ出せば、お蘭は眼を丸くして、すぐに手に取り上げ、
「何としたこと、大金を粗末に扱うとはもったいない。しかし、余りに不思議で肝が潰れそう、マァこれはどうして持って帰られたのか」と膝をすり寄せれば、
「聞いてくれ、今日庄屋殿と一緒に御家老様のお屋敷に上がったが、しばらく待たされて、足の痺れを我慢する中、恐れ入ったことに、やがて侍に案内されて立派なお座敷へ通され、直々に一つ間でお目にかかって御用を伺えば、御家老様とはお人柄の良い中年の御方で、御声優しく、『日本一の刀鍛工正蔵とはその方か』とのお尋ね。吃驚して畳に頭を埋め、『正蔵とはまさしく私の名前ではありますが、取るに足りない鍬鍛工。到底日本一などではございません。それはお人違いでございます』と申し上げたのだが……」
「コレ、あなたはなぜ、そのように気の弱いことを言われる」とお蘭。
「イヤマア、黙っておれ、『イヤイヤ辞退には及ばず、その方の技量は当世に勝れ、虎徹、繁慶にも優ると言う者までおり、それをすべて御上はご存じである。さて、わざわざ呼び寄せたのは外でもない、御上の御意向なれば、しっかりうけたまわれ』と言われて、全身に汗をかきながらいよいよ恐れ入って伺えば、『我が領内にそれほどの名工がいるのも知らず、むざむざと落ちぶれさせているのは残念である。急ぎ、その者に命じて一ト振りの新刀を作り出させよ、その恩恵として取り立ててやろうという有り難い殿の御覚し召しである。しかしながら、その方、貧しくして、向こう鎚にも仕事のある時だけ、あやしい近所の小僧を雇っているとのことまで分かっておる故、我に一切その方の都合が良いように取りはからわせよと隅々まで行き届いた仰せである。その方が相方にしたい者の名前を出せば、直ちにこちらから人を使わせて、江戸からでも京からでも掛け合って迎え入れよう。また、色々と経費もかかると思われるので、貧賤のその方の迷惑にならぬよう、仮に五十両を下し置く。尚、百二十日を期限として、天晴れな業物を作ったあかつきは、十分のご褒美を賜る故、しかと覚悟して怠りの無いよう励むように』との御言い渡し。また、庄屋殿に向かっては、『正蔵なる者は大切な御上の御用を勤める者故、その方、十分に気を遣い、便宜を図るようにいたせ。事よく成就すれば、その方にももちろん、御報償がある』との言い渡し。自分が何も返事をしない間に、あの庄屋めが自分に代わって御受けして帰ってきたという夢を見たような話だ」と事の次第を話せば、お蘭の眼の周り、眉、口元、両頬に悦びの色が現れ、愛嬌の光りが照り優り、ひたひたと男に寄り、近づき、崩れそうに無言で笑って、堪えられないようにいきなり男の肩を突きこかし、
「これが何の苦労? もう、人を、人をじらしてこんな嬉しい話を心配させながら聞かせて、最後のところで際どく女を嬲るなんて、ホホ、性悪な真似をなさる」と、額を近づけて睨む眼の中には濃密な色気が立ち、正蔵は花の香りに酔う鳥のようになって、言葉を出せずにいたが、その間に女は金を神棚に上げ、勿論のこと、祝いの酒を買いに戸外へ。
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嬉しさを汲んで飲む喜びの酒は回りが早く、お蘭は少し乱れて膝が見えるのも気づかずに前にずり出し、暗くなる燈火の心を簪でかき立て、
「ホホ、いよいよ運の開ける時節か、灯心の燃えさしの頭にできたこの丁字頭の大きいこと」と言うが、亭主は見もせず、黙ったままである。
「私は早、これほど酔ったというのに、どうしたもの、その真面目さは。気持ちが悪いのなら薬を買ってきましょうか。それともただくたびれているだけなら、横になりなされ、腰などお叩きいたましょう」と、傍近くに来て、日頃になく優しくされるのも返って今夜は辛く思う正蔵。冷たくなった猪口を取って、女の首に左手を掛けながらグッと飲み乾して、
「心配するな、どうもしない」と言えば、お蘭はそのまま男の膝に自分の頭を横に載せながら、酒を注いでやり、
「アア、江戸を出てから初めて伸び伸びと気が晴れて、胸のつかえも下がったような。これから後はただ叔母様を、立派になったあかつきには二人揃って尋ねて行って驚かせ、昔を詫びて綺麗に許しを受け、またお前様の親父様の勘当も許してもらい、天下晴れての恋仲と古い友達に羨ませて万年も楽しく……。ホホ、殿様御台様で仲良く暮らすだけ。アア、行く末が見えるような」と、眼を細くしてウトウトしかけ、
「アア、こうしている間に眠くなる。私は今トロトロと溶けていくような好い心持ち」と、甘えるような物言いは溢れるほどに情濃く、肉躍るほどの可愛さを覚えるのだが、同時に正蔵は悲しみ深く、
『ええ、無惨、どうやってこの腹の中の苦しさを吐き出して、このしおらしい耳に入れればいいのか』と、思わずほろりと落とす涙、それが頬に掛かれば女房飛び起きて、男にしがみつき、しげしげと顔を眺め、
「この人、隠し立ては恨めしい。さっきからの様子といい、今の一ト雫といい、その熱いものはどこから出たか。心の底をなぜ女房に打ち明けられぬ、お前様のふところにこの命を投げ込んでいる私によそよそしいとは余りに酷い。言って聞かされたとて、それが善悪のどちらにしても、後に退いてしまうような、そんな惚れ方をするような女ではないのを知らないわけでもあるまいに」と、華奢な身体を打ち任せて言い寄られ、亭主ますます堪えられず力任せに抱きしめて、声をくぐもらせ、
「お蘭、お蘭、許してくれ。悪いのはすべて我のせいだ。言い出しかねていたが、もうどうにも言わねばならなくなった。一ト通り聞いて、お蘭、後はお前の思うようにしてくれ。実は今日、殿様からの御言葉を受けて、我が命最早絶えたも同然。詳しく話すのも恥ずかしいことだが、十日ばかり前の夜、お前に向かって話したことがどうしてかすっかり殿様の耳に入ったと見えて、我を天晴れの鍛工と思い込まれての御恩命、有り難いのは山々なれど、悲しいことに、この腕が鈍くて、なかなか師匠を凌ぐほどの名作はできそうなはずもなく、御辞退申そうと思っても過日の夜の大口を知っておられれば、言い訳もできない苦しみの中、庄屋の親爺が御請けしてしまったので、それを言い崩すだけの智恵も出ず、グズグズしてしまい、大金まで頂戴してきたものの、帰る道すがらも夢路を辿って草も木も眼には見えず、結局良いものを作り出さなければ、大金まで戴いている以上、御上を偽る罪となり、重いお咎めに遭うのは必然。また、今さら自分の腕前を正直に申し上げても、御上に嘘をついたと取りなされ、これもお咎めを受けなければならないのは分かりきったこと。我に腕さえあれば嬉し、喜んでしっかりと念を入れて作り上げるのだが、コレ、どうか許してくれ、本当は先日の夜、お前に話したのは、悪気はないものの、お前の気持ちを安心させるためにふとした出来心で、つい口走ってしまったもの。元々我は鍛冶の道には十年余り携わり、精を惜しまず励み、習い、その方法はあらかた知ったけれど、生まれつき不器用なもので、とても天下に名のある鍛工達の中にいては飛び抜けた才能があるわけでもなく、たとえ一念を籠めて作ったとしても人の眼というものは欺くことができない鏡のようなもの、たちまち見破られて、より重い罰を受けなければならないだろう。そう思えば、どうともできず、この上は頂戴した金を封をしたまま残しておき、言い訳の書き置きをして、頼んでおいた昔の友人の相鎚が相棒としてこちらに来る前に、逃げてしまうより外はない。御情け深い殿様に対しても、御家老様に対しても、庄屋殿に対しても、お前に対しても合わすべき顔もなく、出すべき言葉も出ず、自分の事ながら不甲斐ない身を口惜しく思うけれど、正直なところはこの有り様。定めし愛想も何も尽きただろう。しかし、お前には見放されたとしても、それを恨める身ではないと、つくづく自分の愚かさを悟った上は、我を捨てて、稼ぎのある男を見つけて行く末長く幸せでいて欲しいというのがまだ我の望みだ。でなければ、我はこの世を捨て、山寺の坊主とも雲水の修行者ともなろう。くれぐれもお前にいい加減なことを言った罪はこの苦しみに免じて許してくれ」と、涙ながらに長々しく話し終われば、お蘭は赤くなり、青くなりしながら聞いていたが、最後には平常心に戻り、
「何の水くさい、別れ話は止めて下され、誰が男を坊主にさせていいものか、聞けば皆殿様が余計なお世話をしただけのこと。ここだけをお日様が照らす訳でもなく、手に手を取って、逃げるのは造作も無いこと。何の何の、亭主が女房に言い訳するには及ばず、ホホ、気を大きくしてもう少しお飲みなされ。後の話は酒に暖まってから、寝てから」と肝の太い女、立ち上がって戸締まりをして来て、坐ってからまた一盃仰ぎ、
「ああ、お星様が落ちたのを見たら薄ら寒くなった。チョッ、何がどうしたって、どうなるものか、ホホホ、惚れた弱みで負けてやる」と……。
つづく